第19回 哲学者か、それとも哲学研究者か?
哲学者と哲学研究者の区別がしばしば話題に上る。哲学者はみずから哲学するひとを指し、哲学研究者はそうした哲学者の成果について論じるひとを指す。この区別に基づいて、大学で哲学を教える教員はその大半がみずから哲学する哲学者ではなく、哲学研究者にすぎないといった指摘がなされたりする。 その伝で言えば、私などはもっぱらハイデガーのテクストを読み、それについて語るだけのしがない哲学研究者に分類されるだろう。そもそも私が学問を志した動機が、とにかくハイデガーの哲学を理解したいということだけであり、「私の哲学」を語りたいという野心をもったことは一度もなかった。そうした自分が哲学者を名乗るのはおこがましいと思ってきたし、哲学研究者と見なされることにとくに不満はない。 しかし2017年に刊行された拙著『ハイデガー『存在と時間』入門』の帯に「ハイデガー一筋の研究者」と書かれたときは、いささか気恥ずかしい思いがしないでもなかった。もちろん編集者はその惹句によって、私がハイデガー研究者として信頼に値する存在であることを示そうとしたにすぎない。しかしハイデガー業界では、ハイデガーに対して批判的な姿勢を取らず、彼の思想の紹介に徹するような態度は芸がないものとして嫌われている。こうしたコンテクストにおいては「ハイデガー一筋」という表現は決してほめ言葉にはならず、むしろ視野の狭さと思惟の硬直性を含意してしまう。そのため自分が上述のように呼ばれたとき、若干きまりの悪さを感じたのである。 今も述べたように、ハイデガー研究者の界隈では、ハイデガーだけを一心に研究するのは恥ずかしいことだという感覚が根強くはびこっている。もともとハイデガーを専門としない哲学研究者が、ハイデガーをうさんくさいと思うことはあってもおかしくない。しかし奇妙なことに、ハイデガーの専門家であると自認し、周りからもそう思われている人びとが、ハイデガーを一途に研究することをさげすむ態度を取るのである。 彼らもハイデガー研究者を名乗る以上、研究ではもちろんハイデガーを取り上げる。しかしこのとき彼らは、自分がハイデガーに全面的に信服しているわけではないという留保を付け加えることも忘れない。こうした留保をわかりやすく示しているのが、「ハイデガーとともに、ハイデガーに抗して(Mit Heidegger, gegen Heidegger)」というハイデガー研究者が好んで口にするモットーである。 このようなスタンスに基づいて、彼らはハイデガーの思想から都合のよいところだけをつまみ食いして、それが現代哲学の流行りの議論に何らかの示唆を与えうると論じたりする。またハイデガーの思索に何らかの限界や問題点を認めたうえで、その克服を他の哲学者のうちに見いだしたりするのも、よく見られる手法である。この後者のやり方は、ハイデガーのナチス加担を彼の思想の何らかの欠陥に由来するものと捉えて、その解決を彼の教え子だったアーレントやレヴィナスの哲学のうちに見いだすような議論に典型的に示されている。 このようにハイデガーと現代哲学を「架橋」するタイプの研究において、ハイデガーが自身の哲学の根本問題であるとする「存在への問い」は顧慮されることはない。こうしたハイデガー研究者たちに見られる「存在への問い」の切り捨てが、ハイデガーの著作『存在と時間』に対する異常に高い評価と表裏一体を成していることは前回の記事で指摘した。そこでも述べたように、『存在と時間』は「存在の意味」の解明を謳いながらも、その課題を果たすことなく未完のままに終わった著作である。したがって「存在」が何を意味するかは、その後の彼の仕事を参照しないと理解できない。『存在と時間』が「20世紀最大の哲学書」であり、またそれを読みさえすればハイデガーの哲学も理解できるという同書に対する高い評価は、同書が「存在への問い」の答えを示していない不完全な書物であるという事情をまったく無視している。つまりそうした過大評価は、彼の思索の核心に対する無関心と裏腹なのである。 しかしいずれにしても、ハイデガー研究者はハイデガーの哲学がどのようなものかについて語るとき、基本的には『存在と時間』を一番の基準にしている。彼らは『存在と時間』から抽出された「ハイデガーの思想」に立脚して、それが現代哲学の重要な問題に対してどのような示唆を与えうるかを論じたり、ないしはハイデガーの思想に見出される限界が他の哲学者によってどのように克服されたかを問題にしたりする。 今述べたように、これまでのハイデガー研究は基本的には『存在と時間』の内容さえ押さえれば、ハイデガーの思想は理解できるという前提のもとで遂行されてきた。