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第17回 ランプの夜

 実は一度、〝ランプの宿〟には行ったことがある。能登半島の先の先。東端にある一軒宿「よしが浦温泉 ランプの宿」は四半世紀前の、妻との最初の旅先であった。以来、思い出すことはあまりなかったが、2024年1月1日、能登半島に激震と津波が押し寄せた際、真っ先に脳裏をよぎったのはランプの宿。やはりと言うべきか、スタッフの多くの自宅が被害を受け、宿の浄化槽も破損したため休業を余儀なくされた。が、その後しばらくたって、こんな報も届いてきた。宿周辺が1メートル以上、隆起したことで「青の洞窟」と呼ばれていた溶岩洞窟も変形を余儀なくされ、しかし新たなる渚の出現で地球のダイナミズムをより一層、体感できるようになったという。怪我の功名と言うにはあまりにも大きな災害であったが、いまや「奥能登の超絶景ジオパーク」として世界中から熱視線が注がれるようになったのは喜ばしい限り。観光地としては少しずつ復活の兆しを見せているのは間違いなく、宿泊施設も再開したら、ぜひとも再訪したい。

 しかし今、青森県にあるこれとは別のランプの宿で一人の夜を過ごしてみると、あの能登の宿は異様にフロンティアスピリッツに満ちた宿であったと思う。まさに人里離れた土地。とはいえ、黒と白で統一されたスタイリッシュな木造建築、プール付きのエレガントな部屋、きらびやかな料理…これぞ辺境と洗練の融合であり、まさに時代を先取りしていた感がある。30年前はいわゆる観光地ではない場所に多額の資本と労力を投入する酔狂な人は決して多くなかった。シティホテルか、大型温泉旅館か、たんなる辺鄙な宿か。そうであるからこそ、まだ若かった(今もあまり変わっていないはずだが)我々はその物珍しさに惹かれたのである。お金の工面をし(とにかく当時はギリギリの生活だった)、多くの時間も掛けて、背伸びをしてみたのだ。

 金沢駅からはレンタカーを借り、主に海岸沿いの細い道をゆっくりと走った。ここで活躍したのが妻。僕は長らくペーパードライバーであり、いや、彼女もほとんど同じようなものだったが、苦手なことは人任せ、といった感じで無理やり運転させた覚えがある。まるで宇野千代の小説によく出てくるような、博打狂いのどうしようもない男であった、僕は。国内で唯一という、波打ち際を自動車で走れる「千里浜なぎさドライブウェイ」はタイヤが砂浜に沈み込むのではないかとハラハラしたし、1340枚を超える田んぼが棚のように連なっている「白米千枚田」には厳しい自然に敢然と立ち向かう人間の逞しさが垣間見えたし、それは急勾配の崖道をまるで落下するように降りていかざるを得ない地に築いたランプの宿にも言えることだが、いずれにせよ半日かけてよしが浦へ向かったその行程のほうが滞在時よりも鮮明に記憶に残っている。

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 能登のランプの宿と違って、青荷温泉のランプの宿は紛れもない秘湯の宿である。八甲田山系の少し西側の渓谷にある一軒宿。正式名は「ランプの宿 青荷温泉」。ここが我が国の〝ランプの宿〟としては元祖らしいが、ネーミングとしてもやはり正しいと言えるかもしれない。真実、ランプしかないのだ。電気は通っておらず、携帯電話も通じない。20代前半、進取の気性に満ちた能登の宿に惹かれた一方で、このような粗野な…いや、素朴な宿にも非常に惹かれた。もしかすると、ずっと惹かれ続けていたのかもしれない。先月、米子でのイベントを振っていただいた広告代理店の方から「今度は…津軽はどうでしょうか?」と電話が入ったとき、瞬時に思い浮かべたのがランプの宿。米子のときと同様、今回も即決したのは言うまでもない。青森空港はイベント会場のある弘前市の北東の先、青荷温泉は南東の先。弘前市を中心に見ればほとんど逆の方角にあり、2日連続で山を越え谷を越えといった道程になるのは避けられない。時間的猶予、あるいは金銭的事情は困難を極めそうだ。しかし、この期に及んで市内のシティホテルに泊まるという選択肢はなく、時期も迫っていただけにこの日のうちに一人部屋を予約した次第である。

