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第15回 ハイデガーは本当に性格が悪いのか?(3)

前々回と前回にわたって、「ハイデガーは本当に性格が悪いのか?」という小論を掲載した。どちらも多くの読者に閲覧されたようだ。前々回はハイデガーが師フッサールの論文を徹底的に貶した手紙を取り上げた。この手紙は一般にはハイデガーの人柄の悪さを示すものとして受け取られているが、その内容は単に悪口に尽きるものではなく、そこには両者ののっぴきならない哲学的対立が示されている点に注意を促した。

そして前回はハイデガーとユダヤ人の詩人パウル・ツェラーンの関係について論じた。この二人に関しては、両親をナチスによって殺されたツェラーンがハイデガーに謝罪を要求したが、ハイデガーはそれに対して沈黙で応じたというエピソードが有名である。人びとはハイデガーがこのようにナチス加担を謝罪しないことを彼の人格的欠陥と見なしている。前回の記事では一次資料に基づいて、このエピソードが実は事実無根で、むしろハイデガーはツェラーンを受け入れるにあたって最大限の気遣いを示しており、ナチス加担についても何らかの釈明を行ったらしいことを明らかにした。

興味深いのは、こうした私の議論に対して、「轟が例のごとくハイデガーを必死で擁護しようとしている」という嘲笑がSNS上で見られたことである。他にも「偉大な哲学者など性格が悪いのが普通なのだから、性格は悪くないと無理して擁護する意味がわからない」とか、「性格がよいとか悪いとか、こんな議論で盛り上がるのが本邦のハイデガー研究のレベルの低さを示している」という意見もあった。これらも基本的には私がハイデガーを擁護していると捉えて、それを無駄なことだと冷笑しているのである。

たしかに記事の題名は「ハイデガーは本当に性格が悪いのか?」であった。しかし私はそこで「ハイデガーは実は性格がよい」と主張していたわけではない。前回の記事で私が言いたかったのは、ツェラーンとの関係については不正確な情報が流布しており、それに基づいてハイデガーの人格を貶めるのは不適切だということだった。私がそこで提示した事実をもとに、ハイデガーの人柄をどう判断するかはそれとはまた別の話である。

前々回、取り上げたハイデガーのフッサールに対する陰口も、世話になっている師に対する態度としてはたしかに望ましいものではない。しかしフッサールの『改造』論文に対するハイデガーの酷評は哲学的に的を射たところがあり、手紙から単にハイデガーの性格の悪さだけを読み取るのは一面的であるというのが記事の趣旨だった。

こうした私の議論を踏まえたうえで、なお「ハイデガーは性格が悪い」と結論づけることは可能であるし、それはそれでまったく構わない。ただ私が言いたかったのは、これまでの「ハイデガーは性格が悪い」論は誤った根拠、ないしは事態の一面的な把握に基づいているということだった。ハイデガーとフッサールが哲学的にどのような対立関係にあり、またツェラーンとハイデガーの出会いが実際はどのようなものであったのかといったことは、ハイデガーの両者に対する態度を正しく評価するためにも不可欠の情報であるはずだ。最終的に「ハイデガーは性格が悪い」と判断するにせよ、それが誤った根拠に基づいていたら元も子もないだろう。

もともとハイデガーにまったく関心をもたない人が、ハイデガーとフッサールの哲学的立場の相違について論じたり、ハイデガーとツェラーンとの関係について一次資料をあらためて精査したりすることを無意味だと言うのは、ごく当たり前のことである。しかし不思議なのは、こうしたハイデガー理解の鍵となる重要なトピックを論じることを冷笑する上述の人びとである。というのも、彼らはハイデガーに興味をもたないどころか、むしろ強い関心を抱いていると自認しているからである。

われわれはこの矛盾をどう理解したらよいだろうか。そうしたハイデガー哲学の根本問題を扱うことが無意味だと言うのであれば、彼らは何のためにハイデガーに関わっているのだろうか。

