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第9回 高天原は北部九州の邪馬台国

 今回からは、魏志倭人伝と記紀神話(記紀実話)とに記されている人名(神名)や内容に類似性があることを紹介していきます。記紀神話は大きく分けて、北部九州が舞台となる高天原(たかまのはら)神話と、南部九州が舞台となる日向三代(ひゅうがさんだい)神話と、出雲が舞台となる出雲神話と、九州から奈良へ東征する神武(じんむ)神話とに分けられます。このうち時代と内容とが魏志倭人伝と類似しているのは高天原神話で、その他の神話は邪馬台国がその後どうなったのかを推定するのに大切な部分に当たります。

 しかし、これらの神話は時系列で記された部分と同時進行している部分とが入り組んでいるために戸惑うことがあります。そこでこの連載では、最初に高天原神話を取り上げ、その後に南部九州へと進み、出雲を経て、最後に奈良へ東征する流れに沿って整理して見ていきます。まず、魏志倭人伝よりずっと長く書かれている高天原神話のあらすじを私なりに解釈・再構成したものとして紹介します。

 今回からは以下の図で神々の続柄を確認しながら読み進めてください。

高天原神話あらすじ

【 天地が開けた時、高天原に最初に天之御中主神(あめの みなかぬしのかみ)が現われ、次に高御産巣日神(たかみ むすひのかみ)、別名は高木神(たかぎのかみ)が現われ、次に神産巣日神(かん むすひのかみ)の三神が現れた。その後、神代七代(かみよしちだい)の神々が現れ、最後に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)が現われた。伊邪那岐命と伊邪那美命の二神は夫婦となり大八島(おおやしま)を産んだ。大八島とは淡路島、伊予島(伊予、讃岐、粟、土佐の4つから成る)、隠岐島、筑紫島(筑紫、豊、肥、熊曽の4つから成る)、壱岐島、津島、佐渡島、大倭豊秋津島(おおやまと とよあきつしま:本州)である。二神は大八島に続いて神々も産むが、最後に火之迦具土神(ほの かぐつちのかみ)を産む時に難産となり伊邪那美命が亡くなってしまったため、伊邪那美命は生まれ故郷の出雲(島根)にある比婆山(ひばさん)に葬られた。

 こうした誓約後も須佐之男命は田んぼの畔を壊したり溝を埋めたり、神殿に糞を撒いて穢(けが)すなど乱暴の限りを続け、山川のすべてが動き国土がみな揺れた。さらに、天照大御神が機織女(はたおりめ)に神衣を織らせていた時に、須佐之男命が屋根から斑駒(ぶちこま)を落としたため、機織女は驚いて機織りの道具である杼(ひ:横糸を通すシャトル)で自らの女陰を突いて死んでしまった。これを見て驚いた天照大御神は天の石屋戸(あまのいわやど)に隠れた。天を照らす太陽神が隠れたため高天原は暗闇となった。

 八百万(やおよろず)の神々は「天の安河原」に集まり、高御産巣日神(高木神)の子の天思兼命(あめの おもいかねのみこと)に善後策を考えさせた。天思兼命は、長鳴鳥(ながなきどり)を集めて鳴かせ、天の金山の鉄を採って鍛人(かぬち)の天津麻羅(あまつまら)と石凝姥命(いしこりどめのみこと)に鏡を作らせ、天の香山(あまのかぐやま)のははか(朱桜:かにわざくら)で鹿の肩の骨を焼いて占い、天の香山の榊(さかき)の木を根から掘り起こして、上の枝に八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を懸け、中の枝に八咫鏡(やたのかがみ)を懸け、下の枝に楮(こうぞ)の幣(ぬさ)を懸けて祝詞(のりと)を唱えた。天宇受売命(あめのうずめのみこと)が矛(ほこ)を手に持って肌も露わに踊り歌うと八百万の神々は皆笑った。

 天の石屋戸に隠れた天照大御神は不思議に思って天の石屋戸を細めに開けて、「私が石屋戸に隠れて高天原が暗闇となったのに、なぜ天宇受売命は楽しそう遊び神々は笑うのか」と尋ねた。それに対して天宇受売命は「あなたより貴い神が現れたので喜んでいるのです」と応えた。その天の石屋戸が細めに開いた瞬間を逃さずに、天手力男神(あまの たぢからのおのかみ)は天照大御神の手を取って外に引き出した。これにより、天照大御神は復活して高天原は再び明るくなった。天の石屋戸事件の直後に、今度こそ須佐之男命を高天原から出雲へ追放した。