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 雲海突破に機内は左右に、そして上下に揺れる。またしても緊張に手のひらが汗でにじむ。揺れがふと止まり、窓の外を窺うと、東北の山々がさび色の絨毯に覆われていた。にわかに東福寺の塔頭、龍吟庵の庭を思い出す。鞍馬を流れる川底からしか採取できない鞍馬石が敷かれた「不離の庭」。昭和の偉大なる作庭家、重森三玲の知られざる傑作だ。このあと弘前でお世話になったタクシーの運転手さんが「東北の冬は厳しいですから。京都の紅葉とはいささか趣きが違うのでしょう」とサラリと語っていたが、数百メートル上空からは、どこか遠い国の鉄鉱石採掘場かのよう。しかし、徐々に高度が下がり、青森空港が近づいていくと、見慣れた色彩の山々に替わり、わずか十数分前の光景が幻のように思えてくる。

 それにしても岩木山の存在感はどうだ。空港から弘前駅へ向かうシャトルバスの中。右側、すなわち北のほうに目をやると、あからさまに、恥ずかしげもなく、凛然と立っている円錐形の山が見えた。標高1625mの独立峰。山頂には三つの峰があるが、稜線は綺麗なカーブを描きながら平地へ降りてくる。デコボコしたところがまったくない。こんな優しい坂道ならどんなに下手なスキープレイヤーでも口笛を吹きながら滑降できるだろう。いずれにせよ、これほど容姿端麗な山はそう滅多にお目に掛かれまい。「信仰の山です。私たちの神様です」とは運転手。なるほど、地元の方々からは「お岩木様」と呼ばれており、山頂には岩木山神社があるよう。その昔、九州から徐々に北上していったヤマト民族が神奈備たるこの山を見た時の驚きはいかばかりであったか。

 地上に目を移すと、人の背丈の倍くらいの高さの木々がたくさん見えてくる。こうした高木は僕が生まれ育った千葉の市川なら梨であり、仕事でよく訪れた福島なら桃であり、昨年春まで住んでいた府中ならブルーベリーといったところか。しかしそれらよりは大柄で、葉っぱの間からクリスマスツリーの鈴のようにピンク色の玉を覗かせている。ああ、りんごだ。まだ熟れ切っていないから淡い赤色なのだ。青森にやって来たことを改めて強く意識される。青森といえばりんごであり、大間のマグロであり、寺山修司であり、石坂洋次郎である。ねぶた祭ではないし、味噌カレー牛乳ラーメンでもない。じきにりんご工場が見えてくる。そうして、おきまりの郊外の町並みが前方から流れてくるのである。

 50分ほどで弘前駅に到着。気が付けば、もう2時過ぎ。さっきからお腹がグーグー鳴っている。まずは腹ごしらえをしたい。青森といえば津軽そば…らしい。駅1階に「そば処 こぎん」という蕎麦屋があった。自動扉の前で〝めかぶそば〝の食券を購入し、いざ店内へ。これは小さなめかぶなのか、それともめかぶを細かく刻んであるのか。いずれにせよ、そばと良く絡むので食べやすく、ちょっと食感のあるとろろそばといった塩梅。しかし、そばは少し茹で過ぎか。

 ここからは弘南鉄道に乗って16キロほど先の終点、黒石駅まで行き、そこからバスを乗り継いで青荷温泉まで行く安上がりのルートもあったが、夕方5時半の到着になってしまう。それでは温泉にたっぷりゆっくり浸かることができない。何より、弘前市を通過するだけの味気ない旅路となってしまう。そんなわけでタクシーを選択。ここで問題は〝当たり〟の運転手を引けるかどうかということ。往々にして僕は博打運には縁がない反面、人生運には恵まれており、今回の旅路でも首尾よく〝当たり〟を引けたようである。