上で見た彼らの言動からわかるのは、彼らの関心はハイデガー哲学の核心や伝記的事実の究明ではなく、「ハイデガーは性格が悪い」という見解を絶対不可侵のものとして擁護することに向けられているということである。彼らは「ハイデガーは性格が悪い」という見方をつねに維持することを目指しており、それを少しでも揺るがそうとする動きを見つけると火消しに走るのである。だから私が「ハイデガーは性格が悪い」論の再検討(否定ではない)を行うと、それだけで彼らは私が一線を越えたと判断し、そのことに対する不快感を表明するのである。

しかしそもそも、なぜ彼らは「ハイデガーは性格が悪い」という見解を維持することにそこまで必死になるのだろうか。自分とは意見が違うにしても、別に「ハイデガーは性格がそこまで悪くない」と言う人がいても構わないと思うが、彼らはどうしてあそこまで神経質にそうした議論を否定しようとするのだろうか。

ここでもう一度、ハイデガーがなぜ性格が悪いと言われているのかを考えてみよう。ツェラーンとの関係で問題視されていたのは、ハイデガーが自身のナチス加担について彼に対して謝罪しなかったということである。ハイデガーのこのような態度を理由に、人びとは彼の人間性には大きな問題があると見なすのである。

またフッサールとの関係については、ハイデガーが1933年に学長に就任した際、フッサールの大学への出入りを禁じたということが取りざたされたことがあった(ただしこれは事実無根の告発であったことが知られている)。そしてフッサールが1938年に亡くなったとき、ハイデガーは葬儀に参列しなかった。こうしたことが戦後になって、フライブルク大学の政治浄化委員会でハイデガーが反ユダヤ主義者であることの証拠としてもち出され、ハイデガーの処分に対して不利に作用した。

ハイデガーがナチスに加担したこと、またユダヤ人に対して酷薄な態度を取ったこと、そして戦後になってそのことを公に謝罪しなかったこと、こうしたことがハイデガーは性格が悪いと言われることの背景にある。つまりハイデガーの性格の悪さは、彼がナチスを支持したためにそう言われているところが大きい。もちろん恩義のある師に対して陰で罵倒するといったようなことは、それだけでも性格が悪いと見なされる行為ではある。しかし「ハイデガーは性格が悪い」という見方の根拠の大部分をなしているのは、そうした一般的なモラルに反するふるまいよりは、むしろナチスに加担したこと、ならびにそのことに対する開き直りとも見なしうるような戦後の態度である。

つまりごく単純化して言えば、ハイデガーはナチスに加担したから悪い奴だと見なされている。逆に言うと、ハイデガーが仮にナチスに加担せず、むしろナチスに迫害される立場だったとすれば、ないしは加担したとしても、戦後になって公式に謝罪や自己批判をしていれば、これほど性格が悪いと言われることはなかったであろう。

要するに今日においては、〈ハイデガー=ナチ=反ユダヤ主義者=性格が悪い〉という図式が一種の公式として支配している。これに反対するのはもちろん、その再検討を試みるだけで、この公式に対する挑戦として強烈な反発が呼び起こされるのである。そしてそうした公式には必ずしも当てはまらないハイデガーのテクストや行動なども、単に無視されてしまうか、ないしはその公式に無理やりはめこまれて、それを裏づけるものと解釈されてしまうのである。

たとえば本連載で何度も触れてきた(第3回、第9回、第10回)ハイデガーの『黒いノート』における「ユダヤ的なもの」についての覚書はその典型的な例である。当該テクストを精査すれば、それが通常の反ユダヤ主義的な言説には解消できないことは明らかである。しかし専門家たちはそれらの覚書から、『シオンの賢者の議定書』に影響された陰謀論的な反ユダヤ主義を読み取るのである。そして私がそうしたあまりに粗雑な解釈をハイデガーのテクストに即して再検討しようとすると、彼らはそのこと自体を政治的に不適切なふるまいだとして非難するのである。

