月刊傍流堂

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第4回 近江へ

 京都駅から比叡山頂まではおよそ1時間の行程。僕らが乗った路線バスは河原町三条から誰も乗ってこないし、誰も途中で降りない。さながら直行便だ。細く、くねくねとした山道だけにスピードはあくまで緩慢だったが、時刻表通りにバス停を通過していく。雨の多い季節だからある程度は予期していたとはいえ、山頂に近づくにつれ霧が徐々に濃くなり、本来なら右下に眺めるであろう琵琶湖も白濁色の空間が広がっているだけ。多少は残念な気持ちにもなったが、今回の旅は別段、琵琶湖クルージングが目的ではなく、また、琵琶湖周辺=近江の文化、歴史に触れるためでもなく、言ってみれば近江の磁場を感じたいため。勉強は家でも出来る。どうせ旅に出るなら家で出来ないことをやりたい。松岡正剛の言うように、果たして近江は今後日本のメッカとなり得るのか。もし、その可能性があるとすれば、そこで僕は何をすべきか、安寧たる世界の構築へ向けての一助となり得るのか。日中にも関わらず輪郭定まらぬ森の迫力に怖気づいたのか、車内で言葉を発する者はおらず、シンと静まり返ったまま比叡山バスセンターに到着した。

 しかしここまでの遠いこと。毎朝のように走っている鴨川から眺める限りでは、1時間半くらいで登頂できそうな感覚だが、それは大きな間違い。標高848m。ヒマラヤよりも富士山よりもずっと低い山だが、実に奥深い。京の都から遠い。最澄はなぜここを選んだのか。東山一帯では最も標高が高いからだけではあるまい、あるいは故郷の坂本(現・大津市)から近かったからだけではあるまい。修行者にとって深山幽谷は最も魅力的な地なのだ。

 比叡山=延暦寺。この公式は確かに正しいようで、休憩所にあった案内図を手に取って見ると、なるほど、山全体が修行場だ。まずは最も奥地にある横川と呼ばれるエリアに行ってみる。最澄の愛弟子、円仁が手掛けた一帯。ここの本堂もそうだが、延暦寺の中心的存在とも言える根本中堂も他の寺では見られない特殊な造りとなっている。何が特殊なのかというと、外陣より内陣が3mほど低くなっていること。そこは畳や板張りではなく石敷きの土間。言ってみれば「修行の谷間」。よって、普通は見上げる格好の本尊=薬師如来が参詣者と同じ高さに。僧侶の説明では「天台仏堂の一つの特色であり、仏も人も優劣はないという仏凡一如の現れです」。もっとも、外陣とは柵によって完全に阻まれているだけに、彼我の境地を、仏の超越さを感じざるを得ない。決して我々に親密さを与えはしない。この特殊な造りには僧侶も知り得ない理由がある可能性も否定できないが、いずれにせよ仏凡一如は詭弁、後付けというもので、仏凡乖離こそが真相ではなかろうか。

 続く西塔エリアにある浄土院を訪れて、その思いがことさら強くなった。ここ最澄の廟は「十二年籠山行」が行われるところ。俗世とは断ち切り、一日1000カロリーの食事、徹底的な清掃、経典読解の日々…。途中で逃げ出す、あるいは死に至る者も多数、運が良ければドクターストップ…戦後では7人しか満行=達成していないという。「十二年籠山行」は最高レベルの修行とはいえ、やはり生半可な気持ちでは論外の作業であり、真摯な思いもさることながら類まれな体力があっての解脱への道だ。どうしたって仏凡一如はあり得まい。目下の日本仏教を取り巻く環境は決して健康的ではないだろうが、人生をかけて修行に挑む者が少なからずいる事実に身が引き締まる。その浄土院は本当に枯れ葉一枚落ちていない純潔空間だった。

