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第16回 大国主命は出雲の国津神

 これまで高天原による南部九州への天降り(あまくだり)を紹介してきましたが、次に「高天原三征」大作戦の一つである出雲への天降りについて紹介します。出雲へ天降りした一番手は高天原から追放された須佐之男命です。その後、須佐之男命の後継者である大国主命(おおくにぬしのみこと)が出雲の領土を北陸地方まで急拡大させます。その大国主命に出雲の国譲りを迫ったのが、二番手として天降りした天之菩卑命(あめのほひのみこと)です。天之菩卑命は天之忍穂耳命の弟なので、南部九州へ天降りした邇邇芸命の叔父(おじ)に当たります。

 今回は須佐之男命と大国主命についてお話しし、天之菩卑命については次回にまわします。以下ではまず、古事記の詳しい説話を中心として、必要に応じて日本書紀を援用してあらすじを示します。今回はたくさんの神々の名前が登場しますので、第9回の「神々の系図」をご参照いただくとわかりやすいと思います。

【 高天原を追放された須佐之男命は出雲の肥河(ひのかわ:現在の斐伊川)の川上の鳥髪(とりかみ)に天降った。須佐之男命は、国津神の足名椎(あしなづち)と妻の手名椎(てなづち)と出会い、娘の櫛名田比売(くしなだひめ)が八岐大蛇(やまたのおろち)に襲われようとしていることを知った。そこで須佐之男命が策を練り十拳剣で八岐大蛇を退治すると、尻尾から草薙剣(くさなぎのつるぎ)が出てきた。この草薙剣は高天原へ献上され三種の神器の一つとなった。須佐之男命は櫛名田比売を妻とし、出雲を発展させて偉大な王となった。

 その須佐之男命の後継者に躍り出たのは大国主命で、出雲の支配地域を北陸地方まで急拡大させた。大国主命は、古事記では須佐之男命と櫛名田比売の6代目の子孫であり、日本書紀本文では須佐之男命の息子とあり、日本書紀の一書(あるふみ)では6代目の子孫または7代目の子孫と記されていて定まっていない。

 大国主命には別名がたくさんあり、大己貴命(おおな むちのみこと)や八千矛神(やちほこのかみ)、大物主命(おおものぬしのみこと)、大穴牟遅神(おおなむちのかみ)、葦原醜男神(あしはらの しこおのかみ)などとも呼ばれている。なお、醜男(しこお)とは醜(みにく)い男ではなく、逞(たくま)しい強い男を意味している。相撲の「醜名(しこな)」や「醜(しこ)を踏む」にその名残りが見られ、「四股(しこ)」は当て字である。

 大国主命が、須佐之男命の娘の須勢理比売(すせりひめ)と結婚しようとしたところ、須佐之男命に何度も殺されそうになるが、須勢理比売の助けを受けて奇跡的に乗り越えた。すると須佐之男命は突如、「娘を正妻として、天高い千木(ちぎ)と太い宮柱ある宮殿に住め!この野郎!」と言い放った。

 大国主命は正妻の他に、たくさんの各地の姫神と政略結婚することにより出雲の領土を拡大させた。まず、稲羽(いなば:鳥取)に進出して稲羽の白兎を助け、兄弟神である八十神(やそがみ)たちに迫害される困難を乗り越えて、稲羽の八神比売(やがみひめ)と結婚した。また、能登(石川)の美穂須須美命(みほすすみのみこと)や、越(新潟)の沼河比売(ぬなかわひめ)とも結婚した。しかし正妻の須勢理比売をはじめ、これらの妻たちの子孫は記されていないか、後にまったく活躍しない。

 これとは異なり、後に活躍する大国主命の子を産む妻もいる。まず、宗像三神の多紀理比売命(たぎりひめのみこと)との間に産まれた阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)は、後に加茂大御神(かものおおみかみ)とも呼ばれ、大和朝廷において奈良の「加茂氏」の祖となった。また、宗像三神の田岐津比売命(たぎつひめのみこと)――またの名を神屋楯比売命(かんやたてひめのみこと)――との間に産まれた事代主神(ことしろぬしのかみ)と天道日女命(あめのみちひめのみこと)も活躍する。天道日女命は高天原で饒速日命と結婚して天香語山命(あめのかごやまのみこと)を産んだ。大国主命の孫に当たる天香語山命は高倉下(たかくらじ)とも呼ばれ、後に葛城地方(奈良)や東海地方(愛知)に進出して「尾張氏」の祖となった。

