月刊傍流堂

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 月刊傍流堂
  4. 第5回 クニドス

第5回 クニドス

 クニドスを訪ねる。

 クニドスの遺跡はトルコの南西部マルマリスあたりから地中海に細長く伸びるダッチャ半島の先端部にある。あの優美なクニドスのビーナスゆかりの遺跡ということで何となくロマンただよう遺跡との印象があったが、そこにいたる道はよくなかった。否、むしろひどかったというべきか。当初はまだ道幅もあったが、道は次第に細くなり、途中の山の中腹を走るあたりでは極めて狭く、道の真ん中に大きな石や岩がごろごろしていてやっとの思いで通過したという次第である。もちろん舗装などはされていなかったし、それにその時は、たまたまのことであったとは思うが、道の真ん中を掘り返す作業がなされていて、それも側道もつけずになされていたため躊躇していたところ、「ここを行け」というのである。それで思い切って進み、溝に車ごとはまり込んだところ、工事関係の数人が駆け寄ってきて持ち上げて通してくれた。とりあえず礼をいってその場を通過した。ギリシアのポリスは陸からのアプローチがむしろ難しいところに造られていることをあらためて実感した次第である。ギリシア人は基本的に海洋民族だったのである。

 そのようにしてやっとの思いで岬の先端部に着いたところ、そこに幾人かの少年兵をつれた国境管理の役人らしい男がいて、よく来たと歓迎してくれた。ここがクニドスかと聞くと、「そうだ、チケットを買え」という。どう見ても石や岩のごろごろした岩場としか見えないここで、しかもロープ一本張られていないようなところで入場券かとも思ったが、同意した。しかも3枚買えという。なぜ3枚かと聞くと、アゴラもあるだろう、神殿もあるだろう、オデオン(音楽堂)もあるだろうという。そしてこいつに案内させるとひとりの少年兵をつけてくれた。

 クニドスの遺跡はかなり広い遺跡で、アゴラ、劇場、オデオン、ディオニュソス神殿、ムーサ神殿、アプロディーテ神殿などの遺構があちこちに点在する。それらを順にめぐってそのいちいちについて少年兵は熱心に説明してくれた(トルコ語で)。そうか、そうかと相槌を打ちながら少年兵の後について遺構を経めぐったが、谷間にきて二人きりになったとき、はっと少年兵の肩に銃が掛かっていることに気づき、突然怖くなった。それでありがとうといって早々に切り上げた。日焼けはしていたが純朴そうな顔をした少年兵であった。ここでもまた自らの狭量性を恥じた次第である。

 クニドスの遺跡に立つとき、われわれは医学の運命(ゲシック)に想いを馳せずにはおられない。

 当時のギリシアの医学界にはクニドス派とコスのヒッポクラテス派の二大流派があった。クニドス派は診断(ディアグノーシス)を重視し、病気を臓器における病巣の異常と考え、それに対象志向的に対処した派で、身体のどの部位が病気に罹ったかを特定してそれを切除するという現代医学にも通ずる施術を行った派であった。しかし当時は人体の解剖がタブー視されていたために診断が曖昧になり、この派は次第にその勢いを失っていったといわれる。

 これに対してコスのヒッポクラテスの施した医術は自然の治癒力を引き出すことに焦点を当てたもので、予後(プログノーシス)を重視した。ヒッポクラテスは病気は四種類の体液(血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁)の混合に変調が生じたときに起こると考える。したがって予後(プログノーシス)によって病の行く末を見通し、それに応じて調和を回復させる自然的な施療を施すことを主眼とする。

 四つの体液(血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁)はそれぞれエンペドクレスの空気、水、火、土に対応する体液とされる。そしてそれらは春、冬、夏、秋に対応する。要するにヒッポクラテスは人間の身体を何よりも自然存在と考え、自然の秩序と調和を回復することにその施療の力点が置かれていたわけである。彼の医術は、そのベースにイオニアの自然哲学があり、いわば「存在の医学」とでもいうべきものであったということができよう。今日ヒッポクラテスが「臨床医学の父」と呼称されるゆえんである。

 ヒッポクラテスの医術はローマ帝政期にガレノスによって継承され、より大規模に展開された。そしてこの医術の動向は中世期を越えてルネッサンス期にまで及んだ。ガレノスはヒッポクラテスの医術をはるばるルネッサンスまで運んだといわれる。のみならずガレノスの医術はイブン・シーナなどによってイスラム世界にも取り入れられた。したがってローマ期以降500年にわたってヒッポクラテスの医術がヨーロッパおよびイスラムの医学界を支配したわけである。

 近代と共に主観性(Subjektivität)が巨大原理として立ち上がった。主観性は「前に立てる」(Vorstellen)原理であり、それが出現させる世界はゲステル(Gestell)とならずにいない。それと共に医学もまたゲステルと化す。今日医療機関が巨大ゲステルとして出現しているゆえんである。