 最後の東塔エリアへ我々を運んでくれる循環バスがなかなか来ない。小雨が降ってはしばしやんでまた降り注ぎ、比叡の山々を徐々に水分で満たしていく。観光シーズンの谷間だけあって人の姿は案外と見えないが、霧が立ち込める中であっても中高年女性の黄色い声はしかと耳に入ってくる。修行者を邪魔するためにここまで来たのかと疎ましく思うが、その言葉は自分に跳ね返ってもくる。遥かな昔、国家鎮護のため、あるいは真理追求のために数え切れないほどの求道者が学び、祈りを捧げてきた地。そんなかつての山岳仏教世界を想像することが旅の目的でもあるのなら、バスという便利かつ安易な移動手段を使うのはもってのほかではないか。観光地を一巡りして「ふーん」で終わらせたくない。当時は自動車がなければシューズもない。携帯電話、ウォシュレット、ウインドブレーカー、暖房器具…現代に普通にあるものがほとんどない。ここにあるのは清浄な空気と端然とした仏像、そして僅かなお米。日本仏教をアップデートした源信、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮らがここで過ごした日々はいかばかりであったか。いっそのこと、バスなど使わず、我が家から丸一日かけて延暦寺まで徒歩で行って帰るのも有意義な作業だろう。またいつの日か、足がくたくたになるまで3塔を巡ってみよう。

 さて、国宝の根本中堂は2016年に始まった「平成の大改修」のため白い壁に覆われて全貌が窺えない。幸い、参拝は許されたし、屋根の上まで見学用通路が張り巡らされているおかげで貴重な風景を眺めることもできた。作業中のおじさんから大量のサワラが使われていることを教えてもらう。サワラといってもサバ科の魚ではなく、ヒノキ科の木のこと。材料の徹底さと作業の大変さ。これを長期間に渡って定期的に行われてきた事実を知るだけでも貴重な歴史的建造物であることが分かる。いや、漸進的な変化、進化があるから長らく多くの人を引き付けてきたとも言えようか。伊勢神宮がそうであるように。いずれにせよ、屋根の葺き替えだけでなく、回廊や柱などの塗り直し、さらには天井絵や彫刻の清掃が終了した暁には再び訪れたい。見なければ死ねない。それは大げさだが、2年後にはやはり自力で登ってくる算段である。

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 比叡山で唯一のホテル…豪奢なロテルド比叡で落ち着かぬ一夜を過ごした翌朝、ケーブルカーで琵琶湖ほとりの坂本へ。まっすぐ、一気に下る。全国どこでもケーブルカーは直線だが、あっと言う間にもほどがあるというか、ふもとまでなんて近いこと。京からとは、実質距離もさることながら険しさもまったく違う。琵琶湖畔から見る比叡山は五穀豊穣、子孫守護の役割たる山の神。非常に身近で親しげだ。母なる湖(うみ)と母なる山に囲まれた近江はまさに母胎そのもの。松岡正剛の「日本は近江から始まる」はなるほど、本当かもしれない。

 もっとも、坂本一帯の、例えば、これから向かう日吉大社や三井寺などは大きな災いに見舞われてきた歴史がある。日吉大社は明治元年に神仏分離令が出されると、延暦寺の管轄であったことから吉田神社配下の神官たちが結成した「神威隊」や地域住民らが社殿に乱入し、仏像や経典などを破壊、焼き捨てた。これが発端となって全国に廃仏毀釈が広がったわけだが、そうした経緯があるからか、それとも前日とは打って変わってザンザカ降りとなった天気によるものか、社内全体は陰鬱な雰囲気に包まれていた。連れは「お寺とは違って神社はお金がないところが多いのよ」とそっけないが、古事記にも記されているほど歴史は古く、全国約3800社ある日吉、日枝、山王神社の総本宮がこうであっていいものなのか。鳥居もそうだが、本殿、拝殿など劣化が激しく、境内をトボトボと歩いていると、僕の心の中まで雨がしみ込んでくるかのよう。日吉大社は魔除けや厄払いにご利益があるとされているのだが、さて…。

 ここから琵琶湖へはなだらかな下りとなっており、その参道を中心に修行を終えた老僧が住む里坊が整然と広がっている。その数54。穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団が作った総延長2キロの石垣が何より印象深いが、普段は拝観できない各庭園が見事だとも。今日のところは、我々は壁の外から想像するだけである、もっとも、町並みは非常に穏やか、かつ端正であり、ここは戦禍に巻き込まれなかったせいか、歴史の重みならぬ歴史の軽さ=清々しさを感じさせる地域である。