「私は青森市で生まれて、秋田、石巻、弘前、そして今は黒石で暮らしています。ここが終着地となるでしょう。東北を転々としてきましたが、50歳で営業職に見切りを付けて、今はこれ。毎日の運転ではさすがに体がこたえるので、適度に休みながらのんびりやらせていただいています」

 知り合いの編集者を20歳ばかり年を取らしたらこんな感じになるか。朴訥とした語り口まであまりにも似ているため否応にも親近感が湧く。まずは最勝院に寄ってもらった。なんでも日本最北端に位置する五重塔があるらしい。出発前、妻は「青森で有名な寺院はないのかしら?」と冷ややかな顔を見せていたが、確かに大規模寺院は聞いたことがないし、仏教文化の浸透度は西日本とは比べものにならないだろう。しかし、だからといって見るべき寺院がないとは限らない、京都や奈良とは一味違う仏教文化の佳境を垣間見られるかもしれない。10分ほど市街地を走ると、「ほら、五重塔が見えてきましたよ」と運転手が左前方を指差す。やや古い家屋が並んでいるその上に銀色の塔がスクッと青空へ伸びている。この相輪は全高の約3分の1を占めているようだが、重要文化財建造物として指定を受けた際、「東北地方第一の美塔なり」と称賛された理由がこの黄金比率にあるとか。

▲最勝院境内

門前でタクシーを降り、仁王門を潜ると、左に五重塔の全貌が見えてくる。1666年の建立といっても彩色は真新しく、各階ごとに装飾に違いがあり、むしろモダンな印象を受ける。本堂も立派な造り。本尊は凛々しく誠実そうな面立ち。清潔感のある木材が若々しさを演出している。

▲最勝院五重塔

 帰りしな、ふと五重塔の反対側に視線を向けると、軒の向こう側に石の鳥居が見えた。神額には八坂神社と彫られてある。仁王門で鬼のように…いや、慇懃に僕を待っていた運転手に尋ねると、「ええ、京都の八坂神社と同じです。弘前藩主の祈願所です」「はあ、弘前は京都とゆかりが深いんですね」「そうなんです。最勝院はシダレザクラのほうが有名ですけど、ソメイヨシノは京都から持ってきた1本の苗木がそもそもの始まりなんです。弘前公園には樹齢が100年を超える木もたくさん残っていますよ」「桜の寿命は短いんですよね、本来」「はい、弘前方式って聞いたことはないでしょうか。りんごは桜と同じバラ科の植物なんです。りんごの剪定方式を採用することで桜の長寿が実現したそうで。ほら、これはソメイヨシノですが、おそらく100年以上でしょうね」と駐車場前の桜の木に顔を向ける。ケヤキのような大樹ではないが、お相撲さんのような丸々とした見栄え。元気一杯である。ただし、幹のデコボコぶりはおじいさんのシワのようである。

 最勝院からはほぼ東へ真っすぐ進む。「弘前は青森とは違って、空襲に遭いませんでした。だから古い建物がたくさん残っているんです」と教えてくれたように他にも名刹らしき寺はあったが、なんといっても青荷温泉が今回の旅の本丸。仕事での遠出は少なくないとはいえ、一人旅に限れば結婚後は初めてだろう。一人時間をちゃんと?堪能できるのか。ここ1週間、怖いもの見たさといった複雑な気持ちで過ごしてきた。「あれが八甲田山ですよ。てっぺんの方は雪が積もり始めましたね。白いものが見えるでしょう。一昨年は1月になるまで雪が降りませんでしたが、ここ最近はめっぽう降るようになりました。もう、どかっとね。本当に困ります。雪かきは大変ですから」。都会での暮らしに生きにくさを感じることは少なくないが、北陸や東北はそれこそ危険、困難と無縁でいられない。しかし、彼はそんな雪国から生涯、離れることはなさそうだ。「私は青荷温泉へは2年ぶりくらいになりますかねえ。最近は若い人が多くなりました。こんな山奥、かえって物珍しいのでしょう」「読書すらできないほど暗いようですけど?」「いやあ、そんなことはないでしょう。ランプがありますから」「そうですか。食事も何を食べているか分からないという話もありますけど?」「いやあ、そんなこともないでしょう。ランプがたくさんありますから」と、やはり一笑に付す。どうやら僕の事前調査は間違いだったようだ。

