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第5回 邪馬台国からの出土品

 魏の国と邪馬台国との外交について検討するために魏志倭人伝のその部分を再掲します。

 景初3年に卑弥呼は官人を魏の都の洛陽へ派遣し、使役人や麻布などを献上しました。ここで私は「使役人」と訳しましたが、魏志倭人伝には「生口(せいこう)」と書かれています。生口については奴隷説や職人説、芸人説などがありますが、私は奴隷説を採りません。なぜならば、魏の国が倭人の奴隷を引き受けても、使いこなせずに有難迷惑になりかねないと思うからです。それよりも、魏の国で役に立ちたいという意欲を持った職人や芸人と考えた方がいいと思うのです。でもこれは本筋とは関係ないこだわりです。

 一方、同時代の奈良からは銅鏡の代わりに魏志倭人伝に書かれていない銅鐸が出土します。しかし、後で詳しく説明しますが、280年頃に奈良に大和朝廷が誕生すると銅鐸は一斉に土中に埋められ、古墳を造って鏡(主に三角縁神獣鏡)を埋納するように激変します。これはまさしく、北部九州の邪馬台国が奈良へ進出した有力な証拠だと思います。

 ほんの一握りの官人だったとは思いますが、奴国時代から漢字を使いこなせる人材が確実にいた証拠です。邪馬台国時代に一大率(邪馬台国が派遣した監視官)が常駐する伊都国で硯が出土したという事実は特に重要で、魏志倭人伝の記述の信頼性を高めています。それだけでなく、奴国時代や邪馬台国時代の生の歴史が漢字で記録されていた可能性が高まり、その記録は8世紀初頭に書かれた古事記や日本書紀(記紀)へと受け継がれているように見えます。後の回で説明しますが、魏志倭人伝と記紀には同じ内容としか思えない説話が書かれているのです。

 奈良の纏向遺跡からベニバナの花粉が発掘されたため邪馬台国の先進性が証明されたと大騒ぎしていますが、ベニバナで染めた邪馬台国時代の絹製品はどこからも見つかっていません。むしろベニバナ花粉は纏向遺跡が邪馬台国時代より後の時代に繁栄した集落であることを証明しているのです。

 さて、ここで銅鏡や銅剣、銅鐸の銅と、銅に含まれる鉛について考えます。奴国時代や邪馬台国時代には、銅鏡や銅剣、銅鐸などのたくさんの青銅器が大陸から移入されたり、移入された青銅を原料として国内で青銅器が作られました。青銅(ブロンズ)とは、溶ける温度を下げるためと流動性を高めて加工しやすくするために、主原料の銅に錫(すず:Sn)や鉛( なまり:Pb )を混ぜた合金のことです。錫の割合が多いほど柔らかくなるようです。

 鉛の原子番号は82なので、陽子82個と電子82個から成り、中性子の数の違いにより4種類の同位体が知られています。すなわち、①質量204の鉛(=82+122)、②質量206の鉛(=82+124)、③質量207の鉛(=82+125)、④質量208の鉛(=82+126)です。鉛鉱床が生成した年代と生成条件によって4種類の鉛同位体の混合比率が決まるため、青銅器に含まれる鉛同位体比を分析することにより青銅器のグループ分けができて、どの地方の鉛鉱床から採掘された鉛であるのかを推定できます。

方格規矩四神鏡
写真1 方格規矩四神鏡
内行花文鏡
写真2 内行花文鏡
三角縁神獣鏡
写真3 三角縁神獣鏡

                             (図版作成:うさんぽデザイン/USA)


[1] 本図は、『季刊邪馬台国』60号(梓書院、1996年)掲載の図をもとに作成したものです。


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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