 高天原神話を読み解くに当たって最初に押さえて置くべきことは神々が活躍する「高天原はどこにあったのか」ということです。

 伊邪那美命は火之迦具土神を産む時に亡くなり、故郷の出雲の比婆山に葬られました。そして伊邪那岐命は妻が忘れられずに比婆山に行きますが、既に亡骸の腐敗が進んでいたため驚いて、生まれ故郷の高天原へ逃げ帰り禊(みそぎ)をします。禊をした場所は「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)」であり、ここが高天原です。つまり、高天原は筑紫すなわち九州にあったと記紀にはっきりと記されているのです。高天原は奈良から見た、あるいは出雲から見た架空の天上界のことである、などと自説に合わせた解釈をする学者がいますが、そんな説は記紀が否定しています。高天原は南部九州の高千穂のことであるという説もありますが、高天原から高千穂へと天孫降臨しているので、出発地と到着地が同じ訳がありません。

 そして、筑紫だけでなく、日向も、橘も、小戸も、阿波岐原も、すべて「福岡市西区」の狭い地域にあるため、高天原の場所を特定することができるのです。まず、西区飯盛(いいもり)と糸島市高祖(たかす)との境に「日向峠(ひなたとうげ)」があり、そこから日向(ひなた)川が流れ出して室見川へ合流しています。次に、西区周船寺(すせんじ)には明治ころまでは「末永立花木(すえなが たちばなぎ)」という地名がありました。また、福岡市西区の西隣りの糸島市には現在でも「末永立花木(すえなが たちばなぎ)」があり、糸島市二丈には「立花(たちばな)峠」もあります。さらに、西区小戸には「小戸(おど)大神宮」があり祭神は天照大御神です。そして西区には「今宿青木(いまじゅく あおき)」があります。植物のアオキは古代にはアワギ(阿波岐)ともいいました。このように、日向も橘(立花)も小戸も阿波岐原(青木)も福岡市西区の早良平野や糸島市にあることから、高天原は福岡市西区を中心とした地域にあったと推定できます。

 なお、宮崎市にも「筑紫、日向、橘、小戸、阿波岐原」の地名が漢字もそのままに揃っていますが、整い過ぎています。邪馬台国勢力が後に宮崎へと進出したので、その際に福岡の高天原の地名が宮崎へと運ばれた可能性がありますが、私はそれよりも後に宮崎が「日向国」と呼ばれるようになってから、その地名にあやかってまとめて名付けられたのだと思っています。古事記には「筑紫島は筑紫、豊、肥、熊曽の4つから成る」とあって「日向国」はまだ出てきません。

 現在の神社の祝詞(のりと)では「かけまくも畏(おそ)れ多き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊(みそぎ)祓(はら)へたまひし時に………」と唱えられます。魏志倭人伝にも「葬儀では家人は澡浴をする。澡浴は(魏の国の)練沐に似ている」とあります。澡浴も練沐も水垢離(みずごり)のことで、神に祈りながら冷水を浴びて身の穢れ(けがれ)を祓うことなので、高天原にも邪馬台国にも共に穢れという概念があり、祝詞を唱えて禊の儀式を行い、穢れを祓っていたと考えられます。この連載の第4回で卑弥呼の鬼道とは神道(しんとう)ではないかと書きましたが、この解釈はやはり正しかったようです。また、天照大御神が天の石屋戸に隠れた時の善後策を見ても、卜占(ぼくせん)を行なったり、榊(さかき)、幣(ぬさ)、矛(ほこ)、三種の神器などの神祭具を掲げており、神道であることを裏付けています。

 なお、小戸大神宮の2km東にある標高60mの愛宕山(あたごやま)には日本三大愛宕の一つである愛宕神社があり、祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命です。江戸時代の本居宣長(もとおりのりなが)の『古事記伝』によれば「あたご」の意味は仇(あだ)を成す「仇子(あだご)」で、伊邪那美命が御子の火之迦具土神を産むときに難産で死んでしまった火之迦具土神のことを指すと記しています。また、西区小戸の西には山門(やまと)の地名がありJR筑肥線の下山門駅もあります。戦国時代以降の地名と言われていますが、この地をなぜ山門と呼ぶようになったのかの由来が気になります。さらに、福岡市東区には立花山があり、伊邪那岐命と伊邪那美命の鎮まる山なので昔は「二神山(ふたかみやま)」と呼ばれていました。立花山になったのは805年に最澄(さいちょう)が唐から帰国してここに寺を建てた以降と言われていますが、なぜ立花山と名付けたのかの由来を知りたいところです。この立花山には立花山城が築かれ、後に城主となった人気の高い戦国大名の立花宗茂(たちばな むねしげ)は山の名前から家名を採っています。

