第11回 熱心なファンではない人が日本からタイの自宅までやって来た
ここ最近のエッセイでは、私は自分を器の小さい、卑しい人間として描き出すよう努めてきた。 もちろん、これは単なる自虐ではない。自己自身を知るという、哲学において最も重要な仕事を、日常生活のなかで実践しているのである。しかし、自己認識というものは、自分を悪く評価しておけばよいという話でもない。欠点だけを強調し、長所を認めないのも、それはそれで誤った認識、あるいは不正な認識である。というより、私の場合は、謙遜の衣をまとった自己顕示欲でしかない。 というのも、正直に言うと、私はおそらく、そこまで器の小さい人間ではないからだ。いくら読者の歓心を得るためとはいえ、嘘をつき続けることは心苦しい。いやむしろ小さいどころか、公平に考えれば、それなりに器量の大きい人物なのではないか。そう思わざるを得ない出来事が、最近あった。以下の話を読んで、読者諸賢のご判断を仰ぎたい。 こんな活動をしていると、ときどき視聴者らしき方からメールをいただくことがある。 「いつもYouTubeを見ています。今度、旅行でバンコクへ行くのですが、ネオ高等遊民さんにお会いして、お話しすることはできますか」 というような問い合わせである。年に一回か二回くらい来る。 そのたびに私は、こんな返事をする。 「わざわざご連絡ありがとうございます。ただ、私はバンコクには住んでおらず、タイ北部の地方都市に住んでおりますので、お会いするのは難しいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。」 これはもちろん事実である。バンコクから私の住んでいる町までは、かなり離れている。日本でいえば、東北地方に住んでいる人間に対して、東京へ旅行に来る人から「せっかくなので会いましょう」と言われるようなものだ。わざわざ東京まで行くのは面倒くさい。 本当に私がバンコクに住んでいるなら、会ってもよい。なんなら喜んでお会いしたいという気持ちさえ、微塵もないと言ったらウソになる。しかし住んでいないのだから会えない。心から残念に思っている。 もちろん先方もたいてい、「そうだったのですね。残念です。お返事ありがとうございました」などと返してくれる。こうして双方とも、礼節を保ちながら面倒なことを避け、気持ちよく別れてきた。 ところが、今回は少し違った。届いたメールには、おおむね次のようなことが書かれていた。 「私はそこまで熱心なファンではないのですが、友人がネオ高等遊民さんのファンです。私がタイへ行くと伝えたところ、もし会えるなら、ぜひ会ってきてほしいと言われました。お会いすることはできますか」 「ほう」と私は思った。 初めて連絡する相手に対して、まず「私はそこまであなたの熱心なファンではない」と断ってくる人は珍しい。普通は、メールを書いている数分間だけでも、もう少し熱心なファンのふりをするものではないだろうか。しかも、自分が会いたいというより、友人から「会ってこい」と言われたので連絡してきたらしい。友人のファン活動を代理で遂行しているようだ。 ちょっと言葉は悪いがありのままを書くならば、「なんだこいつは」と私は思った。本当は「ほう」どころではない。ただでさえ知らん奴に会うなんて、あまり気が進まないのに。 それでも私は、いつものように「私はバンコクには住んでおらず、タイ北部に住んでいますので……云々」と返事をした。すると、 「北部というと、チェンマイですか。チェンマイにも興味がありますので、チェンマイなら行きます」 という返事が来た。こんなふうに食い下がってくるのはかなり珍しい。 チェンマイというのはタイ北部でもっともにぎやかな県で、中心部は外国人の観光客や長期滞在者も非常に多い街だ。 しかし、私はチェンマイにも住んでいない。チェンマイからさらに車で二時間弱かかる町に住んでいる。読書会サークルのメンバーみたいな親しい人が遊びに来たなら、チェンマイまで迎えに行こうと心のなかでは決めている(それでもバンコクは行かない)。しかし、初めてメールを送ってきた人、しかも熱心なファンでもない人については対象外だ。 そこで、「チェンマイも少し遠いので、予定とタイミング次第ですね」と、やや柔らかく断った。すると、 「それでは、ネオ高等遊民さんのお住まいの町まで行きます。ぜひお会いしてください」 と言われた。 再び私は「ほう」と思った。