第12回 二代目天照大御神の共立
前回までに述べてきたとおり、魏志倭人伝と記紀神話にはおおよその双対性(そうついせい)が認められるため、両書の相乗効果により、2000文字に満たない魏志倭人伝の言葉足らずの所を記紀神話で補うことができます。今後もしばらく両書の話を追っていきますが、高天原(邪馬台国)とか、天照大御神(卑弥呼)とか、須佐之男命(男弟)のように記述するのは煩雑なので、「高天原」は邪馬台国でもあり、「天照大御神」は卑弥呼でもあり、「須佐之男命」は男弟でもある、と考えて読み進めてください。記紀のあらすじと神々の系図は第9回を見てください。 須佐之男命は海原を治める任務を果たさずに泣きわめいているので、伊邪那岐命は、須佐之男命を出雲へ追放することにしました。しかし、「高天原を奪うつもりか」と天照大御神に疑念を抱かれたため、身の潔白を証明するために天の安河を挟んで天照大御神との誓約(うけい:吉凶の占い)をしました。その結果、多紀理比売命(たぎりひめのみこと)、市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)、田岐津比売命(たぎつひめのみこと)の宗像三神(むなかたさんしん)の女神が産まれ、さらに天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、天之菩卑命(あめのほひのみこと)なども産まれました。 これらの神々は天照大御神や須佐之男命などの次の世代の天津神で、後に、多紀理比売命と田岐津比売命は出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)の妻となり、市寸島比売命は饒速日命(にぎはやひのみこと)の妻となります。また、天之忍穂耳命は高天原の後継者となり、天之菩卑命は出雲へと天降る(あまくだる)ことになります。 宗像三神は宗像大社(むなかたたいしゃ)に祀られています。宗像大社は宮が3か所あり、それぞれに一柱ずつ祀られています。宗像大社によれば、玄界灘にある沖の島にある沖津宮には多紀理比売命が祀られていて、九州島に近い大島にある中津宮には田岐津比売命が、九州島の田島地区にある辺津宮(へつみや)には市寸島比売命が祀られています。ただし、どの宮にどの女神が祀られているかは古事記と日本書紀、日本書紀の一書(あるふみ)群の記述に相違があり、宗像大社は日本書紀本文を採用しているようです。なお、沖の島の宝物8万点はすべて国宝になっており、宗像大社全体は2017年に世界文化遺産に登録されました。また、中津宮と辺津宮は誰でも参拝できますが、沖津宮のある沖の島は島全体が御神体であるため、上陸できるのは神職などの男性に限られます。その代わりに中津宮のある大島には誰でも遠望できる沖津宮遙拝所が設けられています。 さて話を戻して、須佐之男命は高天原を暴力的に奪おうとします。そんな高天原が混乱している時期に、「山川のすべてが動き国土が皆揺れた」と古事記にあります。これは高天原時代の地震の記憶だと思います。一方、高天原時代よりずっと後の天武7年(西暦679年)12月の記録として、日本書紀には、「この月に筑紫国、大いに地動く。地裂けること広さ二丈(幅約6m)、長さ三千余丈(約9km)。百姓の舎屋、村毎に多く倒れ壊れた」と記されています。この地震は筑紫地震と呼ばれていますが、近年の発掘調査で、久留米市からうきは市に至る水縄(みのう)断層が動いて起きたM(マグニチュード)7.0前後の地震だったと特定されています。 また近年では、1700(元禄13)年4月15日に壱岐対馬地震(M7.0)が起き、1898(明治31)年8月10日に糸島地震(M6.0)が起きています。そして私は2005年3月20日の福岡県西方沖地震(M7.0)に遭遇し、福岡市は震度6弱の激しい揺れにみまわれました。福岡県には筑紫野市から春日市を経て福岡市へと続く警固(けご)断層が知られていましたが、福岡県西方沖地震は、警固断層の北西方向へ伸びる、それまで知られていなかった海底断層が動いた地震でした。 古事記に記された「山川のすべてが動き国土が皆揺れた」が大地震の記憶であるとすれば、警固断層が動いた可能性があります。