第19回 邇芸速日命の奈良への天降り
これまで、250~270年代の高天原による南部九州と出雲への天降り(あまくだり)についてお話ししてきましたが、今回は「高天原三征」大作戦のクライマックスである奈良への天降りについてお話しします。奈良への天降りは二段階に分かれていて、最初に邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が天降りして、次に神倭伊波礼毘古命(かんやまと いわれひこのみこと:後の神武天皇)が天降りしました。このうち今回は邇芸速日命の天降りを見ていきます。 【 神倭伊波礼毘古命は宮崎にしばらく留まったが、その土地は膂宍空国(そししの むなくに:肉の少ないイノシシの背中のようなやせた土地で空っぽの国)であった。塩土老翁(しおつちのおじ)は「東に四方を青山に囲まれた良い国がある。天磐船(あまのいわふね)に乗って既にその国に天降った者がいる」と言った。それを聞いた神倭伊波礼毘古命は「その国は天下を治めるのに足る場所で、国の中心にするのに相応しいと思う。天降った者の名は邇芸速日命と言うらしい。そこへ行って国を創(つく)ろうではないか」と言った。 】 日本書紀には、天磐船に乗って既に奈良へ天降った者がいて、その名は邇芸速日命と言う「らしい」と、何とも曖昧に短く記されていますが、古事記にはまったく記されていません。邇芸速日命が重要場面で記紀に登場するのは、二番手として奈良に天降った神倭伊波礼毘古命と戦う時まで待たなくてはなりません。両雄が戦う時に、邇芸速日命が高天原の宝器を持っていたため、神倭伊波礼毘古命は邇芸速日命を天津神と認めます。しかし、邇芸速日命の父母神は誰なのかは、記紀を読んでも良く分かりません。 このため、邇芸速日命の父母神や事績を知るためには、日本書紀より約100年後の820年代に成立した『先代旧事本紀(せんだい くじほんぎ)』に依らなければならないのです。安本美典氏の『古代物部氏と「先代旧事本紀」の謎』(勉誠出版)によれば、先代旧事本紀は、邇芸速日命の子孫(すなわち物部氏の子孫)で法律家であった興原敏久(おきはらの みにく)が編纂した書であると推定しています。興原敏久は三河(みかわ:愛知東部)の出身で、はじめは物部敏久(もののべの みにく)という名でした。 物部敏久は、邇芸速日命や物部氏の系譜や事績が記紀などの古文献にほとんど記されていないことに不満をいだき、物部氏が代々伝えてきた詳しい事績を『先代旧事本紀』として編纂したようです。ホンの一部ですが『先代旧事本紀』を紹介します。 【 邇芸速日命の正式の名は天照国照彦天火明櫛玉邇芸速日命(あまてる くにてるひこ あめのほあかり くしだまの にぎはやひのみこと)である。邇芸速日命は天之忍穂耳命(あめの おしほみみ)と万幡豊秋津師比売命(よろずはた とよあきずしひめのみこと)の御子である。また、天道日女命(あめの みちひめのみこと)は、(宗像三神の一神の)田岐津比売(たぎつひめ)と(出雲の)大国主命との間に産まれた娘である。邇芸速日命は、高天原にいる時に天道日女命と結婚して天香語山命(あめの かごやまのみこと)が産まれた。 邇芸速日命は、天照大御神から天津神のしるしである息津鏡(おきつかがみ)と辺津鏡(へつかがみ)、鉄剣、玉の三種の宝器に比礼(ひれ)などを加えた「十種(とくさ)の神宝」を授かり、天磐船(あまのいわふね)に乗って河内国(かわちのくに)の哮峯(いかるがみね)に天降りした。天降りに当たって帯同させた神々は、防御(ぼうぎょ)する人として御子の天香語山命などの天津神を三十二人と、後世に物部氏となる一族などである。物部氏の一族はとても多く、天津麻羅(あまつまら)と笠縫部(かさぬいべ)、為奈部(いなべ)、十市部(とおちべ)、筑紫弦田(つくしのつるた)の五部人に加え、二田(ふたた)や大庭(おおば)など五部造、芹田(せりた)や聞(きく)など二十五部の人の他に船長、梶取(かじとり:舵取)、船子(ふなこ)などである。 