熱心なファンでないのに、なぜこんなに会いたがる? 友人に会えるなら会ってこいと言われただけなのに、なぜここまで食い下がる? なにか別の目的があるのではないか? 私は少々怖くなってきた。 しかしまあ、ここまで来ると、これ以上断るためには、「距離の問題ではなく、そもそも見ず知らずの人に会いたくないのです。(なんか怖いんで)」と明言しなければならない。しかしさすがの私も、そこまで正直にはなれない。ということで、断り切れずに会うことになった。私は押しに弱いのかもしれない。 その方は、列車やバスを乗り継ぎ、日曜日の朝7時ごろ、私の住んでいる町に到着するという。 朝7時。 高等遊民を名乗る者にとって、自然に目が覚めてもいないのに朝6時台に起きることは、かなり習慣に反する。なので私は「7時に起きられるか自信がありませんが、遅くとも8時までには迎えに行きます」と伝えた。 そして当日、私は午前5時45分に起きた。そして7時には待ち合わせ場所に着いた。ここは重要なところなので、覚えておいていただきたい。正確に言えば、別に重要でも何でもないのだが、ただ単に覚えておいていただきたい。 さて、熱心なファンでもないのに、人を早朝から迎えに来させるとは、どんなやつなのか。 実際にお会いしてみると、たいへん感じのよい青年だった。別にやばそうなところもなく、礼儀正しく、話しやすい方であった。青年は、とりあえず朝田哲也という仮名で呼んでおこう。深夜便に乗って早朝から哲学YouTuberに会いにくるんだから、朝田哲也とかでいいだろう。 さて、朝田哲也を車に乗せたはいいが、朝早く、まだ開いている店もほとんどなかった。私は「ご飯とカフェだったら、どちらがいいですか」と尋ねた。「ご飯が食べたいです」と答えた。 どうでもいいが、私はふだん、11時か12時ごろに朝食と昼食を兼ねた食事をする。朝7時など、眠くて飯を食う時間ではない。しかし、朝から営業している店を探し、車で連れていった。そのあと、景色のよいカフェへ行った。雨季で気温もそれほど高くなく、外のテラス席でコーヒーを飲みながら、いろいろと話をした。始終感じはよかった。 それから、ほかに行くところもなかったので、自宅へ連れていった。私の本棚を見るなり、嬉しそうに写真をパシャパシャ撮っていた。そこで私は尋ねた。 「そういえば、私の『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書』はお持ちですか」 「持っていません。熱心なファンではないので」 そうだった。会いたいとメールして何度も食い下がり、早朝に会いに来て、そのうえ自宅まで来て写真を撮りまくっているが、こいつは熱心なファンではない。まったく伝える必要がないことをわざわざ明言するくらいだから、よほど誤解されたくないのだろう。しかし、デカルトも「第一省察」のおわりで懐疑の遂行(=疑い続けること)そのものの困難さを語っていたが、直観に反する認識を堅持するのはまことに困難である。 ともあれ私は手元にまだ何冊か持っていたので、一冊プレゼントすることにした。すると、「ありがとうございます。サインもいただいていいですか」と言われた。熱心なファンではないが、サインは欲しいらしい。これも直観に反する事象である。私は本に「ネオ自宅にて」などと書いた。自宅まで来なければ手に入らない、たいへん希少なサインである。 そのあと、町の観光名所や寺などをいくつか案内した。しばらくして私は、そういえばこの人は何日くらい滞在するのだろうと思い、「帰りはいつなんですか」と尋ねた。 「今日、日本に帰ります」 一瞬、意味がわからなかった。ここはバンコクじゃないんだぞ。今からどうやって帰るんだ。聞けば、夕方6時半ごろの飛行機でバンコクへ戻り、その日の深夜便で日本へ帰るのだという。もちろん、私に会うためだけにタイへ来たわけではないだろう。しかし、タイ旅行の最終日に、わざわざバンコクから北部の地方都市までやって来て、早朝から私に会い、夕方にはまたバンコクへ戻って、そのまま日本へ帰る。なかなかの予定である。 私はてっきり、午前中に食事とカフェと少々の観光をすれば十分だと思っていた。ところが、その日の夕方にはもう飛行機に乗る。しかも、ほかに行きたい場所も、やりたいことも特に考えていないという。私の住んでいる町は、車やバイクがなければ観光するのも難しい。午前中で「それでは私は帰ります。あとは適当に時間を潰してください」と言って、その辺に放置するわけにもいかない。 