 伊邪那岐命が早良平野で禊をした時に産まれたのが、娘の天照大御神であり、息子の須佐之男命と月読命です。その天照大御神と須佐之男命が成長して活躍する高天原には天の安河が流れ、天の香山があります。

 安本美典氏によると、天の安河は朝倉市を流れている安川(やすかわ)で、安川は夜須(やす)川とも小石原川とも呼ばれています。現在は、夜須町(やすまち)と三輪町(みわまち)とが合併して筑前町になっていますが、安(夜須)の地名は古代にさかのぼれます。万葉集を編纂した大伴家持(おおとものやかもち)の父である大伴旅人(おおとものたびと)が大宰府長官として赴任した時の和歌が万葉集に載っています。

 君がため醸(か)みし待ち酒 安の野に独りや飲まむ友なしにして

 都へ出張した太宰府次官が戻ってきたら酌み交わそうと酒を用意して待っていましたが、次官はそのまま転任してしまって戻らなかったので、太宰府郊外の安の野で一人寂しく酒を飲むことになってしまったという和歌です。この安の野が旧夜須町の野原で、高天原の故地に当たります。

 安本美典氏の主宰する「邪馬台国の会」のホームページには、香山に関して次のようなことも書かれています。

【 江戸時代に福岡藩の儒学者であった貝原益軒(かいばらえきけん)が記した地誌である『筑前国続風土記(ちくぜんこく しょくふどき)』によれば、香山(高山)のある朝倉郡志波村(現在の朝倉市杷木志波)の付近は、古くは「遠市(とおち)の里」と呼ばれていた。一方、平安時代中期に編纂された律令の施行細則をまとめた『延喜式(えんぎしき)』によれば、奈良の天香山は「十市(とをち)郡」に属していた。(下線部分は筆者による補足) 】

 安本美典氏は、福岡の「とおち」が香山の名前と共に奈良へ運ばれたとしています。「とおち」「とをち」という珍しい地名は全国で福岡と奈良の2か所しかなく、この一致は地名が運ばれたことを強く示唆しています。そして私は「桜井」の地名も一緒に運ばれたと考えています。旧志波村の香山山頂から1km余り南の筑後川を隔てた対岸に、浮羽郡吉井町桜井(現在の、うきは市吉井町桜井)があります。もう一方は、纏向遺跡で有名な奈良の桜井市です。明治時代に、十市郡桜井村と周辺の村々が統合されて桜井村が発足して、村から町を経て市になりました。奈良の天香具山は橿原市にありますが、東に500m余り移動すれば桜井市になります。天照大御神が天の石屋戸に隠れた時に、天の香山のははか(朱桜:かにわざくら)で鹿の肩の骨を焼いて占っていますが、この朱桜と関係があるのかも知れません。

 為政者が出身地の地名を運ぶことは、古来より現代まで世界中で行われています。福岡の地名も関ヶ原の戦いで功績を挙げた黒田長政によって、黒田家ゆかりの地である備前国(現在の岡山県)邑久(おく)郡福岡から運ばれています。

 今回の表題は「高天原は北部九州の邪馬台国」です。高天原は天照大御神と須佐之男命が生まれた早良平野を含む福岡平野に発祥したと考えられます。その後、天照大御神と須佐之男命が活躍する舞台としての高天原は、天の安河が流れ天の香山がある朝倉盆地まで広がったと考えられます。このことは、倭国が伊都国や奴国などを中心とした福岡平野に発祥し、倭国大乱の後には邪馬台国を中心とした筑紫平野にまで広がったこととそっくりです。高天原は奇跡的に現代まで伝承された邪馬台国の姿そのものだと思います。これからも、高天原は北部九州の邪馬台国のことであったことを皆さんに納得していただける証拠をたくさん示していきます。

                               (図版作成:うさんぽデザイン/USA)


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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