 次に向かったのは天台寺門宗総本山の三井寺。10世紀後半に始まった山門派(=延暦寺)と寺門派(=三井寺)の抗争、いわゆる「山門寺門の争い」は有名な話だが、圧倒的勢力を誇った山門派はたびたび三井寺周辺の寺院を焼き討ちに。もちろん、寺門派もときに天皇を巻き込んで巻き返すを図るが、大きな凱歌を揚げることはなく、多くの人命や数々の寺…金堂、大門、鐘楼、講堂、堂塔が失われた。豊臣秀吉の時代になって沈静化するが、この長きに渡る攻防だけを切り取っても、日本仏教と武力の縁は相当である。「十二年籠山修行」を行った開祖、智証大師(=円珍)は三井寺を取り巻く惨禍をあの世からどう眺めていただろうか…。

 日吉大社も広大な面積を誇るが、三井寺もじっくりと見て回れば1時間は楽に過ぎ去ってしまうほどの広さ。数々の堂、通りは至るところが綺麗に整っており、万が一、近所に住むことがあったら足しげく散歩に訪れることだろう。この時分には雨も穏やかになり、それに伴い気分も高揚し始め、珍しく写真を撮るほどに。るろうに剣心に登場したという三重塔付近でパシャリ。ここも意外と観光客の姿は少なかったが、主役たる金堂は存在感たっぷりであり、近江を代表する寺社としての貫禄は十分であった。

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 さらに南にある琵琶湖ホテルが本日の休息の地。とはいえ、夜は大津駅まで足を延ばして近江牛を食することに。「じねん」。僕の好きなイタリアワイン、ラディコンが置いてあったのも驚きだが、ここの売りの熟成肉も大変滋味深いもの。近くのスーパーで翌朝のパン、サラダを買い込み、ヨタヨタとホテルへ戻った。

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 人気を誇る石山寺が次なるターゲット。大津の南端、琵琶湖から流れ出る瀬田川のほとり。「紫式部ゆかりの花の寺」が売り文句である。この前、見に行った源氏物語絵巻の展覧会に来ていたような淑女らが多い。みんなみんな源氏物語が大好きなのだ。それこそ大量の絵巻が作られた江戸時代がそうだったし、昭和、平成、令和の時代もそう。かくいう我が連れは大学の卒論が源氏物語だった。それはともかく、僕は初めての訪問。京阪石山寺駅から川沿いの道を歩き、小ぶりながらも立派な東大門をくぐった。

 ツツジやショウブ、そしてアヤメの最盛期は過ぎ去っていたが、深い緑に包まれた風景も悪くない。とにもかくもここは〝石〟の〝山〟である。志納所を通り過ぎ、勾配きつい階段を登っていくと、じきに現れてくるのが岩の壁。タイトルを付けさせていただけば「荒れ狂う岩の波」。石灰岩と花崗岩との接触による熱変成作用の結果だという。ほとんどの場合は大理石となるが、ときに石山寺のような硅灰石(けいかいせき)となるケースも。地球のダイナミズムがダイレクトに伝わってくるが、天然記念物に指定されたのも当たり前といった感。このような奇岩のある地に祈願しに訪れるのが、とりわけ平安時代の近江、京の人々の流行であった。別にシャレではなく。「石山詣」という。

 この硅灰石の上方にそびえ立つのが日本最古の多宝塔だ。1194(建久5)年に建立。誰しもがハッとして、しばし見とれてしまう。方形の屋根と円形の堂の組み合わせも斬新だが、その装飾、模様も秀逸。もともと多宝塔好きな僕だが、山のてっぺんにデンと構えるロケーションは唯一無二というもの。この塔を拝みにくるだけでも遥々、石山寺まで来るかいがあろう。昔と違って今は、京都から30分もかからない近場である。

 寺は山のふもとに建てられてあることが多いが、ここは紛れもなく山の中。例えば門までの道が難儀な神護寺なども登山感覚で挑まなければならないが、境内はおおよそ平地で、本堂だけが高みにあるだけ。延暦寺の東塔エリアもそう。ところが、ここは平地がほとんどない。上っては下り、下っては上りを繰り返す。境内はこのほか、八大龍王社や光堂、芭蕉庵など見どころ満載なのだが、すべてを回っていては筋肉痛を生じるのは必至である。何回かに分けて訪れるのがいいかもしれない。

