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第8回 京都マラソン2025

 「バンッ!」。遠くから号砲の音が聞こえてきた。曇天模様の空を経由して。いや、贅沢は言うまい。冬場の降雨ほど身にこたえるものはない。いっそのこと、雪になってしまえば対処法なども含めて楽だったりするがしかし、2、3日前の天気予報では気温10度前後。そうであれば最悪のランニング日和となっても不思議はなかった。まさに戦々恐々としながらレース当日を迎えたわけだが、朝の5時には雨が上がり、2月にしてはわりかし暖かい気配に。そうして運動神経抜群のお笑い芸人さんが「きょうは最高のコンディションですよ。自己最高タイムを狙ってください!」と1万6千人余りのランナーへ向けて無邪気にハッパをかけて、2025年京都マラソンの幕が切って落とされたのである。

 「スタートラインに着くまでが長いですねえ」

 さきほどまでトイレの長蛇の列に並んでいた京都在住のイケメン中年と苦笑しながら言葉を交わす。開会前のプログラムが行われていた競技場からあぶれた我らは隣の補助競技場からのスタートだったのだ。それゆえ開会式は目撃できずじまい。整列時間制限ギリギリに用足しが成功し、最後方近くのJの列に並び(A~Kに分かれていた)、いまやいまかとスタートを待ちわびていたのである。薄着となり体が震えてきたもののぎゅうぎゅう詰めとなっていたのでストレッチ運動は満足に行えず、唯一、存分に動かすことができるのは口だけであった。

 「10年ぶりの京都マラソンなんですよ」「そうなんですか。僕は20数年ぶりのフルマラソンなんです」「どちらの大会に?」「かすみがうらマラソンです」「ちなみにタイムは」「3時間半くらいでしたっけ」「それは速いですね」「わたしは今回、4時間を目標としているんです」。そんな他愛のない会話があちらこちらで繰り広げられているのだ。人と人との垣根がグンと低くなるのがマラソン大会の特徴。普段は人に話しかけることに抵抗を感じる僕ですらふと気が付けば、隣にいる人に声を投げかけている。好き好んで苦しさを伴う運動を行うのだから変人の部類。共犯的なシンパシーを抱くのは致し方のないことである。

 9時13分にスタートラインを通過。ここからが僕の始まり。さすがに30分以上もじっとしていたので体全体がこわばっている。身のこなしが硬い。ほぐれてくるまでしばし時間が掛かるだろう。前日は朝のランニングを通常の10キロから6キロにとどめ、インターバルトレーニングを多くした。あまり疲労は残っていないはず。踵辺りの痛みが気になるが、これもじきに解消されていくことだろう。どんな日でも走り始めはこんなもの。もとよりスロースターターなのだ。僕も村上春樹も。体全体が重く、なかなか足が前に出ない。もう止めてしまいたい。それでも経験則――じきに素軽さを取り戻し、息遣いも良くなってくる――を勇気に変えて一歩一歩、踏み出していく。きっと、今日もうまくいくだろう。

 好きな作家は数え切れないほどいるが、村上春樹は特別な存在である。というのも、これまでの人生でランナー友達は一人もおらず、よって他人とランニングについて意見交換をしたことはなく、有名ランナーの自伝らしきものも手に取ったことはない。要するに、ボクシングのロードワークをきっかけとして始まった日々の走りは誰からも影響を受けたわけではなく、いつだって自分のそれは独自なものと予想していた。が、村上の『走ることについて語るときに僕の語ること』(文春文庫)を読んで驚き仰天。ほとんど似たようなランニング哲学を持っており、そもそも肉体的特徴が瓜二つの、ちょっとばかり僕より経験豊富なランナーがいたことに。決して人と競うことが主眼ではなく、数字を断固として追い求めるわけではなく、はたまた健康になるために走るのではない。「たとえ長く生きていなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な人生を送りたい」(同書123ページ)。これが村上も含めた多くのランナーの胸の内。ただそれだけ。そもそも「寿命=心拍数」という説が本当であるなら、心拍数を上昇させざるを得ないランニングは不健康そのもの。死を積極的に手繰り寄せる行為だ。村上は「小説を書くことについての多くを、道路を毎朝走ることから学んできた。自然に、フィジカルに、実務的に」(同書122ページ)と大胆とも言うべき語りを披露していたが、僕は「体内世界を探るべく、日々の生活にランニングという単純運動を取り入れた」と言おうか。1990年代、養老孟司(例えば『唯脳論』)や三木成夫(例えば『海・呼吸・古代形象 生命記憶と回想』)らの一連の著作に影響を受けて身体研究をしようと決意したのである。ときに自分の体も教科書になり得る。ボクシングはわずか1年足らずで足を洗ったが、養老や三木らに背中を押されて?ランニングとは長い付き合いに。何はともあれ「大宇宙を知るには、まずは小宇宙を」とのスローガンは大胆というより暴挙というべきか。以後は大岡川、江戸川、利根川、多摩川、そして鴨川と場所を変えつつ、途中ちょっとの休止期もあったが、30年以上走り続けてきたのである。