邇芸速日命は、河内国の哮峯の虚空(そら)を駆け巡り、「虚空見つ(そらみつ)日本国(やまとのくに)」と言った。その後、邇芸速日命は大倭国(やまとのくに)の鳥見(とみ)の白庭山(しらにわやま)を本拠地とし、奈良の豪族である登美長髓彦(とみの ながすねひこ)を臣下に従えて、長髓彦の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)と結婚した。御炊屋姫は妊娠したが、子が産まれないうちに邇芸速日命は亡くなってしまった。邇芸速日命は白庭邑(しらにわむら)に葬られた。そして、宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が産まれた。宇摩志麻治命は邇芸速日命の「十種の神宝」を受け継いだ。一方、天香語山命は紀伊の熊野村に遷(うつ)り、高倉下(たかくらじ)とも呼ばれ、東海地方を治めて尾張連(おわりの むらじ)の祖となった。 】 『先代旧事本紀』によれば、邇芸速日命は天之忍穂耳命と万幡豊秋津師比売命の御子であり、南部九州へ天降りした邇邇芸命と父母神が同じなので兄弟と分かります。兄弟なのでニギハヤヒとニニギという、うっかり間違えてしまうほど名前が似ているのです。邇芸速日命の正式名は天照国照彦天火明櫛玉邇芸速日命であり、「天火明命」と「邇芸速日命」とは同一神だったことが分かります。「天火明命」なら記紀にも記されており、古事記では先に天火明命が産まれ、次に邇邇芸命が産まれたとあります。また、日本書紀の一書(あるふみ)でも天火明命は邇邇芸命の兄であるとしています。先代旧事本紀と記紀とを総合すれば第9回の「神々の系図」のとおり、邇芸速日命が兄で、邇邇芸命が弟であることがわかります。邇芸速日命は邇邇芸命の兄であり、天之菩卑命は邇邇芸命の叔父(おじ)に当たるので、邇芸速日命は、南部九州、出雲への天降りと同時期の250年代に奈良へ天降ったと見られます。まさに日本の統一を目指した「高天原三征」なのです。 記紀で邇芸速日命の出自や事績が曖昧になっている理由は、弟の邇邇芸命の子孫が皇統を継いだのに対して、兄の邇芸速日命の子孫は物部氏や尾張氏の祖になったためでしょう。つまり、兄の邇芸速日命の子孫は、平安時代の源氏や平氏のように皇統を離れて物部氏や尾張氏などの姓を与えられ臣下となる賜姓降下(しせいこうか)をしたのです。このため、皇統の系図から外れてしまい、記紀においては出自が曖昧になってしまったと思われます。 さて、邇芸速日命は天道日女命と結婚して天香語山命(あめの かごやまのみこと)が産まれました。高天原で産まれた天香語山命の名の由来は、高天原にある「天香具山」、すなわち第9回に記した福岡県朝倉市にある香山でしょう。後の回でお話ししますが、二番手として神倭伊波礼毘古命が奈良へ天降りした時には、既に奈良にも「天香具山」と名付けられた山がありました。奈良の「天香具山」の名は、邇芸速日命(または天香語山命自身)が運んだと考えられます。 邇芸速日命は、鏡、剣、玉の三種の宝器などの「十種の神宝」を持ち込んで天磐船に乗り、高天原から出発して哮峯に天降りしました。この「十種の神宝」は、後の回にお話ししますが、邇芸速日命が天津神であることを証明する神宝として役立ちます。「十種の神宝」には三種の宝器が含まれており、邇芸速日命により初めて奈良へ運ばれたのです。しかし、3世紀の奈良では銅鏡、鉄剣、玉が権威の象徴となることはなく、中型銅鐸を大型銅鐸に発展させて威信財としたのです。 天磐船に乗って天降った哮峯は、大阪府交野(かたの)市の生駒山系にある磐船神社(いわふね じんじゃ)が最有力で、淀川の支流の天野川上流にあります(地図参照)。磐船神社の主祭神はもちろん邇芸速日命です。この天磐船とは石でできた船ではなくて、クスノキでできた強固な船という意味でしょう。出雲において植林の神とも称される須佐之男命は、「スギかクスノキで船を造れ、ヒノキで宮殿を造れ、マキ(高野槇:こうやまき)で棺を造れ」と命じたと日本書紀にあります。