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第8回 お金があったらもっと哲学をがんばれるのか?(んなわけない)

最近、宝くじが気になってきた。理由はもちろん金がないからである。タイは宝くじが大人気で、そこらじゅうで売っている。国が認めていないアングラな宝くじもあるらしい。日本は駅前などに宝くじ売り場があるだけだが、タイでは宝くじを売る仕事というのがあるようで、とにかく個人でレストランや飲み屋など人が集まるところに足繁く通い、「ホックラーン、ホックラーン (6 ล้าน)」と客に声をかけている。「600万」という意味で、1等賞の当選金額だ。

以下は生成AIによるイメージ画像だが、おおむねこういう感じだ。

日本では考えられないが、よそさまの飲食店のなかに堂々と入り、客の座るテーブルをまわって売っている。もちろんたいてい「ヤン・カー (ยังค่ะ) 」(まだ結構です)と断られるので、本当にこの人たちはメシを食えているんだろうかと心配になる。こういう宝くじを買うタイ人も、純粋に宝くじがほしいというよりは、甲斐甲斐しく宝くじを売るおじさんやおばさんへの援助という意味合いで買っている面がある。タイは僧侶への寄付文化(タムブン)があるためか、世俗の人々についても購入という形での人助けがそれなりに一般化している。大衆食堂にはあまり似つかわしくない、ちょっときれいな恰好をした中華系の婦人なんかがこういうのをよく買っている。それに、売る側もそれを承知で、同情を誘うような出で立ちや状況を作り出すのがうまい。ほかにはたとえば、国道の信号のある交差点で高校生くらいの子供が、信号待ちの車を1台ずつまわって頭を下げながら、ヤクルトみたいな乳酸菌飲料や交通安全のお守り(お花)を売っている姿を見かける。これなんか明らかに「かわいそうだから買ってやるか」という気持ちを引き出すものだろう。まあ実際、炎天下の交差点なんかに立つのは大変である。もちろん私は買ったことがない。

さて、宝くじにも種類があるが、もっともポピュラーな、日本でいうところのドリームジャンボ宝くじみたいなものは1枚80バーツで、さっき言った1等の600万バーツは1バーツ5円計算なら3000万円である。どうでもいいが80バーツは公式価格で、売り子はわずかな利ざやを得ようとして90バーツや100バーツで売ったりする。しかし最近オンラインで買えるようになり、オンラインはもちろん80バーツで買えるので、宝くじが目当ての人はみんなそっちに流れていく。そして100バーツで売っていた売り子たちがぶちぎれている。

ちなみに、タイで600万バーツあったらふつうに家が買える。家はもちろんピンキリだが、私の住んでるような地方都市なら、土地も含めて一軒家が300-400万バーツだ。すでに持ち家がある場合はトヨタの「ハイラックス」というピックアップトラックを買う。

欠乏が補填されても特に何も解決しない

宝くじが気になるのは金がないからだが、人間というものは欠乏や欠如を感じるとき、それが充足したときのことをよく妄想する。むかし賃労働していたときは「時間があったらなあ」と妄想したし、学生のころは「ギリシア語がすらすら読めたらなあ」などと思っていた。この種の妄想は、まったく無駄とか虚無とかいうことはない。というのも、これらは概して「もし○○が十分にあれば、××できるのに」という形をとり、そこでは本当に自分が手に入れたいこと・行いたいことが多かれ少なかれ明らかになるからだ。

とはいえ、これらの妄想を通じて見えてくるほしいもの・やりたいことは、ほとんどすべて仮象である。仮象というか偽物である。実際に手に入れてしまえば、どうということはないし、大してありがたみもないものだ。たとえば時間については、現在ネオ高等遊民は圧倒的に手に入れている。高等遊民というのは時間だけはあるものだ。しかし、ありあまる時間とは裏腹に、私には特に何もやる気がない。働いているときは「もっと本が読みたいな」と思っていたし、なんなら今でも思っているが、全然読まない。熱心な受験生のように、1日8時間フルタイムで読書や勉強をしてもいいと思うのだが、まったくやらない。あまりにもやる気がないため、読書会サークルなどを主催して、せめて1時間は読書やギリシア語を読む時間を用意している。

つまり、足りないのは時間ではない。時間があれば何かするはずだという考えが間違っているのだから、足りないのは自己理解である。不足を感じているものを実際に得たところで、自分自身は特に変わらない。別の不足(お金など)を感じるだけだ。時間でそうだったなら、金でも同じだろう。 宝くじが当たるなり、出版物がミリオンセラーになるなり、大金を得れば、私は何か「本当に自分がやりたいこと」に向かえるのか。そんなことはありえない。そもそも、やりたいことなどないのだ。