 山あいの道に入る。「桜の木は紅葉していますねえ。全体的にはあともう少しですが」と運転手。いやしかし、蛇行しながら流れる中野川の向こう側に見える小山は何とも優しい色合いだ。さらに奥に進むと、大きなダムが現れる。これが虹の湖。ライダーにとっては有名な休憩所のよう。道の駅もある。じきに本道から外れ、車が1台くらいしか通れないほどの隘路に入った。まともに舗装されておらず、体がゆっさゆっさと揺れる。「雪で覆われている期間が長いですからね。いっこうに道を直してくれないんですよ」と苦笑する。あちらこちらに陥没があり、これでは車も傷んで仕方がないだろう。それでも明けない夜はなく、たどり着けない秘湯もない。能登のランプの宿と同様、最後は急な斜面を一気に下って、青荷温泉に無事、到着を果たした。

▲青荷温泉に到着。

 受付で簡単な説明を受け、1階の一番奥にある部屋へ向かう。小ぶりの襖を開けて中に入ると、暗がりが広がっていた。明かりを付けようとスイッチを探したが、近くの壁に付いていない。はて、これはいったいどういうことか。宿主の意地悪か。しばし立ちすくんでいたら、部屋の中央辺りの天井から一つのランプがぶら下がっていることに気付いた。仄かなオレンジ色のあかり。あ、ここはランプの宿、この仄かなともしびが唯一の光源なのだ。窓からも光が差し込んではいるが、あいにく僕の部屋は目の前が崖。まだ4時前なのに夕暮れのよう。いやしかし、夜になればそれこそ暗闇に包まれてしまうだろう。今のうちにと、布団を押し入れから取り出し、部屋の隅にひとまず敷いておくことにした。

▲昼間の部屋

 本館のすぐ前にある大きな建物が「健六の湯」。青森のヒバ材を使用した大きな風呂場だ。格子状の大きなガラス窓が美しく、山の紅葉も十二分に愉しめる。同じ青森の酸ヶ湯温泉の窓をもっと大きくした感じか。ところが、タイミングの悪いことに、社員旅行といったていの4人組が猥談に話を咲かし始めた。職場の女性についてのあれやこれや。部屋に戻っても何もすることがない(=何もできない)のは僕も彼らも同じ。どうしたって長湯にならざるを得ない。井戸端ならぬ風呂場会議を始めざるを得ない。4対1ではさすがに分が悪く、引き下がるのは僕のほう。小さな川を隔てたところにある露天風呂は目下、改修工事となっているが、本館には内湯がある。ここも脱衣所と浴室にランプが一つずつあるだけ。窓が小さいせいか、やや陰気な雰囲気だ。しかし、今の気分に合っている。一人きりの長湯にありつけてようやく心が和らぐ。社員旅行なんて時代錯誤だと首を傾げてしまうが、僕は一度も経験したことがないのだから無闇に一刀両断するのは短慮というものか。これまで一度も正社員として働いたことはなく、いつだって身軽な身だった。それはフリーターと言えるし、風来坊とも言える。この先、チーム一丸で何かをやり遂げるといった事態が訪れるとは思えないが、それはそれで淡い憧れも抱いたりするのだから人の心は奇怪である。