 五条通を東に向かうとすぐに、北へ進路を変える。葛野大路通だ。この辺りでは依然として手足が自分のものではないかのようにギクシャクとしている。まだ神経系統が麻痺しているのだろう。じきに四条通にぶつかり、西へ。まっすぐ西へと進む。少しずついつもの朝の感覚が戻ってきた頃、右に梅宮大社の門が見えてくる。昨年の初夏に訪れた際は鬱蒼とした庭園に面食らった覚えが。さながら野趣溢れる迷路。鬼ごっこに最適の場所だ。

 両サイドの歩道にはランナーに声援を送る人が絶えない。この時点で、「京都マラソン」は葵祭や祇園祭と等しく京都市民にとって大事な行事ということが了解できた。206番の循環バスよりもさらに大きく市内を回る当コースのほとんどの通りに一度は足を運んだことがあるとはいえ、道路の真ん中からの風景はやはり違う。まったくもって贅沢な京都観光である(こんな悠長なことを言っていられるのも今のうち)。とりわけ、京都マラソンの前半は名所巡りといった趣である。

 なにやら一気に視界が開けてきたと思ったら、桂川まで来たようだ。北へ進路を取り、京都の西山連峰を愉しみながら足を踏み出していく。すると、5キロ通過の看板が。え、まだ、そんな距離しか走っていないのか。速度を上げたいと思っても常に密集した状態だけに(ついぞ最後までランナーがバラけるシーンはなかった)、周囲の流れから逸脱するのは難しい。余計なスタミナロスに繋がる。ここは焦っても無駄。なるべく心を空っぽにして、後半までエネルギーを残しておこう。

 三条通で桂川とお別れ。もう少しで渡月橋だったのに。そんな文句を言っていると、バチがあたる。ほら、坂道がやってきた。しかし、この嵐山高架橋に差し掛かる前に、背筋がスッと伸びた「ポニーテール女子」と遭遇したのは僥倖であった。四半世紀前に出走した「かすみがうらマラソン」ではサブスリー的な優秀なランナーにいわば引っ張ってもらって好タイムをマークできたのだが、僕にとってはオーバーペースだっただけに最後の4~5キロは歩く羽目に。それでも3時間半で走破したのだから初マラソンとしては上出来だった。2度目となる今回のマラソンは、タイムは二の次三の次、あくまで余裕を持って最後まで走り切ること。これがテーマであり、余裕を持って走るためにはやはり、自分と同じくらいのペースで走っている人に付いていくのが有効的だ。疲労度合いが少なくて済む。さらに、出来ることなら「ポニーテール女子」のように見栄えのいいランナーが好ましい。

 この辺りで、もう一人、同じような速度で走っている「マイペース黒オヤジ」にも遭遇。熟練走者特有の一定としたリズム。やけに背中を丸めた黒ずくめの格好も見分けがつきやすく、悪くないターゲットと言えるがしかし、こちらはいかんせん坂に弱い。上り坂になると、急激にスピードダウンするのが難点だ。そんなわけで前半戦の多くはより安定感のある「ポニーテール女子」にお世話していただくことになった。

 清凉寺の入り口付近で東へ。ここからは時折、北に進路を変えつつも賀茂川へ続く道。それこそ観光名所がわんさかひしめいている。一条通沿いにあった広沢池は初めての接近。ここはかつての避暑地だろう。華やかな感じはしないが、落ち着いた風情。「ポニーテール女子」のおかげで?踵の違和感はすっかりなくなり、このままのペースならいつまでも走り続けそうな感覚に。もっとも、しばしば走行を妨害してくる「冷やかし七福神」が鬱陶しい。真っ赤なユニフォームに変なデザインの帽子をかぶっている。歩道から声援を送っている人に、しばし止まっては無駄口を吐いている。どこのマラソン大会にもいるキワモノランナーだ。しかし、走ったり止まったり喋ったり、ジグザグ走行したり…それでも結局は真面目に走っている僕らと同じようなペースを維持しているのだから走力自体はかなりのもの。ちょっと脇から彼の表情を窺ってみると、ふくよかなほっぺを赤く膨らませて喜色満面である。実に楽しそうだ。

