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第2回 「ドイツの国是」vs. ハイデガー

前回のエッセイで、X(旧Twitter)などのSNS上では、ハイデガーの著作の中でも『存在と時間』が群を抜いて人気があること、また同書が「存在への問い」という元来の意図に沿ってではなく、むしろ人生論としてのみ読まれていることを指摘した。エッセイではさらに、そうした『存在と時間』の人気とは裏腹に、拙著『ハイデガーの超‐政治』(明石書店)や『ハイデガーの哲学』(講談社現代新書)などで詳しく論じた「ハイデガー‐ナチズム問題」や後期の「存在の思索」に対する関心が薄いことを嘆いた。

このように述べた矢先、6月半ばの週末に、講談社の自社メディアにアップされた拙稿がXで突然、「バズり」だした。「『ハイデガーを読むのはやめなさい!』とマルクス・ガブリエルが日本人に警告したにもかかわらず、私たちがハイデガーを読むべき理由」という、いかにもネット向けの題を付された記事は[1]、拙著『ハイデガーの哲学』の「はじめに」からの抜粋である。実はその記事は『ハイデガーの哲学』が1年前に刊行されたときに、販売促進のために公開されたものであった。本年6月に禅僧の南直哉師と私のハイデガーをめぐる対談が同サイトに掲載された際に[2]、それとのタイアップで1年前の記事が再掲載されたのだった。

私は同記事で、2014年の刊行時、反ユダヤ主義的な内容を含むとして大きな物議を醸したハイデガーの「黒いノート」の覚書について、ドイツ人研究者の面前で、あえて短絡的な政治的非難を避けて、その哲学的趣旨の解釈を試みたところ、こうした中立的な態度そのものが政治的に不適切だと見なされて、彼らの不興を買った経験を記した。そしてドイツにおけるハイデガーに対する風当たりの厳しさの傍証として、同国の著名な哲学者マルクス・ガブリエルがある対談で、ハイデガーをナチだとこきおろしたうえで、だから自分は京都大学の講演でハイデガーを読むのはやめなさいと日本人に勧告したのだと述べている箇所を引き合いに出した。

この記事を生命倫理学者の森岡正博氏がXで引用し、ドイツでハイデガーがタブーとなっていることは本当らしく、自分もドイツ人研究者やドイツ在住の研究者からこの記事に書かれている状況と同じことを言われるというコメントを付してくださった[3]。この投稿が瞬く間に拡散されて、それが拙稿に対するさらなるコメントを呼び起こした。その結果、Xでは二日以上にわたって、「ハイデガー」というキーワードがトレンド欄に表示されるという異例の事態が生じたのであった。

1年前、講談社のサイトにアップされたときはほとんど注目されなかった拙著の抜粋が、今回、大きな反響を呼んだのは、2万数千人のフォロワーを抱えるインフルエンサーに紹介されたことを抜きには考えられないだろう。内容的には、日本では高い評価を受けて人気が高いハイデガーが、母国では政治的理由から忌避されていることが多くの人びとには意外に映ったようだった。

Xでの拙記事の引用リポストを見ていると、ハイデガーがドイツで不遇であることを意外に感じるとともに、そうしたハイデガーの扱いのうちに、いわゆる「政治的正しさ」に抵触する人物に対する「キャンセル・カルチャー」を見て取り、その行き過ぎを批判する論調も目立った。つまり拙稿はXにおいて近年、醸成されていた反ポリコレのセンティメントにアピールしたようである。そうしたポリコレに対する反感に拍車をかけたのが、日本人に対してハイデガーから距離を取るよう「上から目線」で勧告するマルクス・ガブリエルの傲慢な姿勢であった。

このようなガブリエルの徹底したハイデガー忌避を、現在進行中のガザ紛争における彼の徹底したイスラエル擁護の姿勢と結びつけて捉えた人も多かった。たしかにガブリエルに限らず、ハイデガーの「黒いノート」問題に示されているような、反ユダヤ主義と疑われるものに対するドイツ人の問答無用の拒否反応は、ドイツの首相が「イスラエルの安全保障はドイツの国是である」とまで言うほどのイスラエルに対する揺るぎない連帯の姿勢と表裏一体をなしている。

