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第2回 邪馬台国はどこにあったのか

 それでは早速、邪馬台国問題の原点である魏志倭人伝に添って、邪馬台国が北部九州にあったことを説明します。第1回で示した帯方郡から邪馬台国までの道のりを再掲します。

 まず、地名について確認します。帯方郡は魏が朝鮮半島に設置した出先機関のことでソウルの少し北に位置しています。帯方郡の港から船で水行して韓国南岸まで進みますが、狗邪韓国は遺跡から推定して釜山の近くの金海付近と考えられています。

 方向については日本列島のすべてを90度回転させてしまう奇説を唱える人もいます。九州の東に四国、近畿、関東があるのではなく、九州の南に四国、近畿、関東があると魏国が認識していたと夢想するのです。しかし、この説はそのままで合っていた北部九州の方位を狂わせ、奈良だけ合うように調整する自説優先の考えです。こんなことをしてまで奈良の方向問題を解消しても、「帯方郡から邪馬台国までの合計は12000余里」しかない問題は解決していません。

 やはり、魏志倭人伝は同時代の資料だけあって、記述は極めて正確で、北部九州の地理を正確に反映しているのです。勝手にほとんどの距離と方向の改ざんを重ねる奈良説とは雲泥の差です。もし私が奈良説論者だったら不安で不安で夜も眠れないような砂上楼閣です。北部九州説のお陰で毎夜安眠できていますが。

 以上見てきた通り、纏向遺跡は卑弥呼の宮室ではあり得ませんが、三輪山の麓の第十代崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)や、第十一代垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、第十二代景行天皇の纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)の伝承地にあり重要な遺跡です。纏向遺跡を初期大和朝廷の宮室として研究をすることが日本古代史を前に進めることになると思います。                  

                                   (図版作成:うさんぽデザイン/USA)


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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