仕方がないので、そのまま夕方まで付き合うことにした。 その日は日曜日で、土日だけ出店が並ぶ大きな公園へも連れていった。食べ物や雑貨の店がたくさん出ていて、ちょうどイベントのようなことをやっていた。しかも象まで来ていた。タイといえば象である。ただ遠くから見るだけでなく、すぐ近くまで行き、実際に触ることもできた。 公園では、果物の出店もたくさん並んでいた。タイは果物が安くておいしいので、「好きなものがあったら食べたらいいですよ」と言った。すると朝田哲也はドリアンを食べたいと言った。 珍しい人である。ドリアンは、味だけでいえばたいへん甘い果物だが、とにかく匂いが強い。タイ人のあいだでも好き嫌いは分かれる。しかも、タイの果物はたいてい安いのに、ドリアンだけはそれなりに値段が張る。日本でいうメロンのような位置づけである。朝田哲也はマレーシアでドリアンをはじめて食べたとき、そのおいしさに感動したらしく、ドリアンが売っているならぜひもう一度食べたいとのことだった。やはり珍しい人である。 丸ごと一個買って食べるわけではないので、その場で食べられるように切ってあるものを探した。最初に見つかったものには三切れほど入っていたが、そんなにはいらないというので、私が店の人にもっと少ないものはないかと聞いた。するとふた切れ入りがあるというので、それを買うことになった。私はカットパイナップルを買い、朝田哲也はカットドリアンを買った。 「ネオさんもひと切れどうですか」と言われたが、断った。私はドリアンがどちらかといえば嫌いだ。甘すぎる味もあまり好きではないし、あの独特の匂いも好きではない。そして座って食べられる場所に行こうと思っていたのだが、唐突に朝田哲也がこんなことを尋ねた。 「車の中で食べてもいいですか」 ダメに決まっている。どういう会話の流れでこんな話になったのかは覚えていないのだが、車でドリアンを開ければどえらいことになりかねない。仮に朝田哲也がネオの熱心なファンであったとしても、車の中でドリアンはダメだ。ましてや熱心なファンでもないのだから言語道断である。 結局、広場のカフェで果物を食べて事なきを得たが、朝田哲也は大好きなドリアンを食べているはずなのに今一つ反応が薄い。どうしたか聞いたら、マレーシアで食べたドリアンのほうがおいしかったらしい。そうか。そして再びドリアンをひと切れすすめられたが、さっきよりもいっそう断った。 そのあとも観光地をいくつかまわり、ちょっとしたショートツアーにも参加した。夕方には、飛行機に間に合うようターミナルまで車で送り、「気をつけて帰ってください」などと言って別れた。こうしてネオ高等遊民の一日が終わった。 念のために言っておくと、朝田哲也は終始たいへん感じのよい青年であった。不愉快なことを言われたわけでも、何か問題が起きたわけでもない。もしまた遊びに来たら、また歓迎しようと思っている(熱心なファンになっていればだが)。私はただ、いくつかのやりとりをごく真面目に、淡々と報告しているだけである。 さて、以上の話を公平に考えていただきたい。論争的・反駁的にではなく。そうすれば、少なくとも、私が親切なことをした点にはご同意いただけるだろう。しかも私は、さまざまな困難にめげずに全力でおもてなしをしている。もともと親切をするのが好きな人なら、それだけでも楽しいのだろうが、私は艱難辛苦に耐えつつ、一日付き合った。こちらのほうを少し高く評価してもよいと思う。 この点について、哲学者カントは頼もしいことを言っている。親切にするのが好きだからという好みや欲求、つまり「傾向性」からの行為と、自分のすべきことだからという「義務」からの行為とを区別する。人を助けたい気持ちが湧かなくても、義務から助けるなら、その行為には道徳的価値があるという。 なんだ。私のことではないか。できれば家でのんびりしていたかった。しかし、遠くから来た人をその辺に放置するのは悪いと思い、夕方まで付き合った。「私はあなたの熱心なファンではない」と言われているのに、できる限りもてなした。私ほどカント的な人間はいない。私自身はあくまでひとつの身体を持つ死すべき存在にすぎないが、あの日、朝田哲也をおもてなししていたのは実質的には純粋実践理性だったと言ってよい。 とはいえ、私の生来の真理を愛する心が、異論をさしはさんでやまない。「いやいや行えば、道徳的だというわけではない」と。