現代の知識でもスギやクスノキは軽くて加工しやすく、特にクスノキは防腐剤になる樟脳を含んでいるので船に最適と言えます。また、ヒノキは耐久性に優れていて宮殿に最適で、コウヤマキは耐水性に優れて腐りにくいので棺に最適です。 『法隆寺を支えた木』(小原二郎、西岡常一:NHKブックス)の中で、千葉大学名誉教授だった木材工学者の小原二郎氏は古代の舟の素材について、「(静岡市の)登呂の(弥生)遺跡から発掘された田舟はスギであった。」「現在までに大阪を中心とする地域から発掘された古墳時代の舟はほとんどクスノキである。」「コウヤマキが古墳時代に特に選ばれて棺材に使われていた。」と述べています。また、世界最古の木造建築である法隆寺の、昭和の大修理に携わった宮大工の西岡常一氏は、「ヒノキは木目がまっすぐに通っていて、材質は緻密、軽軟、粘りがあって、虫害にも、雨水や湿気にも強いことはよくご存じのとおりです。このヒノキを隅から隅まで使ったことが、法隆寺の建物を千三百年も持ちこたえさせた大きな理由です。」「(法隆寺の)柱など、表面は長い間の風化によって灰色になり、いくらか朽ちて腐食したように見えますが、(昭和の大修理で)その表面をカンナで二~三ミリも削ってみると、驚くではありませんか、まだヒノキ特有の芳香が漂ってきます。」と述べています。このように須佐之男命の適材適所の知恵は弥生時代から古墳時代を経て飛鳥時代へと、おそらくそれ以降まで連綿と受け継がれているのです。 大阪教育大学名誉教授であった鳥越憲三郎氏は『大いなる邪馬台国』(講談社)において、『先代旧事本紀』と、10世紀末に編纂された辞典である『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』とに記された、物部氏に由来する北部九州と近畿との地名を対応させて分析しています。物部氏には分家がたくさんあり、分家の名が地名にもなっていたようです。例えば、「十市(とおち)」という物部氏の分家の名から取った地名は、北部九州の遠賀川流域の筑前鞍手(くらて)郡と、(奈良の)大和十市郡にあります。同様に、「弦田(つるた)」が筑前鞍手郡と大和平群(へぐり)郡にあり、「二田(ふたた)」が筑前鞍手郡と(大阪)和泉(いずみ)郡にあり、「芹田(せりた)」が筑前鞍手郡と大和城上郡・城下郡・平群郡の3か所にあります。さらに、馬見(まみ)が筑前嘉麻(かま)郡と大和葛上郡にあり、「大庭(おおば)」が筑前朝倉郡と(大阪の)大鳥郡にあります。また、近畿では見つかっていませんが、遠賀川流域には物部氏に由来した地名として、島戸、赤間、狭竹(さたけ)、聞(きく:企救)などもあります。鳥越氏はこれらについて、「地名が判明するものだけみても、かなりの数が鞍手(くらて)郡を中心として、(物部一族が)遠賀川流域に居住し、または原住地としていたことが明らかである。この事実からして、物部一族が遠賀川流域から河内・大和へ向けて東遷したといって差しつかえなかろう。」と述べています。さらに鳥越氏は、邇芸速日命が天降る時に帯同した物部氏によって地名が近畿に運ばれたと述べています。 以上の鳥越説はおおむね正しいと考えられますが、注意しなければいけないこともあります。この説は平安時代中期の『和名類聚抄』からの推定なので、ここにあるすべての地名が3世紀に揃っていたわけではありません。その中でも、遠賀川流域の地名は物部氏の発祥地なのでかなり古い地名と考えられますが、物部氏は大和朝廷が成立してから賜姓降下によって誕生した氏族なので、近畿の地名は物部氏の北部九州からの移住に伴って、徐々に増えていったと考えられます。 邇芸速日命に帯同した神には天津麻羅(あまつまら)もいました。第12回でお話ししたとおり、天津麻羅は天照大御神が天の岩屋戸に隠れた時に、天の金山の鉄を採って石凝姥命(いしこりどめのみこと)と協力して八咫鏡を作った鍛冶師です。