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第12回 二代目天照大御神の共立

 前回までに述べてきたとおり、魏志倭人伝と記紀神話にはおおよその双対性(そうついせい)が認められるため、両書の相乗効果により、2000文字に満たない魏志倭人伝の言葉足らずの所を記紀神話で補うことができます。今後もしばらく両書の話を追っていきますが、高天原(邪馬台国)とか、天照大御神(卑弥呼)とか、須佐之男命(男弟)のように記述するのは煩雑なので、「高天原」は邪馬台国でもあり、「天照大御神」は卑弥呼でもあり、「須佐之男命」は男弟でもある、と考えて読み進めてください。記紀のあらすじと神々の系図は第9回を見てください。

 これらの神々は天照大御神や須佐之男命などの次の世代の天津神で、後に、多紀理比売命と田岐津比売命は出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)の妻となり、市寸島比売命は饒速日命(にぎはやひのみこと)の妻となります。また、天之忍穂耳命は高天原の後継者となり、天之菩卑命は出雲へと天降る(あまくだる)ことになります。

 古事記に記された「山川のすべてが動き国土が皆揺れた」が大地震の記憶であるとすれば、警固断層が動いた可能性があります。警固断層は奴国の王都であった須玖岡本遺跡のすぐ東側を南東方向から北西方向に伸びているため、奴国は壊滅的な被害を受けたはずです。このことが一大率のような漢字を使いこなせる官人により記録され、後世の大和朝廷へと伝承された可能性があります。

 大地震にとどまらず、須佐之男命は「田んぼの畔を壊したり溝を埋めたり、神殿に糞を撒いて穢(けが)した」荒(すさ)ぶ神として記されています。これは九州に常襲する台風や低気圧による暴風雨や洪水による被害を連想させます。近年でも、2017年7月に活発な梅雨前線により福岡県朝倉市や大分県日田市などの筑後川流域で線状降水帯が発生し、500ミリ前後の記録的な大雨により、死者行方不明者41名をはじめ、家屋の全半壊、床上浸水などの甚大な被害が発生しました。そもそも古事記に記された須佐之男命の正式名は建速須佐之男命(たけはや すさのお のみこと)で、猛(たけ)く、速く、荒(すさ)ぶる男神なのです。

 不運は重なるもので、天照大御神が亡くなる頃の247年3月24日と248年9月5日には2年連続の皆既日食が北部九州の高天原を襲いました。天照大御神が石屋戸に隠れて暗闇となった際、天宇受売命は楽しそうに遊び神々は笑いました。この状況を不思議に思った天照大御神は天の石屋戸を「細めに開けて」外の様子をうかがいました。この「細めに開けて」の描写は、あたかも皆既日食が終わる瞬間に見られる太陽のダイヤモンドリングの輝きのように思えます。太陽のダイヤモンドリングとは、月の谷間から逸(いち)早く漏れる強い光がダイヤモンドの輝きに見え、周囲のコロナがリングとなって指輪のように見える現象です。

 さらに、天照大御神が神の衣を織っている時に屋根から斑駒(ぶちこま:まだら模様の馬)を落し入れたことは積乱雲による竜巻災害を思わせます。竜巻は現代で言えばトラックまでも上空に巻き上げて周辺部に落下させる威力を持っています。注目すべき点は、須佐之男命が屋根から斑駒を落し入れた時の記述が古事記と日本書紀とでは微妙に異なっていることです。

 つまり、記紀のいずれもが天照大御神が死んだとは記していないのですが、ともに天の石屋戸に隠れてしまいます。「隠れる」というのは死の隠喩に使われることが多いので、やはり天照大御神は死んだのでしょう。死因は杼で自らの女陰を突いたことにあるので、人災や天災の責任を取って「自決」したと見るのが妥当でしょう。そして北部九州を襲った日食は、天を照らす太陽神が天の石屋戸に隠れた(実際は自決した)ために高天原が真っ暗闇になったのだと八百万の神々に合理化されて理解されたのでしょう。では、記紀はなぜ死んだとはっきり書かないで天の石屋戸に隠れたとぼかしたのでしょうか。それは直後に天照大御神を復活させるための布石だと思います。

 さて、第7回で述べたとおり、卑弥呼は247~248年頃に死にますが、魏志倭人伝からは狗奴国との戦争での戦死したのか、霊力の衰えを責められて王殺しが行われたのか、寿命が尽きただけなのか、あるいは別の理由があるのか決め手がありませんでした。でも、魏志倭人伝と双対性のある記紀には天照大御神は責任を取って自決したことが暗示されています。このように両書の双対性を利用することにより古代史の解像度は格段に上がるのです。魏志倭人伝は誤りだらけで記紀神話は作り話だとして両書を相殺して辻褄を合わせる邪馬台国奈良説とは雲泥の差です。

 大地震や豪雨災害に見舞われ、2年連続で皆既日食が起きたことを、荒ぶる神の象徴である須佐之男命の乱暴、狼藉として記紀は描写したのだと思いますが、魏志倭人伝に記されている狗奴国との戦争が記紀にはありません。狗奴国との戦争も含めてすべてを須佐之男命に責任転嫁させ、高天原に敵対する国があったことを隠した孤高の国として記録に残したのでしょう。