警固断層は奴国の王都であった須玖岡本遺跡のすぐ東側を南東方向から北西方向に伸びているため、奴国は壊滅的な被害を受けたはずです。このことが一大率のような漢字を使いこなせる官人により記録され、後世の大和朝廷へと伝承された可能性があります。 大地震にとどまらず、須佐之男命は「田んぼの畔を壊したり溝を埋めたり、神殿に糞を撒いて穢(けが)した」荒(すさ)ぶ神として記されています。これは九州に常襲する台風や低気圧による暴風雨や洪水による被害を連想させます。近年でも、2017年7月に活発な梅雨前線により福岡県朝倉市や大分県日田市などの筑後川流域で線状降水帯が発生し、500ミリ前後の記録的な大雨により、死者行方不明者41名をはじめ、家屋の全半壊、床上浸水などの甚大な被害が発生しました。そもそも古事記に記された須佐之男命の正式名は建速須佐之男命(たけはや すさのお のみこと)で、猛(たけ)く、速く、荒(すさ)ぶる男神なのです。 不運は重なるもので、天照大御神が亡くなる頃の247年3月24日と248年9月5日には2年連続の皆既日食が北部九州の高天原を襲いました。天照大御神が石屋戸に隠れて暗闇となった際、天宇受売命は楽しそうに遊び神々は笑いました。この状況を不思議に思った天照大御神は天の石屋戸を「細めに開けて」外の様子をうかがいました。この「細めに開けて」の描写は、あたかも皆既日食が終わる瞬間に見られる太陽のダイヤモンドリングの輝きのように思えます。太陽のダイヤモンドリングとは、月の谷間から逸(いち)早く漏れる強い光がダイヤモンドの輝きに見え、周囲のコロナがリングとなって指輪のように見える現象です。 さらに、天照大御神が神の衣を織っている時に屋根から斑駒(ぶちこま:まだら模様の馬)を落し入れたことは積乱雲による竜巻災害を思わせます。竜巻は現代で言えばトラックまでも上空に巻き上げて周辺部に落下させる威力を持っています。注目すべき点は、須佐之男命が屋根から斑駒を落し入れた時の記述が古事記と日本書紀とでは微妙に異なっていることです。 古事記では、天照大御神が機織女(はたおりめ)に神衣を織らせていた時に斑駒が落ちてきて、「機織女」が驚いて機織りの道具である杼(ひ:横糸を通すシャトル)で自らの女陰を突いて死んでしまいます。そして、これを見て衝撃を受けた天照大御神は天の石屋戸(あまのいわやど)に隠れます。一方、日本書紀では、「天照大御神」が機織りをしていた時に斑駒が落ちてきて、驚いた天照大御神は杼で自らを傷つけましたが、天照大御神は死なずに天の石屋戸に隠れます。 つまり、記紀のいずれもが天照大御神が死んだとは記していないのですが、ともに天の石屋戸に隠れてしまいます。「隠れる」というのは死の隠喩に使われることが多いので、やはり天照大御神は死んだのでしょう。死因は杼で自らの女陰を突いたことにあるので、人災や天災の責任を取って「自決」したと見るのが妥当でしょう。そして北部九州を襲った日食は、天を照らす太陽神が天の石屋戸に隠れた(実際は自決した)ために高天原が真っ暗闇になったのだと八百万の神々に合理化されて理解されたのでしょう。では、記紀はなぜ死んだとはっきり書かないで天の石屋戸に隠れたとぼかしたのでしょうか。それは直後に天照大御神を復活させるための布石だと思います。 さて、第7回で述べたとおり、卑弥呼は247~248年頃に死にますが、魏志倭人伝からは狗奴国との戦争での戦死したのか、霊力の衰えを責められて王殺しが行われたのか、寿命が尽きただけなのか、あるいは別の理由があるのか決め手がありませんでした。でも、魏志倭人伝と双対性のある記紀には天照大御神は責任を取って自決したことが暗示されています。このように両書の双対性を利用することにより古代史の解像度は格段に上がるのです。魏志倭人伝は誤りだらけで記紀神話は作り話だとして両書を相殺して辻褄を合わせる邪馬台国奈良説とは雲泥の差です。 大地震や豪雨災害に見舞われ、2年連続で皆既日食が起きたことを、荒ぶる神の象徴である須佐之男命の乱暴、狼藉として記紀は描写したのだと思いますが、魏志倭人伝に記されている狗奴国との戦争が記紀にはありません。狗奴国との戦争も含めてすべてを須佐之男命に責任転嫁させ、高天原に敵対する国があったことを隠した孤高の国として記録に残したのでしょう。 