 さて、大国主命は、高天原の三神の一神である神産巣日神(かんむすひのかみ)の御子の少名日子那神(すくな ひこなのかみ)と一緒に出雲の国作りに邁進した。そして少名日子那神が先に亡くなると、大国主命は奈良の三輪山に鎮まる幸魂奇魂(さきたま くしたま)の大物主命(おおものぬし)と呼ばれて国作りを続けた。

 そして、大物主命になってからも新たな妻と結婚したことが、大和朝廷になってからの第十代崇神(すじん)天皇の説話にある。崇神天皇の時代に疫病が流行したので天皇が占うと、第七代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫(やまと ととひ ももそひめ)に大物主命が神憑り(かみがかり)して、三輪山に鎮まる大物主命を敬い祀るように告げた。このため倭迹迹日百襲姫は大物主命の妻となった。

 また、倭迹迹日百襲姫は夢の中で、大田田根子命(おおたたねこのみこと)という者を探し出して大物主命の神主(かんぬし)とするように告げられた。そこで大田田根子命を探すと、茅渟(ちぬ)の陶邑(すえむら:大阪府堺市~泉南市)に住んでいた。そして、大田田根子命は、大物主命と陶津耳(すえつみみ)の娘の活玉依媛(いくたまよりひめ)が結婚して産んだ子の子孫であることがわかった。

 さらに、大物主命は三島(大阪府茨木市)の勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)とも結婚した。そして勢夜陀多良比売が産んだ比売多多良伊須気余理比売(ひめ たたら いすけよりひめ)は後の神倭伊波礼毘古命(かんやまと いわれひこのみこと)の妻となった。  】

 高天原から追放された須佐之男命は出雲に天降り、八岐大蛇を退治し櫛名田比売と結婚します。須佐之男命は天災や人災の責任を取らされて高天原から出雲へ、言わば島流しにされたわけですが、出雲では荒(すさ)ぶ神から一転して出雲を発展させる偉大な王に変身します。出雲では高天原のような天変地異が起こらなかったのかも知れません。

 八岐大蛇の尻尾から草薙剣が出てきたことは、出雲の斐伊川(ひいかわ)流域が、第11回で紹介したとおり博多湾沿岸部とともに、チタン分が極めて低い砂鉄が産する所であり、製鉄の適地になっていることを象徴しています。『出雲国風土記』にも、飯石郡の飯石小川や波多小川の他、仁多郡の4つの郷から鉄が採れて、刀や農具を作ったことが記されています。須佐之男命は松江市にある出雲国一宮の熊野大社の祭神として鎮まっています。

 高天原ではたびたび登場する須佐之男命ですが、出雲神話では最初に少し登場するだけで、出雲神話の主人公は何と言っても大国主命です。古事記では大国主命は須佐之男命の6代目の子孫で、正妻は須佐之男命の娘の須勢理比売となっていて、世代が合っておらずしかも二人とも須佐之男命の血筋です。一方、日本書紀では大己貴神(おおな むちのかみ)という名前で登場し、須佐之男命の息子になっていますが、須勢理比売は登場しません。

 記紀の中にこのような辻褄の合わない所を見つけた時に、人々が取る態度には概ね二通りあるように思います。一つは、「これだから記紀はやっぱり作り話で信用ならない」としてゴミ箱に捨ててしまう態度です。そしてもう一つは、「記紀は長い間伝承されてきたために辻褄の合わなくなってしまった所はあるものの、説話の大筋としては真実の核が残っている」として尊重する態度です。もちろん私は後者の態度で記紀を捉えています。もし私が作り話を書くとしたら、こんな単純な矛盾が生じないように配慮するし、日本書紀のように多くの一書(異伝)を残すようなこともしません。記紀の編纂者は古代からの文字記録や伝承を矛盾があってもあるがままに誠実に後世に伝えたのだと思います。誠実で無いのは自説に不都合だからと言って、これも矛盾あれも矛盾と記紀の粗探しばかりして記紀を捨ててしまう学者達の方でしょう。第8回に書いた旧石器捏造事件は、権威ある考古学者を援護しようとした考古学愛好家が20年間にもわたって偽物の旧石器を埋めていた事件で、考古学者は自説が証明されていくために見過ごしたのです。記紀を捨て去る行為と、捏造する行為との違いがありますが、自説(仮説)優先の態度が共通しています。

