第10回 哲学が人生でいちばん役に立った瞬間:タイのマッチングアプリ
タイに住んでいるというと、よく人から「どうしてタイに住んでいるんですか」と聞かれる。 別に高邁な理由があるわけではない。きっかけは日本の友人がタイに住んでいて、「遊びに来なよ」と誘ってくれたことだ。それで10日間ほど旅行してみたら、たいへん楽しかった。ご飯はおいしい。冬も暖かい。物価も安い。ともあれ居心地がよかった。 そこで、もう少し長く住んでみたいと思った。調べてみると、タイ語学校に入学すれば留学ビザを取得でき、ひとまず一年ほど滞在できるらしい。これまでネオ高等遊民は一人暮らしというものをしたことがなく、はじめての一人暮らしが海外というのは少々不安もあったが、その友だちの近所に住めば何かと頼れるだろうし、もしどうしても気に入らなければ一年で帰ればいい。別に本当に厭になったら、語学学校も辞めて即帰国すればいい。全然後戻りできないような決断ではない。当時すでにYouTuberもやっていたので、半分ネタになるというのも大きかった。 そういうわけで入学手続きをして、留学生としてタイに来た。それが2019年の末ごろである。タイ語学校には週に二回、楽しく通っていた。どういうわけかクラスメイトは女性が多く、インド人やロシア人と仲良くなった。 それはともかく、2020年2月ごろから新型コロナウイルスの騒動が始まった。語学学校は休校となった。飲食店も閉まり、ホテルまで休業するような状態になった。日本でも「自粛」という言葉が毎日のように使われていたと思うが、タイでも似たようなもので、ほとんど家から出ない生活となった。インド人もロシア人も帰国してしまった。 当然ながら、やることがない。すると日本の友人から、「マッチングアプリでもやったら?」と言われた。この友人は、若いときにアパレルメーカーかなにかで働いていて、タイにたびたび仕事で行っていたそうだ。それから退職後にインターネットビジネスで大成功して、タイで暮らし始めたという人だった。お酒がとにかく大好きで、ナイトクラブで初対面のお姉ちゃんに新車のバイクを買ってあげたことがあるという、器の大きい人物である。 そんな人だからマッチングアプリをすすめてくるというのは、まあ理解できる。実際、タイ人の友達を作るのにもいいし、恋人ができれば楽しいだろうという、ごく一般的な価値観である。こちらとしても、ほかにやることもないし、一・二か月くらいならやってみるかと思いマッチングアプリを始めた。 最初に、マッチ条件を設定した。遠距離恋愛などする気はまったくなかったので、同じ県内に住んでいる人だけに絞った。とにかく会って話すことができる人が欲しいからだ。そして条件に当てはまる人には、かなり広く「いいね」を押した。選り好みできるような身分ではない。(写真はイメージ) それでも何人かとマッチして、チャットをするようになった。ひとりは、浮気されて傷心中の方だった。一応会いはしたが、当時はほとんどまったくタイ語がわからなかったため、愚痴を聞かされていると思われたが理解できず、そのためお相手もあまりこちらを気に入らなかったようだ。 今回お話したいのは、同じ町に住んでいるという中国人女性のことだ。自分のことは棚に上げて、タイ人以外にもマッチングアプリをやっているんだなと思った。プロフィール写真を見るかぎり、かなりの美人だった。ジムかどこかの自撮りで、スタイルもよかった。ここは今回のお話の根幹にかかわるため、もう一度確認しておきたい。美人で、スタイルがよかった。 チャットもそこそこ続いた。外国人と話していると、「いま何してるの?」というメッセージが頻繁に送られてくる。日本では「いま何してる?」などというメッセージは、話題のない人間が送るダメなチャットの典型のように言われることがある。しかし、少なくとも私がタイで知り合った人たちは、そんなことを気にしない。 毎日のように、「いま何してる?」と送ってくる。「家にいるよ」「ご飯を食べてるよ」「YouTubeを見てるよ」と、こちらもその程度のことを返す。だいたいコロナなんだから外には出ないだろう、ふつう。 ある日、その中国人女性から、いつものようにメッセージが来た。 女性「いま何してる?」 ネオ「家にいるよ。本読んでる」(当然、嘘である) 女性「私も家にいる」 ネオ「何してるの?」 