金があったら哲学などしていない

断言するが、金があったら私は哲学などしていない。いまはお金があったらタイでいろんな商売に手を出してみたいと妄想している。Subwayみたいなサンドイッチ屋さんをやってみたいと思ってる。それと外国人向けのタイ語学校。そしてもちろん予てより公言している「タイの山で羊飼いとなり動物農場を開くこと」だ。お金があったらやりたいことというのは、哲学とはさして関係がないのだ。むろん、これらの欲望も仮象であって、どうしてもやりたいわけではない。「このゲームおもしろそうだから、ちょっとやってみようかな」というくらいの気持ちにすぎず、いざやってみても面倒になってやめる可能性が非常に高い。(そもそも外国人がタイで事業をやる許可を得るのはハードルもかなり高い)


https://x.com/MNeeton/status/1977282126577095025?s=20

それならなぜネオ高等遊民は哲学なんかを勉強して語っているのか。大してやる気もないくせに。まあ、主として金のためである。もちろん稼げることはほかにもっといくらでもある。金を稼ぐために哲学をやるなど、端的に頭が悪い。だから、金が欲しいだけなら手段を選ばず何でもやればいいのだが、そういうこともしたくないし、ちょっとやってみたところで長続きしない。つまり、金がない金がないと言いながら、私はなにか「中身」や「意義」「やりがい」といった事柄にも執着している。強欲である。そして哲学には多少そういったものが感じられる。これで天性の才能やセンスでもあればよかったのだが、そんなものはない。あったら今ごろ立派な研究者であって、こんな見苦しいことを書いているはずがなかろう。(ひょっとするとこういう見苦しい文章を書くことには天性の才能があるかもしれないが特にうれしくない。)

哲学は中途半端な一石二鳥

整理すると、ネオ高等遊民は哲学に対して、金がないときには取り組める程度のやりがいを感じている。そういうわけで、大した才能もないくせに哲学にすがりついている。しかしこれがわかると、いくらか正しい自己理解が得られてくる。つまり、ネオ高等遊民にさしあたり欠乏しているのは金銭とやりがいであり、哲学とはその2つの欠乏を同時に、そして中途半端に埋め合わせる手段なのだ。これはネオ高等遊民が哲学に携わっている理由として、かなり正確であるように思われる。とりわけ「中途半端に」という点が肝要で、十全に満たせるわけではない。十全に満たせるなら、金がないとかやる気がないとか言うはずがないのだから。やりがいだけなら、さっき挙げた「サンドイッチ屋さん」や「タイ語学校」や「羊飼い」のほうがあるかもしれない。お金がなければできないが、お客さんが来るのは楽しいことだろう。なんにせよ、私にとって哲学とは欠乏を埋め合わせるための、しかもあまり賢くない手段にすぎず、それ自体が目的となるようなものではない。

むろん、別に手段だから頑張れないということではない。お金を稼ぐというのは、大半の人にとっては手段であるが、むしろ手段であるからこそ頑張れるものだ。しかもお金を稼ぐことはそれ自体も目的化しやすいので、ともかくお金が持つ人を動かす力はとてつもない。それはがんばった結果・成果がよくわかるからだ。いっぽう、学問なり知識なりというのはどうだろうか。勉強なり研究をがんばって、わずかばかりの知識や知見が何になるのか。お金はわずかでもあると助かるが、学識はどんなに豊富にあろうがつねに「だからどうした」「それが何になる?」という心の声(自分自身の声)と戦っている。それゆえたいていの学徒は自分に自信がない。それ自体が楽しいとか、知性が身につくとか、どう言ってみたところで、お金と比べれば悲しいほどに魅力がない。

哲学に限って言えば、そもそも他の諸学のような仕方で勉強なり研究なりすることが哲学といえるかどうかもまったく定かでない。学問に励んで得られるものは学識であろうが、ヘラクレイトスはそのように学識ある者(ピュタゴラス)を哲学者と呼んだうえで、哲学を「偽の知恵」「うそつきの元祖」と批判した。ヘラクレイトスによる博識批判は、一生懸命学問に励むことをいやがるネオ高等遊民にとって実に都合のよい言葉なので、まともな人間からは軽蔑されるような解釈を施したうえで、ことあるごとに使わせてもらっている。ヘラクレイトスの箴言は多様な解釈を許すスタイルをとっており、どう解釈するかによってその解釈者の在り方が現れるからだ。(この点については拙著『ゆる古代ギリシア哲学入門』中公新書ラクレを参照のこと。)