 左手に、仁和寺の年季が入り過ぎている立派な門と仁王像が見えてくる。これはまさしく京都屈指の寺社建築ではないだろうか。醍醐寺の五重塔と双璧をなす凄みのある木造建築。この傑作を目の当たりにして元気が湧き出てきたが、細かな痛みや違和感はなくなったものの足元全体はまだ重め。まだ10キロを少し過ぎた辺りだが、このままの状態でゴールまで推移していくのか。やはり、前日までトレーニングをし続けたツケがあるのか。いっこうに疲労感がぬぐえない。それでも足を前に出すしかない。歩くことは絶対に禁止である。

 そんな決意をより一層、強くさせられたのは「三つ編みデラックス」の存在だ。健康診断では必ずイエローカードが出されると思われる肥満体形に、お尻の少し上まで垂れている三つ編み。右の足はかなり外側に向いている。走り慣れている感じはさらさらなく、お世辞にもスマートとは言い難いものの、ヒョイヒョイと進んでいくのだから驚きだ。うかうかしていると、こちらが置かれてしまいそうになる。動物には最適解というか平均値というものがあるかもしれないが、必ずしもそれが真理、正解ではないことは彼の走りが実証している。

 * * * 

 ここまで出会った人たちはアクが強かったが、長距離ランナーのメンタリティーを持つ点では同類だったとも言えようか。しかし、立命館大学付近で突如として現れた「KAGAWA10」は明らかに中距離ランナーのそれだった。人を縫って一気に遥か前方に行ってしまうが、ほどなくして緩慢走行に変わり、再び後方へ過ぎ去っていくが、また気が付けば一気に追い抜いていく。紺色のユニフォーム姿なのでことさら目立つ。要は〝中間の〟走りができないのだ。これは若気の至りかもしれないが(20代前半の男性だった)、彼の特質だろう。何はともあれ、こんな調子ではラストはバタバタになってしまうに違いない。あまり気に留めず、自分のリズムを崩さないことに集中するのみだ。

「京都マラソンのコースレイアウト作りは結構、難儀したそうですよ。金閣寺からは門前の通りを走るのにNGが出たそうですし。一方、仁和寺は大歓迎だったようで、府立植物園はというと、観光名所として広めたいので熱心に誘致したそうです。植物園の中を走るなんて普通じゃ考えられないですよねえ」

 さすが地元の人は裏事情に通じている。床屋のマスターが話していたように、金閣寺の手前で大きく迂回してから北上する。さきほども嵐山手前で右折を余儀なくされたように、過度に人気のある観光スポットは敬遠してレイアウトされているようだ。むしろ、金閣寺に向かう路線バスが通る西大路通を封鎖しただけでも主催者の並々ならぬ力量が窺い知れるというもの。給水所も適度な間隔で設置されており、大阪マラソンのように折り返し地点が不明瞭になることもない。これもひとえにランナーの数に匹敵する1万人超のボランティアを集めてしまう人気大会のたまものだろう。

 今宮神社の参道を通り過ぎ、念のためにトイレ休憩を挟み、再び走り出したところ、体はいくらか軽くなったが、一旦は暖かくなった体が急激に冷えてきた。暑過ぎては体力を奪われるが、寒過ぎても体力を発揮しづらい。しかも、左足のシューズの紐をきつく結びつけたせいで足の甲がビリビリしてきたのも不安の種に。ここでまたもや小休止するべきかどうか。気持ちが揺らぐところではあるが、結果的には時間のロスがあっても結び直したほうが良かった。後悔先に立たず、である。

 船岡東通、御薗橋通を経て賀茂川へ。言ってみればマイトレーニングコース。まだ半分にも達していないが、自分の庭に戻ってきた感じがしてホッとする。しばし、川沿いを上って下って、北山通で左折。ここで大きなミスをしてしまった。この第7給水所にしか置いていない苺ソフトを取り逃がしてしまったのだ。後半戦のエネルギー源としたかったのに。しかも、やはりと言うべきか、賀茂川から修学院駅までまっすぐ続く3キロほどの道が最もきつかった。周囲には目立った建築物はなく、ひたすら走るだけ。それこそ心をからっぽにして。「走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている…雲はただの過客ゲストに過ぎない…空だけが残る。空とは、存在すると同時に存在しないものだ。実体であると同時に実体ではないものだ。僕らはそのような茫漠とした容物いれものの存在する様子を、ただあるがままに受け入れ、呑み込んでいくしかない」(『走ることについて語るときに僕の語ること』35ページ)との村上の言葉を思い出す。要するに、「空白を獲得するために走っている」(同書34ページ)のだ、我々ランナーは。もちろん、何かしらは走りながら考えている。走り終えたあとにも残るイメージはある。しかし、夢と同じで、実際に見た夢と目覚めたあとに思い出される夢は違うもの。今、北山通について思い出されることは、そっけない空と、ひたすら続く道、そして左右両方の股の内に痛みが生じてきたこと。そう、非常に面白みを欠いた記憶ばかりである。