このとき彼の「存在への問い」が何を意味するかはまったく無視されている。しかしこの「存在への問い」こそ、ハイデガーの思想をハイデガーの思想たらしめるもっとも根本的な問題である以上、当然のことながら、その意味を捉えられない限り、ハイデガーの哲学は理解できないはずだ。そもそもハイデガーの思想を現代の哲学的議論と結びつける場合も、まずは彼の思想をその核心において理解することが必要である。そして彼の思想の核心についての理解を欠く限り、それを他の哲学者の思想と結びつけたり比較したりするといったようなことは原理上、不可能であろう。 こうした事情があるにもかかわらず、相変わらずハイデガー研究者は「存在への問い」を素通りしていく。というのも、これまでの哲学では問われたことのない「存在」という事象の所在を見極めるのがやはり格段に難しいからである。しかも都合の悪いことに、ハイデガーは『存在と時間』を書いた時点では「存在」という事象の固有性を十分に表す言葉をもち合わせておらず、既存の哲学用語に依拠してそれを語っている。そのため読者はその用語を通常の意味で理解し、彼の哲学をこれまでの哲学の延長線上で捉えてしまう。こうして『存在と時間』はハイデガーの意に反して、近代的な主観的意識の哲学として、ないしは哲学的人間学として解釈されてしまう。 いったん『存在と時間』をこのように解釈すれば、もう「存在への問い」を問題にする必要はなくなってしまう。これに対して、ハイデガーを理解するには「存在」が何を意味するかを明らかにする必要があると異論を唱えたとしても、野暮なことを言うなと叱られるだけだ。今述べたような異論に対して、ハイデガー研究者が異口同音に返してくる答えが「自分はハイデガーと心中するつもりはない」といったものである。「存在」などというわけのわからないものに拘泥して、人生を無駄にするつもりはないというわけだ。 こうした立場を取るハイデガー研究者にとっては、ハイデガーが既存の哲学用語への依存を極力減らして、独自の言葉で「存在」について語りだす後期の思索などは無意味なたわごとにしか見えないだろう。実際、私が大学院生のとき、ある名の知られたハイデガー研究者に「ハイデガーの「存在」など真に受けても何も出てこないから、もっと現実的なことをやったほうがよい」とはっきり言われたことがある。その人物が推奨していたのは、分析哲学とハイデガー哲学を「架橋」する路線だった。彼曰く、このようにハイデガーを哲学のより一般的な問題連関のうちに位置づけて捉えないと、内輪でジャーゴンを振り回しているだけの頭の悪いハイデガー研究者になってしまうとのことだった。 ハイデガー研究を志す若手はこのように学生時代から、ハイデガーにどっぷりはまるのは不健全であるという話を聞かされる。私自身、少なくとも修士論文を書いていた時期は、そうした忠告を真に受けていた。しかしその後、博士課程に進んだころには、ハイデガーの哲学はその根本問題である「存在」を解き明かさない限り、理解することはできないという自明の真理に抗しきれなくなった。そもそも彼の「存在の思索」が無意味なたわごとだと言うのであれば、彼の哲学を取り上げるまでもなく、最初から別の哲学者を研究すればよいだけの話だ。私はこのように考えて、とにかく自分は「存在」が何を意味するかがわかるまでハイデガーに食らいつこうと決心した。 こうした姿勢はハイデガー研究者のあいだでは、批判精神を欠いた野暮な態度として敬遠される。「ハイデガー一筋の研究者」という表現が、ハイデガー業界では必ずしも称賛を意味せず、むしろ知的洗練を欠いた視野の狭い人物だという印象を与えかねないのもそのためである。本記事の冒頭で述べた「哲学者か、それとも哲学研究者か」という区別で言えば、「ハイデガー一筋の研究者」は独創性を欠いた哲学研究者、しかもハイデガーの秘教的な思索を盲信する最悪のタイプの哲学研究者と見なされるだろう。 しかしそう思われることを辞さず、私はあえて開き直ってハイデガーの「存在」の解明にこだわる道を選択した。もちろんそう決意したからといって、「存在」の意味がただちに明らかになるわけではない。もしかしたら何もわからないまま、一生を終えてしまうかもしれない。極端な話、ハイデガーが何の意味もないことをあたかも意味があるかのように語っているということもありうるのだ。 このようにハイデガーの「存在への問い」を真面目に受け取ることは、結果が見通せない賭けのようなものである。そうであるがゆえに、「存在への問い」には深入りせずに、『存在と時間』の「使えそうな部分」をピックアップして、それを現代哲学のさまざまなトピックと結びつけるのが合理的な選択だということにもなる。 