天照大御神の弟の須佐之男命は、実は狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみここ)なのではないかと考える人もいます。しかし、魏志倭人伝には「女王国の南に狗奴国があり男王が治めている。狗奴国は女王国(邪馬台国)に属していない」と記されています。つまり、須佐之男命は天津神であり、狗奴国の卑弥弓呼は国津神なので別人であることは確かです。 さて、天照大御神は人災や天災の責任を取って自決してしまったので、神々は天の安河原(あまのやすかわら)に集まり、高御産巣日神の御子である知恵袋の天思兼命(あめの おもいかねのみこと)に善後策を考えさせました。この天の安河原は安本美典氏の言うとおり朝倉市を流れている安川(やすかわ)でしょう。安川は小石原川のことですが、今でも夜須川(やすかわ)とも呼ばれていることは第9回に書きました。 さて、天思兼命は、長鳴鳥を集めて鳴かせましたが、これは日食が起こったことに驚いたニワトリが自然に鳴いたことが印象に残り記録されたのでしょう。実際に日食が終わる頃にニワトリが夜明けと勘違いして鳴くことが近年の研究で確認されています。 また、「天の金山」の鉄を採って鍛冶師の天津麻羅(あまつまら)と石型を作る石凝姥命(いしこりどめのみこと)に「八咫鏡(やたのかがみ)」を作らせました。この金山は福岡市早良区(伊邪国)と佐賀県の県境にある金山(かなやま:967m)と私は推定しています。早良平野は鉄資源と精錬工房に富んでいます。天津麻羅の名前は邇芸速日(にぎはやひ)が奈良へ天降る時にも登場します。また、石凝姥命の名前は「石の鋳型に金属を流して凝固させて鏡を鋳造する年配の女神」という意味だと思います。 さらに、天の香山(あまのかぐやま)の鹿の肩の骨で占いをして、天の香山の桜または榊(さかき)の木を根から掘り起こして、上の枝に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を懸け、中の枝に八咫鏡(やたのかがみ)を懸け、下の枝に楮(こうぞ)の幣(ぬさ)を懸けて祝詞(のりと)を唱えました。この天の香山(あまのかぐやま)は安本美典氏により福岡県朝倉市杷木志波の190メートルの香山(こうやま)と推定されています。香山は現在、高山(こうやま)とも書かれます。奈良にある天の香具山(あまのかぐやま=高天原にあった かぐやま)は、朝倉盆地にあった香山の名前を運んだことも第9回に書きました。 高天原の宮殿があった所は、今の福岡県朝倉市の一ツ木(ひとつぎ)・小田(おた)台地だと思います。ここには一ツ木神社が鎮座しており「太神宮(たいじんぐう)」とも呼ばれています。天照大御神を祀る三重県の伊勢神宮内宮も「皇大神宮(こうたいじんぐう)」の別名があり、一ツ木神社の祭神の「太神」は天照大御神だと考えられます。 一ツ木・小田台地の西隣りには平塚川添遺跡があり、遺跡の西隣りには「鷂天(はいたかてん)神社」が鎮座しています。この神社は拝高天神社または高天神社とも呼ばれていて、祭神は高御産巣日神と天照大御神です。鷂(ハイタカ)は鷹の一種ですが「拝高」の転化と言われており、高天神社は高天原や高御産巣日神を連想させます。 天宇受売命(あめのうずめのみこと)は矛(ほこ)を手に持って肌も露わに歌い踊ると八百万(やおよろず)の神々は皆楽しそうに笑いました。この神々の様子は、魏志倭人伝に書かれている、「葬儀に際しては歌い舞い酒盛りをする」という歌舞飲酒(かぶいんしゅ)を思い起こさせます。現代でも天寿をまっとうした人の葬儀では、酒を酌み交わした和やかな雰囲気の中で笑いが漏れることもあります。天照大御神は老衰ではなく自決したと考えられますが、相当の高齢であったことは確かです。天照大御神の葬儀には、勾玉と鏡と矛の三種の神器の他に、榊や幣、祝詞などが登場しており、これらは神道の儀式そのものであり、やはり卑弥呼の鬼道は神道と考えて良さそうです。 天照大御神が天の石屋戸を細めに開けた時に、天宇受売命は「あなたより貴い神が現れたので喜んでいるのです」と言いました。この貴い神とは血筋は貴いのに暴力的に高天原を奪おうとした須佐之男命のことが暗示されていると思いますが、須佐之男命が後継者になることは国中(八百万の神々)から支持されませんでした。