 夕食は6時から。しばし、部屋で休憩だ。ここで厄介な問題として浮上したのが空気の重さ。犯人は石油ストーブということは分かっているが、ここで消したら後で困るかもしれない。山の冷気がダイレクトで進入してくるはず。しかし、付けっぱなしでは一酸化炭素中毒になる恐れがあるようだし、風呂上りで体が温まっているので消すことにした。いや、それは詭弁であって、本当は石油ストーブへの怯えがあったからだろう。十数年前、祖母の家が燃えてしまったのは石油ストーブが原因だったのだ。あれさえなければ急激に物忘れがひどくなることもなかったろうし、もっと長生きしたろう。一人息子のわが父はすでに他界。僕が祖母の面倒を見ることになったのはモノの道理であり、そうであれば同居という選択肢もあったはず。80を過ぎても一人暮らしをさせ続けていた僕に問題があったのかもしれない。

 窓の近くに寄って本を広げてみる。やはり文字が目に入りにくい。読書は不可能だ。さきほどの運転手の、やけに自信ありげな発言は何だったのか。まあ、誰にでも一日で一つくらいの間違いはあるか。ランプは基本的に一部屋、一間に一つだけ。さすがに食事をする大広間には幾つかぶら下がっていたが、それでも器の装飾や食材の色は不明瞭だ。しかし、味が良ければすべて良し。お浸し、煮物、揚げ物、焼き魚…すべてが旬のもの。広間の中央に大きな炊飯器と鍋があり、ご飯と味噌汁は各自がよそう。乳頭温泉の「鶴の湯」のように、一人一膳、静かなる食事。思いのほか、一人客が多い。みんなより少し遅れて着席した隣の女性に食事の仕方を教えてあげる。

 6時半に玄関前へ。これから「中野もみじ山ツアー」に連れて行ってくれるという。テレビはない、ドライヤーもない、風呂上がりのアイスもない。基本的には素っ気ない宿だが、そば打ちの体験教室も時おり開催しているようで、訪れる人を満足させたいという意志はしかと感じる。参加者は10人ちょっと。またもやガタガタ道を通るのかと戦々恐々としたが、マイクロバスを操る宿の方は凄腕の持ち主だった。おびただしい陥没群を巧みに避けつつも大きく減速することがない。おかげで配布された中野もみじ山の地図を頭にしかとインプットできた。本道に入ると、スマホが通信可能となる。本日最後のメールを妻に送り、そして電源を切った。

 30分ほど走り、鄙びた温泉街を過ぎればそこが目的地。気が付けば、行きがけに紅葉が綺麗だなと思ったあの山だった。鳥居を潜り、吉野の脳天神社を想起させる急な石段を下ると、広場があった。その向こうには吉野川が流れており、「不動の滝」が見える。左側にある橋を渡るや、天まで伸びているような杉の木がそびえ立っている。樹齢500~700年だとか。暗闇だから先っぽが確認できない。ひとまず社殿へ向かい、参拝をする。明日もお天道様に出会えるように。至るところにライトが設置されており、来訪者が転ばぬようには配慮されているが、なにぶん辺り一面は闇。くまなく紅葉を眺めたかったら明るい時間に来たほうがいいかもしれない。

▲もみじ山の紅葉
▲中野神社に設置されていた「こけし灯ろう」

 夕食後の時間の過ごし方を懸念していただけに、このツアーは有難かった。が、深山幽谷の夜は早い。コートを着ていたのにも関わらず、体はすっかりと冷え切ってしまった。宿へ戻るやいなや、内湯に駆け込む。今度は先客がいたが、物静かなポルトガル人(推定)だったので良かった。ゆっくりと時間を掛けて体を温める。僕好みのぬる湯が嬉しい。「健六の湯」より少し低い38度(推定)。窓の外も内も墨色の世界だ。目を開けても瞑っても似たようなもの。まるで異界に来てしまったような感覚に襲われる。ここには人間もさることながら妖怪も存在していない。だから怖さは感じない。ガキ大将だったあの頃はどうして夜が怖かったのか、あれほどまで死ぬことに恐れを抱いていたのか。今はとにかく道を外すのが怖い。しかし道とは何か。すでに僕は道を外しているのではないか…。