 その中で一つだけ喜ばしい記憶といえば、妻と娘が沿道まで来てくれたこと。小さく手を振っている姿には胸を打たれた。完全に僕個人の営みなのに、別に彼女らがわざわざここまで電車に乗ってくる必要性はないのに、貴重な(はずの)時間を僕と共有してくれている。「北山に良さげなパン屋があったから」とは後の妻の弁で、確かに彼女が買ってきたパンは美味しかったが、走っている人をついつい応援したくなるのもマラソンの秘められた魅力なのかもしれない。

 植物園内の、細い砂利道を、窮屈に通り抜けると、しばらくは川沿いの道。30キロを通過。それこそ毎朝、この道を走っているのに、まったくもって親密さはない。無事走り終えて、ボランティアの方々からスポーツドリンクとおにぎりを頂いて、バスに乗ってひと息つくこと。頭の中では漠然とそんなシーンを思い浮かべていたか。上半身に極端な疲労感が生じてこなかったのは幸いだったが、下半身は今すぐにも活動を止めようとしている。京都御所の丸太町通、京都市役所と、徐々に我が家に近づいてきたのが救いといえば救いだが、ちょっとでも油断していると歩きそうになるのだから気が抜けない。

 再び鴨川を北上して東一条通に入ったところの給水所で京都バウム一切れをつまむ。これがうまい。今まで食したスイーツで一番とも思う。にわかにヤル気が漲ってくるがそれも数分だけ。続く京都大学エリアに入ると、それこそ何も考えられなくなった。ゴール後のことも何も。「走るという行為がほとんど形而上的な領域にまで達していた。行為がまずそこにあり、それに付随するように僕の存在がある。我走る、故に我あり」(同書171ページ)。存在はほのかに感じられるが、思いはほとんどない。餓死寸前の人はもはや、何かを食べたい気持ちがすっかり失われているのだろう。

 後半は追い抜かれるよりも追い抜く人のほうが多かったが、それでもたまに颯爽と追い抜いていくランナーもちらほら。しばらく見掛けなかった「KAGAWA10」が突如、右側から現れたのには驚いた。これは幻か。ひょっとしたら意識が朦朧としてきたのか。いや、そうじゃない。やはり彼だ。中距離のメンタリティーながら、僕よりも優秀な長距離ランナーだったのだ。もっとも、とりたてて敗北感はない。村上もこう言っている。「生きることのクオリティーは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されている」(同書251ページ)と。この大会で僕にとって大事なことは、あくまで最後まで走り続けることなのだ。

 しかし、どうしてこれほどまで四苦八苦するハメとなってしまったのか。月間走行距離は前回のマラソン時よりも充実したものだったのに。終始、窮屈な走りを強いられたせいも少なからずあろうが、4時間を遥かに過ぎてしまうのはもはや避けられまい。やはりトレーニング方法が間違っていたのか。それとも本来、長距離型ではなく、いよいよ老化激しく、50歳を過ぎて僅かばかりのスタミナが尽きてしまったのか。

 平安神宮が目と鼻の先まで迫ってきて、ようやく安堵感が押し寄せてきた。すでに1万人以上のランナーがゴールしているのに、いまだに大歓声が続いている。「歩くことだけは避けたい」という僕としてはかなり低いハードルを設置して臨んだところ、なんと、現状の僕としてはギリギリ飛べる高さだったのだ。かつてウルトラマラソンを完走した村上は「リスキーなものを進んで引き受け、それをなんとか乗り越えていくだけの力が、自分の中にもまだあったんだ」(同書174ページ)と回顧したが、僕は「リスキーではないものを引き受けたと思いきや、実はとてもリスキーなものだったことに気付き、狼狽えた」と反省しようか。目標は一応は達成できたとはいえ、その中身は想像だにしなかったものであり、自分のことは誰よりも知っているとの認識は真っ赤な嘘だった。今の僕は「本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ」(同書252ページ)なんて偉そうなことは絶対に言えない。果たして自身、3度目のフルマラソンはあるのか。今はとても考えられないが、今回の大会で課題が残ったのも事実。非常に苦々しくも、再びスタートラインに付く日が来るような気がしてならない。


虎石 晃

1974年1月8日生まれ。東京都立大学卒業後は塾講師、雑誌編集を経てデイリースポーツ、東京スポーツで競馬記者を勤める。テレビ東京系列「ウイニング競馬」で15年、解説を担当。著書2冊を刊行。2024年春、四半世紀、取材に通った美浦トレーニングセンターに別れを告げ、思索巡りの拠点を京都に。趣味は読書とランニング。

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