 それでは何が出雲神話の真実の核と考えられるでしょうか。一つは須佐之男命が発展させた出雲を引き継いだのは大国主命だったということでしょう。もう一つは、大国主命は卓越した統治者で、出雲の領土を北陸地方まで急拡大させたことでしょう。しかし、須佐之男命と大国主命との血縁関係は確かに不自然なので真実の核とは言えません。そこで、大国主命の父母は共に出雲の国津神であったと考えると、後に大国主命が高天原から出雲の国譲りを迫られた理由が説明できます。なお一般に、高天原の統治者たちを天津神(あまつかみ)と言い、高天原ではないすべての地方の統治者たちを国津神(くにつかみ)と言い慣わしています。そして私は、高天原は北部九州にあったと考えています。高天原は出雲出身の伊邪那美命を輿入れさせてからずっと出雲を支配下に置いてきました。しかし、出雲出身の国津神の大国主命が出雲の領土を急拡大させたために、高天原としては大国主命を脅威に感じるようになりました。しかも大国主命は須佐之男命の娘の須勢理比売を正妻とした上で、宗像三神の二神までを妻にしているので、高天原を乗っ取られる危険性さえ感じたのではないでしょうか。その危険性を排除するために、高天原は天之菩卑命を皮切りとして、何人もの神々を出雲に天降りさせて執拗に出雲の国譲りを迫ることになるのです。

 出雲の領土の急拡大は、国力を背景にした鳥取や石川、新潟の各地の姫神との政略結婚として記されています。結婚に至る過程で、各地との間で争いがあったのかどうかは良くわかりません。高天原が国力を見せ付け、出雲から伊邪那美命を輿入れさせて出雲を支配したことをお手本にしたのかも知れません。

 大国主命はたくさんの姫神と結婚していますが、姫神たちは三種類に分類できます。まず、第一類としては子孫が記されていないか、子孫がいてもまったく活躍しない姫神です。その筆頭は大国主命の正妻である須勢理比売です。古事記には須勢理比売は須佐之男命の娘と記されていますが母神は不明です。しかも日本書紀には須勢理比売が登場しません。両親(両神)とも天津神である子が生粋(きっすい)の天津神であるとすると、須勢理比売には疑問符が付きます。このことが大国主命の正妻にもかかわらず子孫が記されていない理由かもしれません。

 芥川龍之介は、古事記の須勢理比売の説話に着想を得て、『老いたる素戔嗚尊(すさのおのみこと)』という短編小説を書いています。葦原醜男(大国主命)は素戔嗚尊(須佐之男命)に何度も殺されそうになりますが、須勢理比売の助けを受けて困難を乗り越えます。すると素戔嗚尊は突如、「俺よりももっと力を養え。俺よりももっと知恵を磨け。俺よりももっと幸せになれ!」と二人の結婚を高らかに祝福し始めるのです。どこの馬の骨ともわからない男に娘を奪われたくない、しかし娘には幸せになってもらいたいという、どこにでも居そうな父親の心境を表現しているように見えます。

 さて話を戻して、そのほかの第一類の姫神には、稲羽の八神比売と、能登の美穂須須美命、越の沼河比売がいて、みんな国津神です。能登の美穂須須美命は2024年1月1日の大地震で被災した珠洲(すず)市の国津神です。また、越の沼河比売は宝石の翡翠(ひすい)を産する新潟県糸魚川(いといがわ)市を流れる姫川の国津神で、「ぬなかわひめ」の「ぬ」は古語で「玉(たま)」の意味があり「翡翠(ひすい)の川の姫」を意味します。縄文時代(例えば三内丸山遺跡)から弥生時代を経て奈良時代に至るまで、日本の遺跡から見つかる勾玉などの翡翠はすべて糸魚川産です。

 出雲では大国主命の活躍する3世紀後半から四隅突出型方墳と呼ばれる古墳が作られ始めます。四隅突出型方墳とは、四角形の墳丘部の四隅が舌のように突出して見えることから名付けられ、上から見ると糸巻のような形をしています。この方墳は、大国主命の支配地域と重なっており、出雲から次第に中国地方(島根・鳥取や、広島・岡山の山間部、兵庫の日本海側)をはじめ、北陸地方(福井・石川・富山)へと広がって行きます。しかし、奈良には一つも無いので大国主命は奈良を掌中に収められなかったことがわかります。ちなみに奈良には3世紀後半の時点ではまだ前方後円墳は造られていません。その意味で四隅突出型方墳という高塚の出現は、出雲の強大な国力と先進性を象徴しています。