 近代医学は患部を対象志向的に特定し、それを切除することを本質とする。同じく臓器の病巣に対象的に対処しようとしたクニドス派的な医術が復活してきた観がある。しかし両医術には本質的な相違があるであろう。主観性はVorstellen(前に立てる)原理であるがゆえに物を己の前に建立する原理でもある。主観性には「作る」ということ、Machenschaft(工業性)がその本性として帰属しているのである。主観性はそれを強力に推進する。その結果世界は全体として工場になってしまったが、近代医学の現場も異ならない。Machenschaft(工業性)と連動するのはTechnik(技術)である。そこでは技術が高度化され、先鋭化する。今日巨大病院の医療現場はまさに高度化し、先鋭化した技術の実験場のごとき観がある。しかしギリシアにMachenschaft(工業性)はなかった。

 この高度化した技術は命を救うことができるか。

 否。医学は身体という対象を通して生命を対象とするが、ところが生命は実は対象とはなりえない存在(Sein)なのである。生命が対象となって主観性の前に立つことなど絶対にない。医学が対象として扱いえているもの、それは精々身体ないしはその臓器、あるいはそれら臓器ないし器官の働き・機能に過ぎない。臓器や器官の機能は対象的概念である。だがそれらを生動させている生命はそうではない。したがって機能と生命の間には絶えずズレが生じずにいないのであり、このズレが医学を休ませない。医学は生命という非対象的存在を追求しながらも、対象としてしかそれを扱いえないジレンマに永遠に悩みつづけざるをえないのであり、それというのも近代医学はすべてを対象としてしか見ない、ないしは対象としてしか見ることのできない主観性(Subjektivität)の学知だからである。このジレンマは今日の近代医学ではもはや極限状態にあり、例えば臓器移植といった医療現場の背後で作動している主観性の先鋭性はもう極限にまでいたっていて、ほとんど狂気のごとき相貌を呈しているが、あれが主観性を原理とする知の本性であり、宿命なのである。というのも主観性はどこまでも対象志向的に突き進まざるをえず、立ち止まることを自らに許すことのできない原理だからである。しかし生命は対象でないがゆえに主観性を立ち止まらせてくれはしない。対象でないものを対象志向的にどこまでも追い求めるあの無限地獄が近代医学の実相であり、運命なのである。しかもそれが今日見られるような巨大ゲステルの中で遂行されるとき、それはもうほとんど悪魔的な相貌を帯びてくる。あの相貌が本性をむき出しにしたときの近代医学のそれだとわたしは思う。

 繰り返すが、生命は、ハイデガー流にいえば、存在(Sein)であって、存在者(das Seiende)ではない。したがって対象としては扱えない。もしそれが対象として扱いうるものであったなら、医学はとっくの昔に生命を配下に置いていたことであろう。言い換えれば、死を克服していたであろう。しかし生命は存在者(対象)でないがゆえに医学が生命を支配し、死を克服することなど永遠にありえない。医学は生命を永遠に逸しつづける。先鋭化すればするほどますます逸しつづける。これが医学の運命なのである。

 医術はこのようにクニドス派的な対象療法的施術とヒッポクラテス的な自然療法的施術の間を揺れ動くよう運命づけられているのである。その理由は、生命は存在(Sein)であって存在者(das Seiende)ではないということ、したがって対象として扱い切れるものではないという上述の哲学的真理なのである。医学の根底にも存在(Sein)と主観性(Subjektivität)という西洋形而上学の二大原理の対立・葛藤があるのである。これが医学の運命(ゲッシク)である。クニドスの遺跡に立つとき、われわれはあらためて医学のこの運命(ゲシック)に想いを馳せずにおれない。


クサカベクレス

1946 年京都府生まれ。別名、日下部吉信。立命館大学名誉教授。1969 年立命館大学文学部哲学科卒。75 年同大学院文学研究科博士課程満期退学。87-88 年、96-97 年ケルン大学トマス研究所客員研究員。2006-07 年オックスフォード大学オリエル・カレッジ客員研究員。著書に『ギリシア哲学と主観性――初期ギリシア哲学研究』(法政大学出版、2005)、『初期ギリシア哲学講義・8 講(シリーズ・ギリシア哲学講義1)』(晃洋書房、2012)、『ギリシア哲学30講 人類の原初の思索から――「存在の故郷」を求めて』上下(明石書店、2018-19)、編訳書に『初期ギリシア自然哲学者断片集』①②③(訳、ちくま学芸文庫 2000-01)など。現在、「アリストテレス『形而上学』講読」講座を開講中(主催:タイムヒル)。

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事