名前に天津が付くことや神器作りを職業としていることから天津神のようにも思えますが、『先代旧事本紀』には天津麻羅は物部氏の祖と記されています。天津麻羅も天津神から物部氏へと賜姓降下したのだと思います。 ところで、遠賀川河口は豊の国(台与の国)であり、台与は万幡「豊」秋津師比売命のことでしょう。そして、万幡豊秋津師比売命の御子が邇芸速日命で、孫が天香語山命です。豊の国である福岡県若宮市(遠賀川の支流の犬鳴川のほとり)には天照神社(あまてらすじんじゃ)があります。主祭神は神社名から連想される天照大御神ではなく、邇芸速日命(正式名は天照国照彦天火明櫛玉邇芸速日命)で、邇芸速日命が出身地の豊の国に祀られていることがわかります。この神社は、初めは南西に約6km離れた笠置山(かさぎやま:425m)という菅笠(すげがさ)を置いたようなゆるやかな円錐形の、四方の見晴らしの良い山頂に鎮座していましたが、鎌倉時代にふもとの現在地に遷座されました。笠置山は弥生時代の稲刈りの道具である石包丁(いしぼうちょう)の原石(輝緑凝灰岩)を採取した山でした。輝緑凝灰岩は薄く細長く割れる性質があり、石包丁の加工に最適な石なのです。笠置山の南東のふもとに位置する飯塚市の立岩遺跡では石包丁の生産を行い、北部九州を中心とした各地に供給していました。豊の国は遠賀川を中心とした水運の他に石包丁生産でも繁栄していたのです。記紀や先代旧事本紀、和名類聚抄、神社の祭神などを総合すると、遠賀川河口付近を含む豊の国はやはり物部氏の祖先の発祥の地と見て良さそうです。 邇芸速日命が生駒山系の哮峯(いかるがみね)で言った「虚空見つ(そらみつ)日本国(やまとのくに)」は「哮峯の天空から見おろしたやまとの国」という意味でしょう。第8回に書いたとおり、「邪馬台」も「倭」も「大和」も「日本」もみんな「やまと」と読み、その意味は「山ふところにいだかれた良き処(ところ)=山処(やまと)」です。邇芸速日命の出身地は朝倉盆地の「邪馬台」で、哮峯の天空から見おろした奈良盆地も「山ふところにいだかれた良き処=山処」なので、邇芸速日命はこの地も「やまと」と呼ぶことにしたのでしょう。すなわち、「天香具山」の名と同様に「やまと」の名も朝倉盆地から奈良盆地へと運ばれたのです。なお、日本書紀にも神武天皇紀の最後に付け足し程度に、「邇芸速日命が天磐船に乗って大和国を見おろして、虚空見つ日本国と言った」と記されています。なお、古事記には記されていません。 また、万葉集などでは「空見つ」が「大和」に掛かる枕詞(まくらことば)として使われています。「空見つ大和」が含まれる和歌は万葉集にたくさんありますが、万葉集の冒頭歌である第二十一代雄略天皇の長歌(ちょうか)にも含まれており、その箇所を紹介します。 「……空見つ大和の国は おしなべて我こそ居れ 敷なべて我こそ坐(いま)せ……」 (訳:……天空から見おろした大和の国はすべて私の領土であり、隅々まで私が統治している……。枕詞は訳さないのが一般的ですが、語源を知って訳すと味わいが増します。) その後、邇芸速日命は哮峯から南東方向にある白庭山に遷(うつ)りました。白庭山は奈良県生駒市の富雄川(とみお がわ)の上流付近であると言われています。富雄川流域には鳥見(とみ)の地名も残り、奈良の豪族の登美長髄彦(とみの ながすねひこ)の本拠地です。 邇芸速日命は長髓彦を臣下とし、長髓彦の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ:記紀では登美夜毘売)と結婚しました。政略結婚により支配権を得る手法は、伊邪那岐命や大国主命と同じです。邇芸速日命は、銅鏡、鉄剣、玉を含む「十種の神宝」を持っていましたが、銅鐸を威信財としていた長髄彦は受け入れませんでした。むしろ邇芸速日命の方が、郷に入っては郷に従えの精神で銅鐸文化を受け入れたのです。このように高天原(邪馬台国)と奈良盆地では文化が異なるために、3世紀の奈良の弥生遺跡からは、卑弥呼が魏からもらった後漢式鏡が「一面も」出土しないのです。