 さて、天思兼命は、長鳴鳥を集めて鳴かせましたが、これは日食が起こったことに驚いたニワトリが自然に鳴いたことが印象に残り記録されたのでしょう。実際に日食が終わる頃にニワトリが夜明けと勘違いして鳴くことが近年の研究で確認されています。

 一ツ木・小田台地の西隣りには平塚川添遺跡があり、遺跡の西隣りには「鷂天(はいたかてん)神社」が鎮座しています。この神社は拝高天神社または高天神社とも呼ばれていて、祭神は高御産巣日神と天照大御神です。鷂(ハイタカ)は鷹の一種ですが「拝高」の転化と言われており、高天神社は高天原や高御産巣日神を連想させます。

 天宇受売命(あめのうずめのみこと)は矛(ほこ)を手に持って肌も露わに歌い踊ると八百万(やおよろず)の神々は皆楽しそうに笑いました。この神々の様子は、魏志倭人伝に書かれている、「葬儀に際しては歌い舞い酒盛りをする」という歌舞飲酒(かぶいんしゅ)を思い起こさせます。現代でも天寿をまっとうした人の葬儀では、酒を酌み交わした和やかな雰囲気の中で笑いが漏れることもあります。天照大御神は老衰ではなく自決したと考えられますが、相当の高齢であったことは確かです。天照大御神の葬儀には、勾玉と鏡と矛の三種の神器の他に、榊や幣、祝詞などが登場しており、これらは神道の儀式そのものであり、やはり卑弥呼の鬼道は神道と考えて良さそうです。

 天照大御神を復活させたと言っても自決した者が生き返ることはありません。高天原が再び明るくなったのは「二代目天照大御神」が現れたからだと思います。二代目天照大御神も卑弥呼と同様に国中(八百万の神々)から共立されたのです。記紀によれば、一代目天照大御神の後継者は、誓約(うけい)で生まれた天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)ということになっていますが、この男神はまったく活躍しません。代わって高天原を統治したと記されているのは、高御産巣日神(高木神)と復活した天照大御神の二神なのです。この二代目天照大御神が誰に相当するのかというと、高御産巣日神の娘の万幡豊秋津師比売命(よろずはた とよ あきずしひめ)だと思います。万幡豊秋津師比売命は、まったく活躍しない後継者である天之忍穂耳命の妻です。万幡「豊」秋津師比売命と卑弥呼の後継者の「台与」とは、「とよ」という音韻が一致していています。つまり父親が娘の後見人となり高天原を統治する一方で、娘の夫は名目上の後継者になったと考えられます。万幡(よろずはた)の名前の由来は、万事に霊験あらたかな帯方郡からもらった錦の御旗である黄幢(黄色い軍旗)のように思います。台与も卑弥呼と同様に、張政から檄文により激励されているので黄幢を引き継いで狗奴国と戦ったのです。

 魏志倭人伝では、卑弥呼の後継者として男王を立てたところ国中が不服で争いになり、代わって13歳の一族の娘の台与(とよ)を立てたら争いは収まったとあり、記紀では、須佐之男命が高天原を奪おうとしたが国中から支持されず、天照大御神(万幡豊秋津師比売命)を復活させたとあり、両書の筋書きはピタリと一致します。投馬国(台与国、豊の国)に高木神社がたくさん鎮座しているのも、高木神は豊の国に本拠地を遷した娘の後見人であるため当然のことです。

 明治時代の東京帝国大学教授である白鳥庫吉(しらとりくらきち:1865~1942年)は『倭女王卑弥呼考』で、天照大御神も卑弥呼も、共に女王で宗教の主宰者で夫はおらず弟がいることに加え、天照大御神の天の石屋戸事件と卑弥呼の死の前後の筋書きが酷似している点を挙げて、「何人(なんびと)もこれを否認すること能(あた)はざるべし(誰も卑弥呼と天照大御神の様子が酷似していることを否定することはできない)」と述べています。邪馬台国問題と高天原問題とは、諸文献を素直に読めた白鳥庫吉により明治時代に解決済みだったのです。邪馬台国奈良説は記紀神話(記紀実話)を全否定しているので、何人(なんびと)も否認できないという白鳥庫吉説を否認していることになります。


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

  1. 月巴の国の住人

    邪馬台国九州説に賛成です。
    筑紫野は月日野の転訛ではないかと思います。つまり、天照大神(卑弥呼)の国である日の国と月読尊の国である月の国を総称して月日野と呼んだのではと推測します。
    月読尊は夜之食国(よるのおすくに・よるおすのくに)を治めたといいますが、夜須という地名こそがその名残なのではないでしょうか。また筑前、筑後地方(特に筑後地方)に異例に多くの月読神社があります。
    さらに、筑紫平野の三から始まる始まる地名にも注目するべきです。特に三津、三根、三輪これらの先頭の三を取り除いて一文字にすると津、根、輪これらは、瀬織津姫の津、根の国の根、倭国の倭に対応すると推理します。三は尊称の御の意味を持っているというより、三が御(み)という発音のルーツになっているようです。ではこの三は何を意味するのかという事ですが、三貴子の三ではないかと思います。