また前回の記事で、私はハイデガーがツェラーンに対して俗説とは異なり、むしろ最高度の気遣いを示していたことを明らかにした。しかしそれに対してSNS上では、そんなことを言ってもハイデガーの性格が悪いことには変わらないという混ぜ返しが見られた。仮にそのことを認めるとしても、「ハイデガーは性格が悪い」という彼らの主張は、今は私の示した事実に依拠しているわけだし、逆にこれまでは誤った根拠に依拠してそう述べていたことがわかったのだから、その点は私に感謝してしかるべきだろう。「ハイデガーは性格が悪い」と言うにしても、正しい根拠に基づいて主張するのと、誤った根拠に基づいて主張するのとではまったく意味が違うはずだ。しかし彼らはそうしたことにはまったく頓着していない。こうしたことからも、彼らにとっては正しい根拠に基づいていようがいまいが、とにかく「ハイデガーは性格が悪い」と言うことだけが重要であることがわかる。

それに対して、反ユダヤ主義的だと非難されたハイデガーの覚書の真意をあらためて問い直したり、「ハイデガーは性格が悪い」ということの根拠とされている伝記的事実をもう一度精査したりすることは、それだけでハイデガーの性格の悪さを無条件に認めるという態度に反しており、望ましくない行為と見なされる。今日、ハイデガーを正しく扱うということは実質上、〈ハイデガー=ナチ=性格が悪い〉という公式を金科玉条として、それに反する態度や見解を厳しくチェックすることを意味する。そうすることによって、その人は良識をもった研究者、読者と認められるのである。

前回の記事で報告したように、木田元はハイデガーとツェラーンの関係について、まったく事実無根のでたらめを一般書に記している。普通であったら、そのままの状態で刊行を続けることが許されないようなレベルの誤りである。しかしハイデガーを無理やり擁護していると言って私を嘲笑する人びとは、木田の研究者としての信頼性を問題視するどころか、むしろ誤りの指摘を余計なことだと見なすのである。つまり彼らにとっては、ハイデガーについて正しい情報を伝えるかどうかよりも、〈ハイデガー=ナチ=性格が悪い〉という公式を護持することが何よりも重要なのである。

〈ハイデガー=ナチ=性格が悪い〉という公式は突き詰めると、ナチスとそれに関係するものはすべて悪いという根本前提に帰着する。「ナチスは〈良いこと〉もした」という主張が絶対に否定されねばならないのと同様、ナチスに関わったハイデガーが「良いこと」もしたと述べることは絶対に認められず、また彼の性格が悪いという見方を再検討することも許されないのである。

要は「ハイデガーは性格が悪い」という言説は「ナチスは悪の存在である」という根本命題からの演繹的帰結でしかない。つまりハイデガーは悪逆非道のナチスを支持したから、ハイデガー自身も悪い人間だ、というわけだ。このような主張をするためには、ハイデガーのテクストの緻密な読解や伝記的事実の精査は一切、必要ない。

いや、そうした論者もちゃんとハイデガーのテクストを読んで、それについてさまざまなことを論じているではないかと反論される方もいるかもしれない。しかし彼らがやっているのは、ハイデガーのテクストの中からナチズム的に見える箇所を探し出して、だからハイデガーはナチなのだと言っているにすぎない。その際、彼らは〈ハイデガー=ナチ〉という公式には収まらない彼の言説は無視しており、ないしは可能であればそこにもナチ的なものを読み込むのである。

まさに「黒いノート」における「ユダヤ的なもの」についての言明がそうであった。それらは基本的にすべてナチズムに対する批判を含意しているのであるが、論者はそうした箇所をすべてナチズムの擁護と解釈してしまう。今日、良識的なハイデガー研究者になるとは、このような手続きを駆使できるようになることを意味するのである。『存在と時間』とその周辺のおざなりの解説をして、あとはハイデガーのナチス加担やその人格を批判的に論じるだけの人びとがハイデガーの専門家として通用するという本邦ハイデガー研究界隈に見られる不思議な現象も、今述べたことから理解できるだろう。


轟 孝夫 経歴

1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。

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