 四隅突出型方墳の代表的なものは、島根県出雲市の西谷3号古墳で、55m×40m、高さ4.5mであり、鉄剣やガラス勾玉、大量の吉備系や北陸系を含む土器が出土しています。また、島根県県境に近い鳥取県大山町妻木にある妻木晩田遺跡(むき ばんだいせき)の仙谷(せんたに)1号墓は17mで、遺跡全体からは300点を超える鉄製品が出土しています。主な鉄製品は斧、槍鉋(やりがんな)、鑿(のみ)、玉作り鉄器などです。

 このように、大国主命が領土を広げた地域からは鉄製品が豊富に出土します。鉄製品が出土する地域には兵庫県や京都府も含まれますが、ほとんどが日本海側の兵庫県北部や京都府北部であり、大国主命の勢力範囲なのです。3世紀代においては、いわゆる近畿(畿内)から出土する鉄製品は少ないことに注意が必要です。近畿(畿内)の鉄製品は4世紀の古墳時代まで待つ必要があります。

 次に大国主命の妻の第二類として、宗像三神の多紀理比売命と田岐津比売命の子孫が挙げられます。この女神たちの子孫はその後も活躍して、阿遅鉏高日子根神(あじすき たかひこねのかみ)は加茂氏の祖となり、天香語山命(あめのかごやまのみこと)は尾張氏の祖となります。

 なぜ、鳥取や北陸の国津神である妻たちの子孫は活躍しないのに、宗像三神の子孫は活躍するのでしょうか。その理由は、前者が国津神同士の結婚であり、後者は天津神と国津神との結婚で天津神の血筋を半分引いているからでしょう。なぜ、国津神の大国主命が天津神の宗像三神と結婚できたのでしょうか。その理由は、それ程までに大国主命の権力が増長していたためでしょう。だからこそ、高天原勢力は大国主命に脅威に感じて出雲の国譲りを迫ったのでしょう。

 最後に第三類として、大国主命の最晩年の妻や、死後の名前である大物主命の妻になった三人が挙げられます。まず、倭迹迹日百襲姫は第七代孝霊天皇の皇女で、第十代崇神天皇の時代に活躍した人です。崇神天皇は安本美典氏の年代推定では350年前後の天皇です。このため、倭迹迹日百襲姫は350年前後に大物主命の妻となったことになり、大国主命と時代が合いません。これは、三輪山に鎮まる大物主命を祀る巫女になったという意味でしょう。「倭迹迹日百襲姫が亡くなると奈良の箸墓古墳に葬られた」と記紀に記されていますので、箸墓古墳の築造年代も350年以降となり、箸墓古墳は250年頃の卑弥呼の墓でも300年前後の台与の墓でもあり得ないことになります。

 一方、倭迹迹日百襲姫の夢に出てきた大田田根子命の祖先は、茅渟の活玉依媛で大物主命の妻です。また、出雲神話にでてくる三島の溝咋(みぞくい)の勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)も大物主命の妻です。この二人は倭迹迹日百襲姫よりずっと前の世代であり、活玉依媛は「子を産んで」大田田根子命の祖先となっており、勢夜陀多良比売も比売多多良伊須気余理比売(ひめ たたら いすけよりひめ)を「産んで」いるので二人とも大国主命の最晩年に結婚したのでしょう。この点が、大物主命の死後に巫女となった倭迹迹日百襲姫とは異なります。

 活玉依媛の住んでいた茅渟は現在の堺市から泉佐野市や泉南市にかけての地域で、大阪府の一番南に位置します。神倭伊波礼毘古命が奈良へ進出する時に「茅渟の海」の地名が登場し港に立ち寄っています。また、勢夜陀多良比売の住んでいた三島の溝咋は現在の大阪府高槻市や茨木市周辺で溝杭(みぞくい)の地名も残っていて、大阪府の一番北の淀川に北に位置します。後の回で説明しますが、この地には田能(たの)遺跡や、庄内遺跡、東奈良遺跡などの重要な遺跡が発掘されています。

 大国主命は北陸に進出しただけでなく、大阪へも進出していたことになりますが、先住豪族が抵抗したために大阪の中心部までは掌握できませんでした。ましてやその先の奈良も掌握できませんでした。しかし、大国主命は大物主命という死後の名前を与えられて奈良盆地にある大神神社(おおみわじんじゃ)の祭神として三輪山に鎮まっています。大国主命が高天原への出雲の国譲りの条件として三輪山に鎮まることを望み、その後、高天原勢力が奈良を掌握したために約束が叶えられたのです。


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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