奈良県内で三角縁神獣鏡や鉄剣、勾玉が出現すのは、4世紀の古墳時代(大和朝廷時代)に入ってからです。 邇芸速日命は銅鐸文化を受け入れただけでなく、長髄彦とともに中型銅鐸を1メートルを超すような大型銅鐸へと発展させました。邇芸速日命の奈良への天降りが大きな抵抗もなく成功したのは、長髄彦の妹の御炊屋姫と結婚して一族の地位を保証するとともに銅鐸文化を継承して、長髄彦と融和したからだと思います。また、長髄彦が奈良の地の支配権を邇芸速日命に明け渡して服属したのは、鉄鏃を持つ邇芸速日命と、銅鏃や石鏃しか持たない長髄彦という、圧倒的な国力の差を正しく見極めたからだと思います。 御炊屋姫は妊娠しましたが、子が産まれないうちに邇芸速日命は亡くなり、後に宇摩志麻治命(うましまじのみこと)が産まれました。邇芸速日命は白庭山のそばの白庭邑(しらにわむら)に葬られました。邇芸速日命の墓は小規模で無数の小石が低く盛られていますが墳形は良くわかりません。270年代はまだ古墳時代になっていなかった証拠です。宇摩志麻治命は邇芸速日命の地位と「十種の神宝」を引き継ぎ、後に物部氏の祖と言われるようになります。一方、高天原からの天降りに帯同した天香語山命は紀伊の熊野村に遷り、高倉下(たかくらじ)とも呼ばれ、東海地方に進出して後に物部氏一族の尾張氏の祖と言われるようになります。また、阿遅鉏高日子根神は、大国主命と宗像三女神の多記理比売との間に産まれた御子で加茂氏の祖として、出雲国造神賀詞どおりに奈良県御所(ごせ)市の高鴨神社の祭神(迦毛之大御神:かものおおみかみ)として祀られています。 さて、第17回では、出雲の銅鐸が、大国主命の国譲りに伴い270年頃に一斉に埋められたことをお話ししました。しかし、270年頃の近畿や東海地方では、大型銅鐸がまだ威信財として通用していました。東海地方において三遠式銅鐸を発展させて広めた中心人物は、後世に東海地方の尾張氏の祖と称されることになる天香語山命の可能性があります。一方、近畿地方において近畿式銅鐸を発展させて広めた中心人物は、邇芸速日命や長髓彦に加えて、後世に奈良や大阪に居住した物部氏の祖となる宇摩志麻治命の可能性があります。 しかし、一代目の邇芸速日命は早くに亡くなり、二代目の宇摩志麻治命の時代になると権威や政権基盤の弱体化が始まります。そして、280年頃になって神倭伊波礼毘古命が二番手として奈良への天降りを敢行したのです。神倭伊波礼毘古命による奈良への天降りと、それに対して宇摩志麻治命などがどのように対応したかについては後の回で説明しますが、近畿地方や東海地方の大型銅鐸は、出雲の中型銅鐸の消滅から10年ほど遅れて、土中に埋められて、世間から忘れ去られるという同じ道をたどりました。 続日本紀(しょく にほんぎ)には713年の出来事として、「大和国の長岡野(奈良県宇陀市付近)で、高さ三尺、口径一尺の銅鐸を得て(大和朝廷に)献上された。其の形は異常だが音は律呂(りつりょ)に協(かな)っている」と記されています。この記事からわかることは、記紀には記されていない「銅鐸」という文字が古文献に初めて使われていることと、献上されたのは、高さが90センチ以上あったので大型銅鐸であり、形が異常で不審ではあるけれども、鳴らすと良い音がした、ということです。銅鐸が埋められて400年以上経っているので誰が埋めたのか、何の役割があったのか分からなくなっています。そして、江戸時代にも各所から偶然に銅鐸が掘り出されていますが、鳴らしてみた様子も伝えられておらず、用途不明の「奇器」として記録されるだけになってしまうのです。 (地図作成:うさんぽデザイン/USA) 高橋 永寿(たかはし えいじゅ) 1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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