第7回 高等遊民、引退に失敗する?
ネオ高等遊民です。今回はタイの生活の話です。 バックボーンも支援もなく高等遊民などやっていると、いずれ金がなくなることが必然である。そこで引退覚悟でタイで日本語教師の求人に応募したら落ちた。残念ながら高等遊民継続である。 応募者は2人だった。確率は半々だがきっちり落ちた。 そして結果が出る前は、自分に不利な点がひとつもないと思っていた。 ・相手は自分よりずいぶん年上の男性 ・お互い未経験(らしい) ・自分は職場の近所に5年住んでいる。相手は他県で受かったら家探し ・面接時に課された模擬授業も準備万端 自分に有利な条件しかないので、さすがに受かるだろと思っていた。特に住居の問題が大きい。タイで家探しなど、首都バンコクや観光都市チェンマイならいざ知らず、私が住んでいるような地方都市ではそうそう見つかるものではない。とりわけ賃貸はたいへんだ。空き家自体はそれなりにあるが、たいていは売家であって、借家などない。しかも外国人に貸すというのはオーナーの負担がかなりでかいから、嫌がる人が多い。 何かのたびにオーナーがちょくちょく移民局に行って、外国人が住んでいることを届け出ねばならない。ビザ更新するたびに、オーナーは書類にサインを描かなければならない。いっぽうネオはすでに近所に住んでおり、通勤のためのバイクと免許証も持っている(車通勤は渋滞が予想され現実的ではない)。ちなみにタイ人の9割はバイクを運転するが、そのうちバイクの免許を取得している者は半分くらいと思われる。 ということで、まあ私が受かるだろうと思っていたが落ちた。おれも高等遊民引退だな、今後の活動はどうしようかなどと考えていたが落ちた。正直解せない。(たぶん面接官は、そんな賃貸事情など考慮していないだろうが) ところで、就職活動なんてするほどにはお金がないのには、それなりに理由がある。 まず円安。タイに来た頃は1バーツ3.5円くらいだった。今は5円くらい。私にタイバーツの収入はないから(労働していないので当然である。そもそも移民局の許可なくタイバーツを得たら不法就労である)、必要な金はすべて円から両替する。よって、あらゆる消費がおよそ40%上がっている感覚だ。感覚というか、事実。 円安だけでなく、タイ国内の物価も上がっている。これは世界的な傾向であろう。収入の上昇よりも物価の上昇のほうがきついという状況だ。特に電気代とガソリン代がきつい。電気代もガソリン代も、5年前とは2倍近くになっている。これはタイ人もみんな苦しんでいて、政治家が電気代を下げると公約に掲げるほどだ。 ともあれ端的に言うと、生活費が倍以上になっている。5年前ならやっていけたが、今はやっていけないくらいの収入である。ということでタイの地方都市では滅多にない日本人向けの求人が出たので応募したのだが落ちた。 ところで、実はこの顛末をYouTubeのメンバーシップ動画では話していた。メンバーシップでは月に一度、生配信をしている。飲茶(史上最強の哲学作家)と小島和男(学習院大学哲学科教授。通称:和男ちゃん)とネオ高等遊民との3人で雑談をするというのを毎月やっている。そこで私の就職について話をした。 小島和男は優しいのでネオと同様「(職場と家が近いから)受かるんじゃないか」と予想していたが、飲茶のほうは優しくないので否定的であった。受かるわけねーだろとすら言っていたかもしれない。結果として飲茶の暴言が正しく、現実が見えていたことになる。では、飲茶はなぜ、面接前から落ちると洞察できたのだろうか? 配信で飲茶はこんなふうに言っていたと記憶する。 飲茶「私は、視聴者諸君、哲学YouTuber・商業作家などという変な商売の人間は、学校のような場所では信用されにくいと考える。たしかにこの人、ネオ高等遊民はユニークな経歴であり、弁も立つし感じもいいし顔も声もいいし本もおもしろいし内容もあるし人格も高潔である。それは明白だ」 和男「何にもまして同意するし、どうしてそうでないことがあろうか」 飲茶「しかし学校側から見ればどうだろうか。ネオが優秀であればあるほど、その分だけ面倒そう、扱いづらそう、職場で浮きそうに見える。特に面接官が校長などではなく、同僚となる教師だったのが決定的だ。そういう立場なら安心できる人を選びたくなるだろう。平の教師にとっては、おもしろそうな人より、普通に働いてくれる人のほうがありがたいだろう。