つまり、カントのいう道徳的行為の条件は「いやいややること」ではなく「義務からやること」である。どれほど気が進まなかったかよりも、なぜそれでも行ったのかが問題になる。別の欲求を満たすために、したくないことをする場合もある。 私はできれば午前中で帰りたかった。しかし、車もバイクもない人を知らない町に残し、家で昼寝をしながら「あの人はいま、何をしているのだろう」と考えるのは嫌だった。そんなことを気にしていては、のんびりできない。それなら最後まで付き合ってしまったほうがよい。ということは、私の親切の動機は、義務からではなく、傾向性からということになる。 何かが、おかしい。 しかしおそらく、カントがおかしいのだろう。ネオ高等遊民の器量を正しく判断するのは、カントのような古い哲学者ではなく、読者諸賢である。 正直に言って私はその日、特に会う前は、いろいろと面倒くさがっていたことは否めない。ところが、いまその日の話をすることについては、少しも面倒だと思っていない。むしろ嬉々として、微に入り細を穿つように語っている。親切をすることと、親切をしたことを振り返ることとは、どうも違うらしい。 この点について、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』第九巻で、おもしろいことを言っている。 恩恵を施した人は、恩恵を受けた人から愛される以上に、その相手を愛する。それは、職人や詩人が自分の作品を愛するのと似ている。恩恵を受けた相手は、恩人にとって、自分の仕事の成果なのだという。 さすが古代人、すごいことを言う。親切にした相手を、自分の作品だと考えるらしい。「あなたの現在のよい状態(親切にされた状態)には、私の働きが現れている」というわけである。私は朝田哲也を作品扱いする気は微塵もないし、彼は会う前からすでに感じのよい立派な方だった。 ただし、あの日の朝田哲也の一日については、私が作ったと言ってもよい。朝7時から歓待を受け、朝食を食べ、気持ちのよいカフェで一服し、自宅で本をプレゼントされ、象に触り、マレーシアで食べたものよりもさほどおいしくはないドリアンを食べ、夕方にはターミナルに着き、無事日本へ帰った。たしかにこれらは、すべて私が作ったものである。あの日は眠くて仕方がなかったが、いま眺めるぶんには、なかなかよい思い出である。 しかも、そうやって思い返しているうちに、このエッセイもできた。朝田哲也は私の作品ではないが、朝田哲也をもてなした話のほうは、本当に私の作品になってしまった。アリストテレスの言うことにも、一理ある。ちなみに器量についてアリストテレスは、「単に親切なことをするのと、親切な人柄に基づいて行為するのは別である」などと言っており、あまりネオ高等遊民の器量の大きさを量る参考にはならない。 朝田哲也がその後、ネオ高等遊民の熱心なファンになったかどうかは知らないが、おそらくこのエッセイを読んだら、熱心なファンになることは取りやめるだろう。ひとえに、ネオ高等遊民の不徳の致すところである。 ◇ ◇ ◇ ・熱心なファンではない人が、わざわざタイの自宅まで会いに来た。 ネオ高等遊民 日本初の哲学YouTuber。タイ在住。著書『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書』(2024)。『ゆる古代ギリシア哲学入門』(2025)。
・コーヒーを二杯頼むのをケチる
・自分は我慢しているのに、家事のお手伝いさんがエアコンをつけていると、「俺はつけてなかったけどね」と反射的に思う。
・金はないが宝くじは買わない熱心なファンではない人から会いたいと言われた
熱心なファンでないのに朝7時にやってくる

熱心なファンではないのにドリアンは食べる(別にいいが)


私ほどカント的な人間はいない
アリストテレスによれば、朝田哲也はネオの作品である
最後までお読みいただきありがとうございました。読み飛ばした方のために、今回の話を三点にまとめておきます。
・熱心なファンではない人が、車の中でドリアンを食べようとした。
・カントの道徳法則に照らし合わせても、車の中でドリアンを食べてはいけない。
YouTubeチャンネル「ネオ高等遊民:哲学マスター」:https://www.youtube.com/@neomin
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