 その芭蕉もたびたび滞在した地であり、それこそ紫式部は湖面に映る月を本堂から眺めて源氏物語の着想を得たという。そんなインスピレーションを受ける場としても機能してきたが、「一休さん」として有名な一休宗純も同じたぐいだ。琵琶湖を飛んでいるカラスの鳴き声を聞いて悟りをひらいたという逸話が残されている。このとき26歳。村上春樹が神宮球場でヤクルトスワローズの試合を観戦しているとき作家になろうと決心したのは29歳。ふと紫式部のことも気になり、連れの妻に聞いてみれば、「30歳手前から書き始めた説が有力よ」と。なんと。僕の20代後半は…霞ケ浦のほとりで馬ばかりを追い掛けていた。むろん、開悟の瞬間はついぞ訪れずじまい。一休は師匠、為謙宗為の死に絶望して石山寺に籠ったというが、僕は常に貧乏と隣り合わせながらも絶望とは無縁の人生であった。絶望すらできない人間は悟りと無縁なのか。それはそれで幸せなことなのかもしれないが。

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 琵琶湖線に乗って、草津、安土を過ぎ、彦根へ。南回りで琵琶湖を半周したことになる。連れがひこにゃんに会いたいという。ひこにゃん? 世間の流行にとんと縁遠くなってしまった僕だが、我が国で最も有名なご当地キャラクターの一つだという。初耳。この日は彦根城博物館に登場するというので行ってみることに。ああ、可愛い。仕草が可愛い。これはイラストレーターの勝利ではなく、プロデューサーの勝利ではないか。浮世絵の蔦屋重三郎のように陰の仕掛人はいるものである。

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 彦根城天守から小さく見えたビワフロント彦根へ。対岸の比良山系まで遮るものが何もないパノラマは爽快だし、温泉はあるし、プールもあるし、料理は美味いし…まさに琵琶湖リゾートを満喫できるリッチなホテルであった。

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 最終日は近江八幡。彦根からまた南へ下る。琵琶湖東岸では多賀大社がことさら有名だが、八幡山頂上にある瑞龍寺も知られざる聖地である。非業の死を遂げた豊臣秀次を供養するべく嵯峨の村雲に創建された日蓮宗唯一の門跡由緒寺院であり、1788(天明8)年の火災によって焼失したものの、その後は堀川今出川で再建され、1961(昭和36)年にこの地に移築。しばらく無住のときもあったように相当な紆余曲折を経て今の安定した佇まいを獲得した次第だ。近江八幡駅から15分ほどバスに揺られて大杉町で下車。そこからほど近くの日牟礼八幡宮からロープウェーに乗って約4分。標高270mの山上に到着した。

 やぶ蚊の多い鬱蒼とした木々を抜けると、古びた山門に至る。代々、皇族華族の息女が住職に就いていただけあって、本堂で来客の世話をしていたのも若き尼さん。何しろ、この瑞龍寺の詳細な情報が得られないのが難点だったが、特別拝観料を払えば、いや、払わなければ本堂の奥に入れないのがキモ。ロープウェーで乗り込んだ人すべては本尊にお参りして帰って行ったが、好奇心旺盛な我々はその先へ――。しかしてこれが大正解。有名寺社の客殿にまったく見劣りしない部屋、庭がそこにあった。ブルーが基調となった鮮やかな襖絵は〝キーヤン〟こと木村英輝が手掛けたとか。まさに古と今の融合。四方を建物で囲まれた空間=庭には能の舞台までも。ここで実際、催されたことがあるのであろうか。何はともあれ、窓から見えるふもとの町並み、琵琶湖は近江の絶景とも言うべきもので、この旅のフィナーレにふさわしいサプライズであった。

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 次は、まさに息女の存在が不可欠であった伊勢神宮に行ってみようかと思う。


虎石 晃

1974年1月8日生まれ。東京都立大学卒業後は塾講師、雑誌編集を経てデイリースポーツ、東京スポーツで競馬記者を勤める。テレビ東京系列「ウイニング競馬」で15年、解説を担当。著書2冊を刊行。2024年春、四半世紀、取材に通った美浦トレーニングセンターに別れを告げ、思索巡りの拠点を京都に。趣味は読書とランニング。

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