むろん、ネオ高等遊民は高潔である。」 視聴者コメント「そうかもしれない」 飲茶「それゆえ、ネオ高等遊民、お前が面接で落ちるのは必然である。なぜならお前が有利にはたらくと思っていた強みはすべて、実際には不利にはたらいたのだから」 ネオ「ぐぬぬ」 (視聴者、ネオに有罪投票) さて、およそ現実を見るとはこのようなことである。すなわち、自己認識。有利と不利の見極め。他人のことならよくわかる。しかしこれが自分のこととなると、途端に認識が甘くなり、自分の都合の良いように解してしまう。自己についてなんらかの評価を下す場合、その評価と利害があまりにも一致する。というか、評価する者とされる者の区別がまったくつかない。それゆえ、どうしても自分の利益にかなう仕方で自己を評価しがちである。 ちなみにネオ高等遊民は哲学の魅力を、このような自己欺瞞についてすぐれた洞察をするところに見ている(たとえばヘラクレイトス、ストア派、アウグスティヌス、デカルト、パスカルなどに典型的)。言い換えれば「汝自身を知れ」という古代の格言に対して鋭敏であることに哲学の魅力を感じている。哲学を学んでいるのに自分のことがわかっておらず、その自覚もないというのは、愚かを通りこして哀れですらあろう。それゆえ、常々それなりに正確な自己評価を心がけ、甘く見積もる仕様を考慮して、基本的には自己評価を少し下げておく。つまり、自分は自分が思うよりも大した人間じゃなく、凡庸であると判断しておくのだが、今回ばかりは甘く見積もってしまった。やはり、新しい場所で自分が試されると、自己評価は甘くなるものだ。 飲茶が現実が見えているというのは、面接官の立場や感覚についても考慮をはたらかせていたことだ。私は、私とお相手の条件面だけを比べて自分に有利と判断していた一方で、飲茶はそれとは異なる別の視点を重ねていた。その結果、ネオが受かるとは限らないと判断し、現実に落ちたので「それ見ろネオ! 言った通りだ! 落ちるに決まってるだろ! 10年早いんだよ! 二葉亭四迷(=くたばれ)!」とダメ押ししてきたのだ。もちろん他人のことだからある程度正確に見えるということはあるが、飲茶が人事に通じていることをあらためて認識した配信であった。 ところで、なぜ他人のことならよく見えるのかというと、さして自分の利害にかかわらないからである。相手がどうなろうが、別に知ったこっちゃないからである。家族のような親しい相手や、仕事のパートナーのような利害に直接かかわる相手なら、もう少し見えなくなるし、あるいは見えていても伝えられなくなったりする。ネオ高等遊民と小島和男と飲茶の3人は、それなりに親しい友人関係は築いているが、利害関係は特にない。ネオが有名になっても彼らが得することはそれほどないし、何かやらかして落ちぶれたとしても大して損しない。そして、ネオ高等遊民が就職しようがしまいが、別にどっちでもいいのだ(もちろん、よかったねとか心配だくらいはあるとは思うが)。 そしてむろん、これは面接官の判断が正しかったという話ではない。同様に、和男ちゃんの判断が誤っていたというわけでもない。和男ちゃんはおそらくご自身の経験上、ネオの家の近さを大きな加点としたのだが、タイの面接官はそうでもなかったというだけである。 大事なのは、ネオ高等遊民の自己認識が甘かったということだ。単に試験に落ちたことについて、自己認識を誤ったと言っているのではない。自己についての誤りは、別のところにある。 落ちてみて気づいたのだが、これまでネオ高等遊民はおよそ就職活動なるものに成功したことがなかった。学生時代の一般企業就職はエントリーシートを通ったことがない。大学院のころは教員免許を取得して中学高校に20校近くは応募したが、最大で補欠合格(以降連絡なし)だった。そして昔の私は、落ちても仕方がなかった。何者でもなかったからだ。大学院時代になにひとついいところのなかった、ただの落ちこぼれ学生であったから。だから就職試験に落ちても、まあそりゃそうであろうと思っていた。 しかしまあ今回は少々違った。馬齢も重ねつつではあるが、「何者でもない落ちこぼれ」ということはない。曲がりなりにもYouTuberなどをやり、本も2冊出した。肩書としては作家先生である。ある程度知識も内容もあるし、多少中身のある人間になったつもりでいた。 