第4回 タイに住んだら哲学は変わったか?
ネオ高等遊民です。本連載は第1回から第3回までは、拙著『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書』に込められた理念や思いなどをお話ししてきました。 今回は、拙著から離れてタイ生活について書こうと思います。ようやく「タイで哲学について考えたこと」というシリーズタイトルと関係がありそうな話です。 タイに住みはじめてそろそろ5年になります。異国暮らしとしては、まあまあ長いほうなのではないでしょうか。哲学YouTuberとしての活動期間は、日本よりもタイでのほうが長いくらいです。そう考えると、私の哲学はタイで行われているといえます。 では、タイで暮らすのと日本で暮らすのとでは、なにか違う哲学が生まれるのかという問いは、自然と浮かび上がります。 たとえば、哲学に関する知識を増やしたい、YouTuber活動をもっと伸ばしたい(成功したい)なら、日本で暮らしたほうがなにかと有利でしょう。哲学の知識やYouTuberとしての評判を積み重ねるのに、タイ生活が役立ったことはありません。 しかし、知識のかわりに積み重なっているものもあります。それは、タイでの日常生活のちょっとした出来事、1つ1つはなんでもないようなことの数々です。 今回の話の結論を先に述べると、それらは日本に住んでいたのではなかなか体験できなかったことで、私の世界の見方や哲学の考え方に影響を与えているように思えます。 世界観を変えるのは、なにか印象に残る大きな出来事ではありません。むしろ、その1つ1つはなんでもないような日常のささいなことが、私たちの世界観を少しずつ変えているのではないでしょうか。世界に対する自分の見方やかかわり方は、決して固定したものではなく、常に変動しています。そして、変化の瞬間・まさに変化しているその時をとらえることはできず、いつも後から振り返ることで、いつのまにか変わっていることに気が付く。そういうものだと思います。 そういうわけで、今回は私のタイ生活を振り返り、タイに住んでみたからこその変化を発見したいと思います。まず取り上げたいのは、言語(語学)です。タイでタイ語を学び、使うことについてです。 タイ生活を始めたころの、全然タイ語ができなかったころのことからお話しします。 タイ生活を始めるにあたって、私はタイ語の語学学校に通いました。これは学生ビザを取得するためという実際的な理由もあるのですが、せっかくタイに住むのだからタイ語を勉強したほうがタイ生活も便利で楽しくなるだろうと思ってのことです。少なくとも勉強して損することはないですからね。 ところで読者のみなさまは、なにかタイ語をご存じですか。「こんにちは」「ありがとう」くらいの表現すらも知らない方も多いのではないでしょうか。私もタイに来るまでは知りませんでした。タイの有名人(歴史上でも現在の人物でも)も、ほとんど知りませんでした。タイ語を学びはじめて、どれだけ自分がタイについて今までまったく知らなかったか、学校でほとんど学んでも来なかったか、そういうことをまず感じました。 タイでなじみ深いものといえば、タイ料理でしょうか。ガパオライスとかトムヤムクンとかは、タイ語の入り口になるかもしれません。たとえばトムヤムクンは、①トム②ヤム③クンの3語で構成されていて、それぞれ①煮る(スープ)②混ぜ・和え③エビという意味です。つまり、「エビ入り混ぜスープ」という意味です。混ぜてるのは野菜やハーブです。タイではエビが入ってるとは限らないので、そのときは「トムヤム○○」となります。 さて、話をタイ生活に戻しますと、語学学校での勉強は、週に2回でした。最初に借りた家はだいぶ郊外にあり、中心街の学校まではバスなどを利用して通っていました。所要時間は45分くらいでした。 タイのバスというのは、地域によっても様々ですが、まあボロいんです。写真をご覧ください。 これはチェンライというタイ北部のバスターミナルでたまたま撮った写真なのですが(なぜか豪雨)、私が通学に利用していたのもこんなバスでした。写真ではあんまり古くは見えませんが、まずドア扉や窓ガラスがない。もちろんエアコンもなく、暑いうえにガタガタ揺れます。でも運賃は激安で片道70円くらいでした。 バスに乗れば、もちろん車掌さんに行き先を言わないといけません。それすら最初は通じないんです。タイ語の発音は日本人にはおそらく結構難しくて、固有名詞の地名すら通じない。 で、どうにかして乗り込むも、最初は不慣れですから、どこで降りていいかすらわからないわけです。日本のバスみたいに次の駅のアナウンスなんてもちろんありません。 ただ、私は外国人ですから、車掌さんからすれば「ああ、こいつは何もわかんないやつだから、助けてあげないと」って思ってくれるんでしょうね。だから降りるときも、「ここだ、ここで降りろ」って言われて降ろされるわけです。 旅行であれば1度乗っておしまいですが、私は通学のためですから、毎週のように何度も乗っていました。すると、車掌さんも同じだったりしますから、私のことを覚えていたりするんですよね。当時は金髪でしたから、たぶん「なぜか金髪の日本人」みたいな感じで覚えやすかったんだと思います。すると今度はコミュニケーションが円滑になるといいますか、相互理解が生じるんですね。「ああ、お前はどこそこで降りるやつだな」というふうに覚えてもらえるんです。 言語とは関係ありませんが、このとき「金髪であること」が非常に便利だなと感じました。