知性は目に見えないので愛せない

哲学とは言い換えれば知への愛のことだが、人間を愛に駆り立てるものといえば、なんといっても「美」である。美は、それ自体が目的となりうるものだ。それゆえプラトンの『パイドロス』という対話篇では、そういう「美」の特徴について語られる。「美」は目に見える点において「善」だの「真」だのよりもはるかに魅力的である。「もしも知性が目に見えるものであれば、どれほどわれわれの愛をかきたてることだろうか」などとも言っていた気がする。これはまさに「愛知=哲学」のことを語った場面であろう。知を愛するとは、まさにわれわれが美しい肉体や、多額の金銭帳簿やコレクションを見ているかのように、知それ自体を愛することなのだ。しかし現実には知そのものなんてものは目に見えないし、あるのかどうかすら分からないのだから、私が知への愛にかきたてられることはない。そうなりたければ古代で言うところの「魂を浄化する」ほかないが、哲学書なんかを読んだところで魂が浄化できるはずもない。

それでいうと、納富信留というギリシア哲学の先生が「プラトンの対話篇は繰り返し読むことで魂が変容する。自分自身が変わる。よりよい生を送っていける」というようなことを言っているのを見かけた(『プラトンが語る正義と国家』ビジネス社、pp. 21–22)。本を読んで自分が変わるという話自体は大いに首肯できる。たしかに自分がまったく読書や哲学をしなかったとしたら、現状よりもさらにひどいことになっていたかもしれないから、哲学が身を助けてくれたかもしれない。とはいえ、自己変容ということだけならもっと有効であろうことはほかにいくらでもある。たとえば私なんかが本気で「魂の浄化」なり、よい生き方なりを望むとすれば、タイで出家して上座部僧侶としてお寺で生活するのがもっとも現実的であろう。しかし、そんな大変なことをしたいわけがない。

・多くの厳しい戒律のもと、ほとんど何も所持しない生活によって自分自身が変わっていく

・涼しい部屋でお金をもらいながら、プラトンを読む生活によって自分自身が変わっていく

こう比べてしまうと、さすがに読書の自己変容というのはだいぶ虫のよい話に見える。それに前者のお坊さんの暮らしのほうが、あきらかにプラトンのアカデメイアの暮らしに近いので、そういう点からいってもプラトニストたるもの読書で満足していないで出家せよ、私的所有を廃棄(Aufheben)せよという話になる。そういうわけで、私は断じてプラトン主義者でもない。プラトンの語る愛知の精神について少々まじめに考えて、「うん、この生き方は無理だね。自分は愛知の精神からはほど遠い」と思っているだけである。100%、涼しい部屋でお金をもらいたい。

さてこの辺で切り上げるが、私に愛知の精神がないことなど、わざわざ書かなくても最初から分かり切っていることである。だがどうも哲学なんかをしていると、自分が多少知的で良識ある人間に思えてきてしまうことがよくある。金持ちや有名人と付き合っていると、自分にも金があるとか、自分もまたなにかひとかどのものであるかのように錯覚してしまうというのに近い。なので、自分自身がどんな人間なのか、つまりどんな欲望を持ち、どんなものを愛するのかといったことは定期的に確認しておいて損はない。というか、われわれはふだんの生活や身の回りのものへの関心をつうじて、いつも自己理解を更新し続けているのだが、それをたまには自覚的にやるという話にすぎない。実際、買い物するたびに1バーツ5円で計算して「3.5円のときと比べて高くなったなあ」と感じているわけだから、そこから「金がない」という自己理解が形成されるのはなかば必然である。そして今回確認できた自己理解は、私がひきつけられる対象は知性ではなく、宝くじのおじさんが歩きまわる姿である(別におじさんは美しくないが)。しかも宝くじは買ったことがない。

まとめ

最後までお読みいただきありがとうございます。読み飛ばした方のために、今回の話を3点にまとめます。

・宝くじが気になるほどには金がない

・哲学をやるのは、お金とやりがいを少量得られるから

・自分には愛知の精神がないことを再確認した

※なお、納富信留『プラトンが語る正義と国家』ビジネス社(2024)は、プラトン『国家』のやさしい解説書なので、『国家』というプラトンの主著について知りたい方にはとてもおすすめです。


ネオ高等遊民

日本初の哲学YouTuber。タイ在住。著書『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書』(2024)。『ゆる古代ギリシア哲学入門』(2025)。
YouTubeチャンネル「ネオ高等遊民:哲学マスター」:https://www.youtube.com/@neomin

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