そういう自己認識のうえで、普通に落ちたということが重要である。つまり私は、自分では少し何者かになったつもりでいたが、それが必ずしも世間や特定の場所における評価につながるとは限らないということを認識していなかったのだ。もちろん、そんなの当たり前のことだが、妙に自信たっぷりであった私の自己認識がなかなかお笑い種だったということだ。「おれってふつうにすごい人だよね。どう、こんな田舎の学校に来てあげちゃって」という匂いがぷんぷんしていたのかもしれない(それは知らないが)。 ネオ高等遊民は、よく人生相談なども受けてそれを動画で話したりしているが、就職活動にすら受かったことがない。これは世間が記憶すべき事柄である。 なんにせよ、金がないという問題は解決しないままである。高等遊民を引退するつもりで求人に応募したら、引退に失敗した。日本人を募集するような求人は、こんな地方都市ではもうあと数年はないだろう。 高等遊民というのは、別に優雅な身分ではない。昔の高等遊民もしょせん、夏目漱石の小説(『それから』や『明暗』)なんかを見る限りでは親の金をあてにしていただけで、親だって別にそんなに裕福なわけでもないから疎まれていたし、自分や行く末に自信があるわけではなかったのである。 そして現代の高等遊民であるところのネオ高等遊民といえば、働こうと思っても断られ、しかし働かずに済むほどの財産もなく、円相場を眺め、電気代を気にしてエアコンをケチりながら、善く生きるとは何かを考えるふりをして、金のことを考えている。高等遊民とは、およそそういう存在なのだ。お金を気にしない素振りをして、実はお金のことばかり案じている。何事も体験してみないと本当のところはわからないものだ。 ところで、ソクラテスはプラトンの『弁明』でこんなことを言っていた。「アテナイ人諸君、君たちはお金や自分がどう見えるかという評判についてばかり考えて、恥ずかしくないのか。」 つまり哲学者というのは、お金や評判のことなど考えず、もっぱら知について考える者であるらしい。ソクラテスも友人からの援助によって高等遊民みたいな生活をしていたのだが、ネオ高等遊民や漱石の物語に出てくる連中とは違って、どうも自分の行く末に自信がないような形跡は一切見られない。自分のことに配慮はするが(なにせ魂に配慮せよというくらいだから)、自分の行く末(=困窮・破滅・死)については特に配慮しない。自己への配慮(世話)といっても、配慮するものが厳選されているのだ。私たちはいつも自分の負債を思い、それを埋め合わせるか忘却できるように配慮するが、ソクラテスは困窮や死を負債とは特に考えていない。そのため現在の自己の魂のみを配慮するということが可能になる。 哲学者は金銭を気にかけないとはっきり宣言し始めたのはプラトンの描いたソクラテスである。少なくとも私は、その意味においては断じて哲学者ではない。もちろんそんなことはすでにわかっていたが、金が本格的になくなりだしたおかげで、あらためてよくわかった。 そして、わかったところで特に何もいいことはない。ソクラテスやキュニコス学派、たとえば樽の中のディオゲネスなどを見ると、ああいうのが本物なんだろうなと思うくらいだ。 高等遊民:知を愛するそぶりを見せて、金銭を案じる者 哲学者:金銭を案じず、もっぱら知を愛する者 高等遊民と哲学者は、あまりにも隔たっている。 最後までお読みいただきありがとうございました。 読み飛ばした方のために、今回の話を三行にまとめておきます。 ・就職面接に落ちた。 ・金はない。 ・しかも私は哲学者ではなかった。 ネオ高等遊民 日本初の哲学YouTuber。タイ在住。著書『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書』(2024)。『ゆる古代ギリシア哲学入門』(2025)。なぜ就職活動をしたのか
飲茶だけには現実が見えていた
哲学の魅力は「汝自身を知れ」にある
何者でもなかった落ちこぼれ学生は作家となったが、面接には落ちる
哲学者と高等遊民の違い
まとめ
YouTubeチャンネル「ネオ高等遊民:哲学マスター」:https://www.youtube.com/@neomin
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