女性「オンラインカジノ」 ネオ「ほう」 この「ほう」には、警戒心と関心とを半分ずつ含めていた。私の理解では、タイでオンラインカジノは違法である。とはいえ、そんなこといちいち指摘する義理も空気でもないから、適当に話をつづけた。 「儲かるの?」 「すごく儲かるよ」と彼女は言う。 「ネオもやってみる?」 「いやいやいや、危険でしょ」と答えると、彼女はさらに言った。 「ぜんぜん大丈夫だよ。みんなやってるよ」 そして、 「私の家で教えてあげる」 というようなことを言ってきた。そんなストレートに言っていたはずはないと思うが、ともあれそんなニュアンスのような話であった。 私はまた「ほう」と言った。これも何かさっきとは別のものを含んでいた。 さて、当然ながら、ものすごく悩んだ。オンラインカジノを始めるというリスクを引き受けて、美人でスタイルのよい中国人のお姉ちゃんの家へ行くか。それとも、やめておくか。 普通に考えれば、比較するまでもない。違法なオンラインカジノに誘ってくる、会ったこともない人の家へ行くべきではない。プロフィール写真が本人である保証すらない。仮に家とやらへ行ったところで、写真の美女が本当にいるかどうかもわからない。 しかし欲望というものは、本来なら比較できないものを同じ天秤に載せる。一方には、法律上の問題、詐欺の可能性、身の安全、その他いろいろな危険がある。もう一方には、美人でスタイルがよい、ということがある。スタイルがよいというか、哲学者らしくより端的に言えば胸がでかい、ということがある。しかも実物は見ていないのに。 こうしてあらためて文字に書いてみると、お前はいったい何に悩んでいたんだと我ながらあきれ返る。しかし私は、少なくともあの時、真剣に悩んだのである。冗談でもなんでもなく、私の人生でもっとも理性を用いた瞬間はこの時だと言える。大学院で哲学を勉強していたときよりも、はるかに真剣に理性を用いた。 ところで、理性を正しく用いるといえば、デカルトである。私は頭を抱えながらも、デカルトの『方法序説』を思い出していた。 デカルトといえば、あらゆるものを疑い、絶対に疑うことのできない真理を探した哲学者として知られている。そして『方法序説』は、彼の自伝的な記述をふくむ作品だ。 思えば、マッチングアプリほど懐疑にふさわしい場所もない。私は頭のなかで、『方法序説』だけでなく『省察』まで総動員した。 プロフィール写真は本人なのか。 中国人というのは本当なのか。 オンラインカジノで儲かっているというのは本当なのか。 私に好意があるのか。 本当に家へ招こうとしているのか。 いったい私は誰と話しているのか。 そもそもお姉ちゃんは存在するのか。 悪霊に欺かれているのではないか。 私の自由になることはお姉ちゃんではなく、疑わしき事柄には同意しないことだけではないか。 すべてが疑わしい。しかし、行くか行かないかだけは決めなければならない。真理の探究は保留できても、生活は保留できない。これはデカルトがそう言っているのだ。そこでデカルトは、確実な真理が得られるまでのあいだ、ひとまず従っておく行動原理を設けた。いわゆる「暫定道徳」である。 暫定道徳の第一の格率は、おおむね法律と慣習に従い、穏健な意見を守ることだった。ところで、タイでオンラインカジノは認められていない。したがって、行かない。第一の格率だけで、ほとんど結論は出ている。にもかかわらず、私は第二の格率も慎重に確認する。まるでこの結論に納得していないかのように。 第二の格率は、自分の行動において、できるかぎり確固としていることである。たとえ疑わしい意見であっても、一度それに決めた以上は、確実な意見に劣らないほど一貫して従う。 これは、確実な答えが出るまで迷い続けろという教えではない。むしろ逆である。いつまでも迷って動けなくなるくらいなら、ひとまず方針を決め、その方針に従えということだ。したがって、「行かない」と決めたなら、その後に新しい写真が送られてきても決定を変えてはならない。 美人だった。スタイルもよかった。しかし、一度決めた以上は、行かない。第二の格率は、第一の格率によって出された結論を固定してくれる。当然、私は第三の、そして最後の格率に一縷の望みを託した。この不幸な結論を覆してくれはしまいかと。ところが第三の格率は、私がもっとも聞きたくないことを言っていた。 第三の格率は、運命よりも自分に打ち勝つよう努め、世界の秩序よりも自分の欲望を変えるよう努めることだった。 