金髪にするというのは、単にYouTuberとしての見栄えというか、メイクみたいな目的で染めていたんですけど、それが「異国の地で自分のことを覚えてもらう」という、かなり重要なことの役に立っていたんです。当時よくしてもらっていたタイ人の方から「ポデーン」とか呼ばれていたんですけど、直訳すると「赤髪」です。赤じゃないと思うけど、ともかく赤髪と呼ばれていました。 当時の私はまったくタイ語ができないというレベルでしたが、これまで出会ったタイの人たちはともかく基本的に私を助けてくれる人しかいませんでした。だから、もちろんタイ語ができなくてもコミュニケーションはできます。言語がすべてじゃありません。 では、タイ語の学習にはどういう意味があったのか。それは、タイ語を学んでいることがきっかけとなって、コミュニケーションが生じたことでした。 ちょっとわかりにくい言い方だと思いますが、たとえば「あなたタイ語の勉強してるんだ? どうして? どこで? どんくらい勉強しているの?」みたいな会話が生じるということです。つまり、外国人が自分の国の言語を勉強しているという、そのことが好意や交流を持つきっかけになるんです。タイで暮らす外国人は日本人に限らずそこそこ多いのですが、タイ語がほとんどできない人も普通にいるという事情もあります。 ですから、タイ語を勉強していたことは、単なるスキル獲得以上の意味を持っていたのです。いわば「つながりを円滑にする手段」だと思っていた言語が、「つながりを自ら生み出すもの」でもあったことに気が付きました。 現代ではインターネットで言語交換学習とかのサイトもたくさんあるので、言語学習自体がコミュニティを形成するというのは、当たり前といえば当たり前です。しかし、日本にいて日本語だけで生活が完結するような環境では実感できない体験だと感じました。というのも、インターネット上のコミュニティなら、自分からアクセスしなければ関わらなくて済みますよね。嫌になったら行かなきゃいい。でも、実際に異国に住むとなったら、否が応でも常に現地のコミュニティの内部で生きていることになります。 以上をひとことでまとめれば「タイで言語学習を通じて、自分の身の回りの世界が形成されていく体験をした」ともいえます。 そういう現場を体験できたのは、とてもよかったです。わたしは「関わった人たちがいい人ばかり」という幸運に恵まれたので、「ほとんどあてのない環境に放り込まれても、まわりの人たちの助けを借りながら、ちゃんと生活を形成できるんだ」というポジティブな気持ちが生まれました。別に人生観が180度変化したとか、そういう大袈裟なものではないですが、なんというか根本的なところで少し楽観的な気持ちが生じたと思います。 もっとも、それが本当にいいことかどうかはわかりません。いざとなったら誰か助けてくれるはずという「甘え」が生じているとも言えるからです。 実際、ちょっとした面倒なことはタイ人によく頼ってます。たとえば「荷物を送る」といったこと。宛先をタイ語で書いたり、受付で色々と聞かれるのが面倒なんです。微妙にわからない状態・確信がない状態で手続きをすすめる必要がある。 でも、こういったものすごく些細なことでも、自分と世界との関わり方が現れていると思うんです。「荷物を送ること」は、私にとっては「他人の助けを借りなければできないこと」になります。だから、助けてくれた人に対してなんらかのお礼をしなければならなくなります。別に報酬としてお金を渡すとかではなく、「私のことをなんだと思っているんだろう」と思われないような付き合い方をしなきゃいけないという、人付き合いの問題です。 日本にいる時よりも、他人に助けてもらうことが明らかに増えたので、こういったことにかなり配慮するようになりました。甘えてばかりの一方的な関係では、対等な人間関係とは言えません。 ですから、私自身もできるだけ礼節を尽くしたり、なんらか返礼をするような人間になりました。そうすることで、対等な、長続きする人間関係を作れます。 言語についてまだ話したいこともあるのですが(「わからない状態でいることが普通になった」という話もそのうちしたい)、今回は以上です。 それで、この話が哲学となんの関係があるのかというところですが、いわゆる「哲学研究」的な意味では、もちろん直接は関係ありません。「タイに住んでいたおかげでヘーゲルが読めるようになりました」といったことは、まあないでしょう。 だけれども、私自身の身の回りの世界との関わり方や、何を大事なことと感じるかといった価値観は、タイ生活で少しずつ変わっています。つまり、生き方が変わっているんですね。 もし哲学が生き方でもあるのだとするならば、哲学をどう理解するかは、まさにこのような日常生活の1つ1つの積み重ねから生じる可能性もあると思います。そのような可能性を探究するために、今回は自分のタイ生活を振り返ってみました。 ネオ高等遊民 日本初の哲学YouTuber。タイ在住。著書『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書』(2024)。タイ語を学びはじめたころ
最初はバスに乗るのも苦労した
言語学習を通じてコミュニケーションが生まれる
タイ語が身の回りの世界を形成する
結論 タイの話と哲学とは、なんの関係があるの?
YouTubeチャンネル「ネオ高等遊民:哲学マスター」:https://www.youtube.com/@neomin
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