 お風呂の中ではあやうく寝てしまいそうになった。別段、ぬる湯だからのぼせることはないだろうが、風呂場と正月の餅は年寄りの鬼門と決まっている。決まっていないのは今宵の過ごし方。布団の上であぐらをかく。頭上のランプは壁まで届くか届かないか、それくらいのかぼそき灯り。6畳一間。これは大学卒業後、初めて一人暮らしをした部屋と同じ広さだ。中野駅から徒歩15分の3万円の物件。女子高校が近くにあったから決めたわけではなく、たんに中野界隈で一番安かったから。新宿で泥酔しても歩いて帰れるのが唯一の長所。トイレは共同、風呂はなし。だから近くの100円シャワーには大変お世話になった。制限時間は3分。それでも一日置き。シャワーに行かない日は部屋の小さな流し台で髪を洗っていた。銭湯なんて一ヶ月に1度か2度。すなわち女もいなければ、人生に光明も見えない。そんな暗中模索の日々でも東中野に住んでいた大学の先輩、徳治さんのおかげで楽しく過ごしていた。教育系の出版社に勤めていた彼は「虎石も編集者になれ」と事あるごとに言っていったが、僕だって出来ることならそうなりたいと思ったが、なかなかどうして希望通りには人生は運ばず、ガラの悪い新聞記者になるのが精一杯だった。

 ――――――

 翌朝、目覚めは決して悪くなかったし、朝風呂も清々しいものがあった。しかし、部屋で探し物をしているときにランプに激しく頭をぶつけてしまった。これで昨晩から4回目。ガシャンと大きな音がするだけに隣の旅人からは呆れられているだろう。朝ご飯も昨晩同様、胃がちぎれるくらいに食べ過ぎてしまった。果たしてこれで人前でうまく喋れるのだろうか。この半日、鏡を見ていないのでどんな顔になっているのだろうか。いや、それよりもまずは無事にイベント会場へ着くことが大事、本日の僕の最重要課題だ。マイクロバスの発車は8時半。小さな失敗は水に…青荷の清らかな川に流し、ランプの宿を後にした。

 虹の湖で路線バスに乗り換える。黒石駅近くで渋滞にはまり、予定より少し遅れての到着となってしまった。お目当ての列車はすでに発車してしまったろう。そうすると、会場までは30分ほど歩いて行かなければならない。熊に出会ってしまうかもしれない。数日前、弘前市にも出没したという話だ。困ったなとグチりながら改札口まで行くと、事前に調べていた時刻表と中身が違う。どうりで多くの人たちが構内のベンチに座っているのだ。やはり、スマホやネットはアテにできない。アテにできるのは自分の感覚だけ。そもそも感覚だけを頼りに記者生活を送ってきたのだ。「田んぼ鉄道」という愛称の弘南線に揺られて7分。田んぼアート駅に到着。ここからはもうすぐ。僕だけ降りる。一人歩いて行く。振り返れば、駅の向こう側に、昨日見た岩木山が見える。今日はどんな日になるか分からないが、ひとまず一つの課題=現場到着は達成されつつある。淡い陽光に照らされた津軽富士に感謝を込めて、軽く会釈した。

▲田んぼアート駅から見えた岩木山

虎石 晃

1974年1月8日生まれ。東京都立大学卒業後は塾講師、雑誌編集を経てデイリースポーツ、東京スポーツで競馬記者を勤める。テレビ東京系列「ウイニング競馬」で15年、解説を担当。著書2冊を刊行。2024年春、四半世紀、取材に通った美浦トレーニングセンターに別れを告げ、思索巡りの拠点を京都に。趣味は読書とランニング。

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