冷たい、実に冷たい格率である。私はデカルトに文句を言った。哲学なんてやってると、機微というものがわからなくなる。 たしかに、世界の秩序を変えることはできない。つまり、この世界には、美人でスタイルがよく、オンラインカジノを教えてあげるから家に来ないかと言ってくるお姉ちゃんが存在する。少なくとも、マッチングアプリ上には存在する。その世界を変えることはできない。変えられるのは、自分の欲望である。 私がそのとき、どのような欲望を持っていたのかは明晰判明である。したがって、変えるべきものも明晰判明である。すなわち「ノーリスクで善いおもいをしたい」という欲望であり、これを変えなければならない。リスクをとるか、「善さ」を断念するかである。むろん、善を断念するなどということは語義矛盾・文法違反である。善とは常に求められるものであるから。つまり、善と信じて疑わないものを、善ではないと認識しなおさなければならない。これは苦痛であり、悲劇である。生まれてこなければよかった。 しかし、どうあがいてみても、三つの格率は、冷厳に同じ結論を指していた。 行かない。行くわけがない。行く意味が皆目わからない。 これが、理性を正しく用いた結果である。 私は、その誘いを断った。歯を食いしばり、壁を打ちながら。 いま思えば、相手が本当にプロフィール写真の人物だったのか、実際に家へ招くつもりだったのか、私と仲良くなりたかったのかもわからない。何も確実ではない。しかし、不確実だからこそ、暫定道徳が必要だった。 哲学は役に立つのか、とよく聞かれる。 正直なところ、哲学を勉強したおかげで仕事ができるようになったとか、人間関係がうまくいったとか、お金持ちになったとか、そういうことは特にない。だが一度だけ、哲学がきわめて具体的に役に立ったことがあると胸を張って言える。会ったこともない美女の家へ行くために、違法なオンラインカジノをすることを思いとどまらせてくれた。哲学が人生でもっとも役に立った瞬間である。 デカルトありがとう、と思った。 言うまでもないが、これは哲学によって私が高潔な人間になったという話ではない。今から振り返れば、こんなことで真剣に悩んでいること自体が、形容しがたいほど愚かであるとしか言いようがない。はっきりいって、相手が美人でスタイルのよいお姉ちゃんでなかったなら、おそらくデカルトを思い出すまでもなく断っていた。そのような違法なことをすすめるとは恥を知るべきだなどと言いながら、自らの道徳的な振る舞いを讃えていたに違いない。 ちなみにその後、彼女との連絡がどうなったのかは、よく覚えていない。おそらく、そのまま途絶えたのだと思う。なぜ覚えていないのかを考えてみれば、正しい判断というものは、あまり記憶に残らないからであろう。危険を避けたために事件は起こらず、事件が起こらなかったために物語も残らない。 彼女の名前も会話も覚えていないが、美人でスタイルがよかったことだけは覚えている。これは人間の記憶が、欲望の痕跡で構成されていることをよく示している。外に現れる行為においては理性は勝利したかもしれないが、自らの内なる記憶においては欲望が勝利していると言わざるを得ない。理性と欲望の力関係は、決して自明ではない。 最後までお読みいただきありがとうございました。 ◇ ◇ ◇ 読み飛ばした方のために、今回の話を三点にまとめておきます。 ・コロナで暇になり、マッチングアプリを始めた。 ・美人でスタイルのよい中国人女性からオンラインカジノに誘われた。 ・デカルトのおかげで、美女の家には行かなかった。 ネオ高等遊民 日本初の哲学YouTuber。タイ在住。著書『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書』(2024)。『ゆる古代ギリシア哲学入門』(2025)。コロナで暇になり、いいねを押しまくる

中国美女の家へ行くか、行かないか。それが問題だ。
マッチングアプリほどデカルト的な場所はない
デカルトの三つの格率で考える
哲学が人生でいちばん役に立った瞬間
YouTubeチャンネル「ネオ高等遊民:哲学マスター」:https://www.youtube.com/@neomin
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