最近のニュースによれば、今後ドイツ国籍を取得する人は反ユダヤ主義を否定し、イスラエルの存在する権利を認めることを義務づけられるという[4]。ドイツ人である以上、ユダヤ人やイスラエルを脅かす言動、行動は一切許されないということだ。ハイデガーに対するドイツ人の厳しい対応は、まさにこの延長線上にある。

ガブリエルもこうした「国是」に沿う形で、ユルゲン・ハーバーマスなどとともに、ガザ紛争においてはイスラエルを擁護する論陣を張っている。このような著名な哲学者のイスラエル擁護にもともと違和感を覚えていた人たちが、これに連なる政治的姿勢をガブリエルのハイデガーに対する批判に見て取り、反発していたようであった。

ドイツにおけるハイデガーの不遇について語った拙稿は、1年前にサイトにアップされたときはさして話題にはならなかった。それが1年後にこのような大きな反響を呼んだのは、多数のフォロワーをもつインフルエンサーに紹介されたことに加えて、「政治的正しさ」に基づいたキャンセル・カルチャー全般に対する反感、さらにドイツではこの「政治的正しさ」の追求がガザ紛争におけるイスラエルの徹底擁護として表れていることに対する批判が、この1年のあいだに、記事の拡散の土壌として用意されていたことが要因としてあったかもしれない。

拙稿でも簡単に触れているが、ハイデガーは「ユダヤ的なもの」、より正確に言うと「ユダヤ‐キリスト教」の本質を「存在忘却」のうちに見て取っていた。そして、それがプラトン、アリストテレスに代表される古代ギリシアの形而上学とともに、近代の「主体性の形而上学」の形成に大きな役割を果たしたと捉えていた。つまりハイデガーからすると、西洋形而上学はそれ自身、「ユダヤ‐キリスト教的なもの」であり、その限りにおいて●●●●●●●●西洋形而上学は「ユダヤ的なもの」だと言いうるのである。

この西洋形而上学の近代的な完成形態が「主体性の形而上学」である。「主体性」とは存在者の計算的支配をどこまでも追求するものとして、それ自身「力への意志」という性格をもっている。ハイデガーはナチズムをそうした「近代的原理」への「全権委任」に基づいた体制として解釈したのである。

こうした解釈に基づいて、ハイデガーは「黒いノート」の問題の覚書で、ナチスが「主体性の形而上学」を体現する存在である限り、ナチスは「ユダヤ的なもの」と対決することを標榜しつつ、それ自身が「ユダヤ的なもの」であると批判する。ハイデガーからすれば、「ユダヤ的なもの」との真の対決は「主体性の形而上学」の克服を目指すものでなければならない。ナチスによるユダヤ人の迫害は、そうした「ユダヤ的なもの」の真の所在を見誤った徹頭徹尾、無意味な所業でしかない、こうハイデガーは捉えるのである。

ところで、もしハイデガーの言うとおり、ナチズムがそれ自身、「ユダヤ的なもの」であるとすれば、逆に「ユダヤ的なもの」は必ずしも「ナチズム的なもの」とは矛盾しないことになるだろう。これは昨今の国際情勢に当てはめれば、イスラエルはユダヤ的であるからといって、必ずしも「ナチズム的なもの」を免れているわけではないことを意味する。

このように述べることで、私はイスラエルを悪者にしたいわけではない。紛争のもう一方の当事者であるハマスも、ハイデガーの「存在史的」な観点からは、「主体性の形而上学」に規定された存在であることには変わりはない。さらに言うと、われわれが属している国家そのものが「主体性の形而上学」と無縁ではありえないのだ。

ハイデガーが求めていたのは、このような徹底した自己省察である。すなわち現代社会に見られる「悪」をある特定の主体に押しつけて自身の「悪」から目をそらすことなく、みずからのうちにある「主体性」の「悪」を直視することである。これが「ドイツの国是」と真っ向から衝突してしまったことは、ハイデガーにとって、またドイツにとっても実に不幸なことであった。


[1] https://gendai.media/articles/-/131410?page=1&imp=0
[2] https://gendai.media/articles/-/126276
[3] https://x.com/Sukuitohananika/status/1801885755922649112
[4] https://www.cnn.co.jp/world/35220813.html


轟 孝夫 経歴

1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。

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