そこで、天手力男神(たじからのおのかみ)は少し天の石屋戸が開いた瞬間を逃さずに天照大御神の手を取って外に引き出して、必死で天照大御神を復活させて、高天原を再び明るくさせたのです。 天照大御神を復活させたと言っても自決した者が生き返ることはありません。高天原が再び明るくなったのは「二代目天照大御神」が現れたからだと思います。二代目天照大御神も卑弥呼と同様に国中(八百万の神々)から共立されたのです。記紀によれば、一代目天照大御神の後継者は、誓約(うけい)で生まれた天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)ということになっていますが、この男神はまったく活躍しません。代わって高天原を統治したと記されているのは、高御産巣日神(高木神)と復活した天照大御神の二神なのです。この二代目天照大御神が誰に相当するのかというと、高御産巣日神の娘の万幡豊秋津師比売命(よろずはた とよ あきずしひめ)だと思います。万幡豊秋津師比売命は、まったく活躍しない後継者である天之忍穂耳命の妻です。万幡「豊」秋津師比売命と卑弥呼の後継者の「台与」とは、「とよ」という音韻が一致していています。つまり父親が娘の後見人となり高天原を統治する一方で、娘の夫は名目上の後継者になったと考えられます。万幡(よろずはた)の名前の由来は、万事に霊験あらたかな帯方郡からもらった錦の御旗である黄幢(黄色い軍旗)のように思います。台与も卑弥呼と同様に、張政から檄文により激励されているので黄幢を引き継いで狗奴国と戦ったのです。 魏志倭人伝では、卑弥呼の後継者として男王を立てたところ国中が不服で争いになり、代わって13歳の一族の娘の台与(とよ)を立てたら争いは収まったとあり、記紀では、須佐之男命が高天原を奪おうとしたが国中から支持されず、天照大御神(万幡豊秋津師比売命)を復活させたとあり、両書の筋書きはピタリと一致します。投馬国(台与国、豊の国)に高木神社がたくさん鎮座しているのも、高木神は豊の国に本拠地を遷した娘の後見人であるため当然のことです。 明治時代の東京帝国大学教授である白鳥庫吉(しらとりくらきち:1865~1942年)は『倭女王卑弥呼考』で、天照大御神も卑弥呼も、共に女王で宗教の主宰者で夫はおらず弟がいることに加え、天照大御神の天の石屋戸事件と卑弥呼の死の前後の筋書きが酷似している点を挙げて、「何人(なんびと)もこれを否認すること能(あた)はざるべし(誰も卑弥呼と天照大御神の様子が酷似していることを否定することはできない)」と述べています。邪馬台国問題と高天原問題とは、諸文献を素直に読めた白鳥庫吉により明治時代に解決済みだったのです。邪馬台国奈良説は記紀神話(記紀実話)を全否定しているので、何人(なんびと)も否認できないという白鳥庫吉説を否認していることになります。 白鳥庫吉説のとおり天照大御神が卑弥呼であることを素直に受け入れれば、記紀の豊かな情報の下で霧の中から日本のあけぼのの姿が立ち現れてきます。一方、奈良は邪馬台国の時代から一貫してスゴイ都だったと思い込んでしまうと、邪馬台国奈良説の学者も言っている「謎の3世紀、謎の4世紀」という濃霧の中をいつまでたってもさまようことになります。大和朝廷の編纂した記紀を否定して日本の古代史を謎のまま放置することは本当に許されることなのでしょうか。第2回に書いたとおり、纏向遺跡はいずれも4世紀の天皇である第十代崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)や、第十一代垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、第十二代景行天皇の纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)の伝承地にあります。このため、これらの天皇の宮殿として研究を進めることが纏向遺跡の価値を高めることになり、ひいては日本の古代史を前進させることになると思います。 高橋 永寿(たかはし えいじゅ) 1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。
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