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第2回 哲学の歴史は能動的に学ぼう

ネオ高等遊民です。今回は「哲学の歴史(=哲学史)を学ぶときの心構え」がテーマです。

タイトルがその答えで、「能動的に学ぼう」ということです。

では、どういうふうにすれば能動的に学んだと言えるのか。それは「自分が納得できる/おもしろいと思える理解を生み出すこと」です。これが自分なりにできれば、能動的に学んでいると言えるでしょう。

「理解を生み出す」といっても、ハイレベルでオリジナルな見解や新説を打ち出せという意味ではありません。そうではなくて、自分自身がおもしろいと思えるようになるために、哲学者やその哲学についての解説や研究の話を貪欲に吸収しよう、という意味です。自分にとっておもしろいと思えること、それがすべての始まりです。

哲学を能動的に学ぶ3つのステップ

そのためには、たとえばこんなアプローチがあげられます。

(1)哲学者・哲学書の背景を知る

(2)いくつかの解釈を知り、比較する

(3)自分自身の言葉で説明する

順に説明します。

(1)哲学者・哲学書の背景を知る

まず、どのような問題意識や時代背景のもとで哲学書が書かれたのかを知ることなどは、役に立ちます。

たとえばプラトンの哲学を学ぶのに、ヘラクレイトスやパルメニデスを知ると知らないとでは大違いです。そういう勉強にもっとも役立つのが哲学史です。

実際、拙著『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書』(以下、『ネオ哲学史』)でも、パルメニデスを西洋哲学史の中心に据えて、いろいろな哲学者をパルメニデスとの比較において解説しています。

しかもこの比較は決して恣意的ではなく、実際にパルメニデス(あるいはパルメニデス的な形而上学)を意識している哲学者がたくさんいるので、哲学の歴史を理解するうえでそれなりに役に立つ視座だと思います。

(2)いくつかの解釈を知り、比較する

次に、解説書・研究書の出番です。同じ哲学者を解説しても、解説する人によって視点も関心も内容もぜんぜん違ってきます。

たとえばハイデガー『存在と時間』の入門書・解説書は山ほどありますが、いずれも内容や著者の関心が微妙に異なります。どの本でも必ず触れられている箇所や、あまり触れられていない箇所など、比較すると濃淡が現れてくるでしょう。

そんなふうにいろいろ読んでいるうちに、自分自身の興味関心もだんだんと分かってきます。納得も共感もできる箇所、納得はできるけど共感はできない箇所、全然理解できないけど重要そうだと感じる箇所など、1人の哲学者・1つの哲学書だけでも、たくさん出てくるでしょう。

このようなやり方で勉強していれば、いろいろな関心や知識は少しずつ増えていきますが、哲学の理解としてはまだまだ漠然として、いろいろ散らかっていると思います。

(3)自分自身の言葉で説明する

そこで、3番目のステップです。自分自身の哲学への関心や知識を、どこかの段階でまとめて、形にしてみましょう。書いてみる・話してみるということですね。

言い換えれば、自分自身で、哲学の話を組み立てるということです。

書いたり話したりすれば必ず、あやふやな箇所、つながっていない箇所が出てきます。それらが1つにつながるような話の組み立てを考えるのです。

たとえば、拙動画の「何すご○○」シリーズがそれです。

「ゼノンのパラドックスって、どこがどう哲学なの?」という疑問から出発し、「アキレスと亀」や「飛ぶ矢」のパラドックスを紹介しています。そして、「思い込みの自覚と脱却」という点にパラドックスの哲学的意義を見出し、ゼノンの有名な逸話(僭主に敵対して殺された逸話)との密接な関連を示しました。

つまり、ある哲学者の思想を理解する筋立てや、話の組み立て方が、自分自身のオリジナリティ、自分なりの理解になるのです。

しかも、その筋立ては、決して一義的に定まるものではありません。ある哲学を解説するといっても、どのようにそれを理解し説明するかは、かなり自由なのです。

そのような学びを繰り返しながら、自分自身の関心や知識を深めていくと、だんだんと哲学が楽しくなってくるかと思います。

こんなことを言うのは、私自身がそのように哲学の歴史を学んできたからです。

その1つの集大成が、『ネオ哲学史』です。古代から現代までの哲学の歴史をコンパクトに解説しています。

以下では、『ネオ哲学史』を執筆するうえでの背景や刊行までの挑戦についてお話しつつ、私が考える「哲学を学ぶ意味」(「哲学を能動的に学ぶ」ということの意味)について語ってみたいと思います。

哲学の通史をひとりで書くことは、専門家でも難しい

『ネオ哲学史』の執筆は、私にとっては大きな挑戦でした。1人の著者が哲学の歴史全体(通史)を書くのは、専門家であっても難しいことだからです。なのに、非専門家の哲学YouTuberが(だからこそ)書いてしまったものが『ネオ哲学史』です。

では、いったい、ネオ高等遊民の哲学史が出版されることに、単なる商売上の利益のほかに、何の意味があるのでしょうか。

「専門家が書いたほうが、いい内容のものが読めるに決まっている。わざわざ買って読む価値がどこにあるのだろう?」と思われて当然かもしれません。

みんな哲学を通じて自分の解釈を磨いている

『ネオ哲学史』を刊行した意義は、専門家ではなくても、私たちは能動的に哲学を学べるのだということを示すことにあると考えています。

「専門家でも哲学の通史は書けない」などという考えは、思い込みにすぎません。今やだれもが歴史にかかわり、語ることができる時代なのです。

『ネオ哲学史』の「はじめに」でも書いたことですが、哲学には、数学や語学のような教科書がありません。哲学には公式や文法のようなルールがなく、みんなが納得する理解を作り出すことが難しいからです。

たとえば、デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という有名な言葉があります。

どんな哲学書でも当たり前のように取り上げられています。

しかし、本当のところ、デカルトのいう思考や存在をどう理解するかは、いまだに定説がありません。むしろ、多くの研究者が「こういう意味だ」と、新しい解釈を生み出し続けています。そういう新たな解釈から、デカルトの全体像についての理解が刷新されることさえあります。

つまり、哲学とは、すでに決まったルールを覚えたり、一定の操作に当てはめて理解したりするものではない、ということです。ひとりひとりが、能動的に自分の理解を生み出す営みが哲学です。

ですから、哲学は、受身の態度では決して学べるものではありません。自分の能動性や創造性を発揮していくことが、哲学を学ぶことに不可欠です。そのような能動性の実現のために、過去の哲学者や、その哲学についての解説や研究が、大いに役立ちます。

『ネオ哲学史』を通じて、多くの方が自分に固有な哲学とのかかわり方を見つけ、哲学の歴史を能動的に学んでいっていただけたら幸いです。

余談

「そんなこといっても、哲学に能動的に関われる人なんて、専門家かそれに近い人たちだけじゃないの?」

自分で書いていて、こんな疑問がわきました。

ということで、次回は「専門家と非専門家という枠組みなんて、壊してしまおう」という話をしてみたいと思います。


ネオ高等遊民

日本初の哲学YouTuber。タイ在住。著書『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書』(2024)。
YouTubeチャンネル「ネオ高等遊民:哲学マスター」:https://www.youtube.com/@neomin

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