    まさに記紀と魏志倭人伝の接点はここ筑紫平野にしかないように思います。

    • boryudo

      コメントありがとうございます。傍流堂です。

      以下、筆者・高橋永寿さんからのコメントです。よろしくお願いいたします。

      「連載へのコメントありがとうございます。とても参考になります。
      私は、筑後地方では久留米市田主丸の月読神社しか見付けられませんでした。
      福岡のどの辺に月読神社があるのか教えていただければうれしいです。
      今後とも連載へのご意見をよろしくお願いします。」

  2. 月巴の国の住人

    傍流堂担当者様ならびに高橋永寿様へ

    拙速で分かりにくい文章で申し訳ございません。

    月読神社の分布は筑後地方と言うよりも筑紫平野の筑後川流域に広く分布しています。
    私はグーグルMapにて検索をかけた所10か所弱の月読神社がヒットしました。
    但しここで注意して頂きたいのは、地図の検索範囲等の条件で一定した検索結果数にはならない事と、
    月読神社として独立した神社ばかりでは無く、ほかの神社の境内社として月読神社がある事です。
    検索結果を多くしたい場合は筑紫平野東半分に範囲を絞って月読神社・月讀神社と2回打って検索すると
    漏れを少なく検索できるようです。

    私が最初にこの検索結果に驚いたのは、筑州内(筑前・筑後)の分布の多さと対照的に対岸の肥前には月読神社が無かった事です。

    このほかに月読尊の手がかりとして、筑後川の別名である一夜川・東隣りの豊後国国境の夜明という地名も夜之食国の存在を匂わせます。
    また、月読尊は竹をシンボルとしていたようです。

    • 高橋 永寿

      月読神社、月讀神社についての情報提供ありがとうございました。お陰様で 私もいくつかの月読神社を見付けられました。
      月読命について記紀に記されているのはほぼ生誕説話だけなので、高天原や邪馬台国の探索には取っ掛かりが少ないように思っています。
      壱岐市芦辺町の月讀神社は延喜式にも載っていて古い社格をもつようです。夜明の地名については不確かですが近世に名付けられた可能性もあります。今後ともよろしくお願いします。

      • 月巴の国の住人

        高橋様

        ご返信ありがとうございます。
        月読尊に関して手がかりが無いのは、抹消の歴史があるからだと思います。
        ずばり言って「星の一族」の対立相手だったからだと思います。
        私は筑紫君磐井は月日君磐井で月読尊直系の子孫で「月の一族」だったと考えています。
        この月の一族こそが名実ともに九州を統一した勢力だと妄想しています。
        では私が勝手に名付けた「星の一族」とは何か?に関しては後日いたしたいと思います。

        話題を変えまして
        以前、三津が瀬織津姫の津、三根が根の国の根、三輪が倭国の倭を意味するのではないかと書きましたが、ここでその根拠を述べたいと思います。

        先ず瀬織のセオリですが、脊振に対応するのではないかと考えています。本来の漢字は「瀬降り」でフリともオリとも読めるこの字ではないかと。つまり、瀬降り+(御)津で瀬降り津が本来の地名で何らかの意図で脊振という漢字でマスキングされたのではないかといった推理です。実際に田手川上流山間部は急傾斜で一直線の瀬(急流)が一気に流れ落ちていて瀬降りという漢字の意味をあてた方が相応しいのです。

        次に三根についてですが、吉野ヶ里の平野の最も南に位置し当時は有明海の干潟の海に面していたと考えられるからです。
        ですが、今ここで地図を見ると現在田手川は三根方面には流れず千代田方面に流れています。
        実は古代には田手川ではなく、井柳川「いやなぎがわ」に流れていました。
        井柳川こそが古代の本流だったのです。

        後世この流れが意図的というか強引に西に曲げられ田手川に付け替えられています。
        その証拠として不自然な屈曲部に大曲(おおまがり)という地名が当時の人々によって残されたのだと思います。
        つまり古代田手川は井柳川として真っすぐ南の三根(根の国)に注いで神聖な川として崇められていたようで柳という邪気払いの意味を持つ木が川の名前に付けられています。

        最後に三輪が倭国の倭ではないかという事ですが、福岡平野+筑紫平野のほぼ中央にあり物流や統治に最適な場所だと考えられるからです。
        この合理性が奈良の三輪には欠如していると思います。
        現代人の感覚では川は交通の障害と思われがちですが、古代から近世に至るまで川や水路こそが舟運が物流の中心でした。特に有明海の干満差は大きく労せずして平野の奥へ舟が往来できるので大量の物資の移動が行える環境だったと思います。

        以上奇想天外な文章を連ねました事をお許しください。

        文章力が皆無のため物語のプロット程度位に見ていただければ幸いです。

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