しかし長年ハイデガーに取り組んで、先ほども言及した『ハイデガー『存在と時間』入門』を執筆している頃に、彼が「存在」として語っているものの所在がようやく見えてきた。それとともに、例の哲学者と哲学研究者の区別がそれほど自明なものではないと思われるようになってきた。 ハイデガーが「存在」について語っていることをある人が理解したとしよう。そのとき彼は、すでに自分自身で「存在」という事象を捉えていることになる。このように自分自身で捉えた「存在」を基準にして、彼はハイデガーの使用する独特の言語表現が「存在」という事象のこういった側面を問題にしているとか、「存在」を語るには実際、このような言い方をするしかないといった評価を下すこともできるようになる。つまりある人がハイデガーの「存在への問い」を理解したとすれば、彼はその段階で、「存在」に自分自身で向き合っており、「存在」について独自の思索を展開していることになる。このとき彼はハイデガーのテクストを扱うだけの哲学研究者であるにとどまらず、事柄そのものにみずから向かい合い、それについて思惟する哲学者になっているのである。 逆に「ハイデガーと心中する」ことを忌避する研究者も、ハイデガー研究者である以上、ハイデガーについて何らかの仕方で論じはする。彼らの売りは、わけのわからないハイデガーの言説を現代哲学の議論と結びつけて理解可能なものにするというものである。しかしそこで彼らがやっていることは、実質的にはハイデガーの言葉を「存在」の解明というその本来の目的から切り離して、それとは無縁の哲学的思惟の枠組みに押し込めることでしかない。しかもそうした枠組みは、ハイデガーがおのれの思索によって乗り越えようとしているその当のものである。このとき彼らはハイデガーの言葉をその本来の趣旨に反するような仕方で、自分のいいようにもてあそんでいるにすぎない。これこそ悪しき哲学研究と呼ぶべきものではないだろうか。 以上のことは次のように一般化できる。哲学研究者がある哲学者の思想を理解したとしよう。このとき、その哲学研究者は哲学者の捉えていた事象をみずから捉えている。そしてこのようにある哲学的な事象を捉えているということは、それを自分自身で思惟していることに他ならない。こうして哲学研究が真に哲学研究であろうとすれば、それは必ず事柄についてみずから哲学することそのものにならざるをえない。 もっとも、このように哲学研究が究極的には、みずから哲学することへと解消されるべきものだとしても、われわれは過去の哲学者の仕事を参照することなく、自分自身で哲学的事象を探り当てて、それについて思索することはできない。つまり真に哲学を遂行するためには、既存の哲学を検討するという意味での哲学研究を必ず必要とするのである。このように考えると、哲学することには哲学研究が必須の契機として属していることになるだろう。 こうして哲学と哲学研究は決して対立するものではなく、哲学が哲学研究を前提とし、おのれ自身の不可欠な契機とするという仕方で両者は一体となっている。これは哲学者と哲学研究者の関係で言うと、哲学者は必ず哲学研究者という側面をもつし、哲学研究者もおのれの本分を全うすれば哲学者であらざるをえないということである。 今述べたことに従えば、私がまともなハイデガー研究者であるとするならば、それだけですでに哲学者と名乗る資格をもつことになる。とはいえ、私は哲学者と名乗ることにはまだためらいを感じる。顧みれば、この躊躇は単なる謙虚さに由来するものというよりは、むしろ自分の思索をみずからの責任で引き受け、貫徹する覚悟の欠如によるものであろう。というのも、おのれをハイデガー研究者として規定する限り、自分はハイデガーの考えたことを祖述しているだけで、必ずしもその思想に賛同しているわけではないという逃げ道を残せるからである。こう考えると、私にとっては、みずから哲学者として名乗りを上げることこそ、ハイデガー研究者としての成就を示す最後の階梯だと言えそうである。 轟 孝夫 経歴 1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)、『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)、『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。
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