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第1回 ヒンズー教の聖地へ

 河原町三条のバス停から比叡山へ向かった。

 マイカーや電車を使う旅行客が多いのだろうか。車内には3人しか乗っていないことに拍子抜けしたが、循環バスのような大混雑ぶりで、1時間ずっと立ち続けているよりは遥かにマシだ。後方の二人席に座る。京都は東西南北、どこへ向かってもすぐに山が迫ってくる。少し市内を回ったあとはすぐさま高度が上がり、車道は狭くなり、くねくねとした道のりに。窓の外に目を向けると、眼下すぐが川だ。「ねえ、怖いわ。落っこちそう」と、連れが怯えた声を発する。錆びついているとはいえ、一応はガードレールがあるのだからよほどのことがない限り、川へ落ちることはあり得ない。「大丈夫だよ。もっと酷いところが、もっと危険なところがあったよ」。

 ガードレールがないどころか、舗装すらされていない砂利道を、日本で廃棄されたバスが、日本では出したこともないようなスピードで疾走する。市内でも、山々でも。何年か前にYouTubeで話題になったが、インドの北部、ウッタラカンドへ続く道のりはまさに殺人的。この国の運転手は車にブレーキが付いていることを知らない。あと数センチ、谷側を走ればズルリと滑り落ちてしまいそうなシーンがたびたび訪れる。谷底にはバスが転落しているのではないかと、少なくとも転落した痕跡が残されているはずだと、何十メートもの下方に目を凝らして見てみるが、これが不思議とバスの破片一つ落ちていない。ガンジスの大量な水が囂々と流れているだけだ。なるほど、ここは神々の住む山。奇跡が平常運転なのだろう。

 大学生の頃、暇を見つけては国内外を問わず、至るところに出かけていた。ヨーロッパ巡りを終えると、すぐさま次のターゲットはインドに。なにかこう、この先の人生を揺るがしかねない大事なものに触れられそうな気がするのだ。とはいえ、これまでに経験した都市から都市への移動とは違い、その旅路が想像しにくいだけになかなか踏ん切りが付かなかったが、1996年の初夏、川崎競輪場で万車券をゲットしたのが決め手となり、数日後にはニューデリーへ出立していた。

 かの地に足を踏み入れるやいなや、風邪の症状に見舞われた。やはり、そうか。日本にいるときから熱っぽさを感じていたのだ。しかし、ここで戻るわけにはいかない。さっさと安宿を見付けて、とことん眠って悪い菌を追い出そう…が、翌朝も体のだるさは変わらず、いや、無念にも、悪くなる一方だ。砂塵を含んだ熱気が体をまとわりついて仕方がない。旅にとって金銭以上に必需品の身体エネルギーがどんどん失われていく。当初予定していた西部への移動=アフガニスタン行はひとまず諦め、空気が澄んだ北部へ避難することに。ニューデリーからそう遠くない、列車で1日もあれば行けるような町に。手持ちの地図で探してみると、どうやらリシケシュが適当のようだ。6時間ほど揺られ、恐る恐る、回復の地に降り立った。

「ここから先の山岳地帯はウッタラカンドと呼ばれ、いわばヒンズー教徒の聖地となっています。1年の多くを雪で覆われている地域ですが、夏場の2~3か月間は登山が可能となっており、インドははるばる全土から毎年、多くの人が巡礼しに来ています。ガンジスの源流とも言える4本の川がヒマラヤ山脈から噴出する辺りに寺院があり(ヤムノートリー、ガンゴトリ、ケダルナート、バドリーナート)、これらに一生で1度でも参拝しに訪れるのが私たちの至高の夢となっています」

 観光案内所とはいっても、駅からはやや離れた広場前に設置されてある掘っ立て小屋で、職員と思しき人からこう説明を受けた。どうやらここは聖地への入り口のよう。この時は、1968年にビートルズが瞑想しに訪れていたことや、いまや日本でもヨガの聖地として名高いことを知る由もなかったが、なるほど、リシケシュは大河中流の広野ならではの、清々しい風が吹き渡る。安宿に固執したせいか、市街地から遠い鄙びた場所で滞在せざるを得なかったのも奏功。昼も夜も時間が止まったかのような静謐な空気の中で終日を過ごし、3日もすれば新たなる1歩を踏み出して余りあるエネルギーに満たされていた。

 大河たるガンジスの源流をまず見てみたかったし、彼らの夢を、夢の軌跡をたどってみたかった。ここから先の地域はガイドブックに記されていないが、迷いはない。何週間かかってもいい。さらに奥地へ向かうバスに飛び乗った。

 じきに、車内の様子がおかしいことに気づいた。山岳地帯の要所を通り過ぎるたびに一同揃って雄叫びをあげる。どうやらこれは路線バスではなく、いわば貸し切りバスに乗り込んでしまったようだ。インドのある町、ある村からやってきた顔見知りの人たち。それはそれで問題はなかったが、彼らの一部で、まさに闖入者たる僕への不信が徐々に膨らんできていた。うっそうとした森の中の休憩所で、気が付けば、十人以上の男どもに取り囲まれていたのである。

「お前は何をしにここに来た。日本人ならヒンズー教徒ではなかろう。我々は遊びでウッタラカンドを回っているのではない。遊びならここで降りて、帰れ」

 言葉の節々に棘があったし、それより何より彼らの目つきが尋常ではなかった。インドの男どもは道端で昼間からダラダラとしているが(とくにウッタラカンドの村々ではそうだった。彼らは仕事をしているのだろうか…)、怒ったときの表情はとんでもなく怖い。こんな山奥で一人、取り残されたら大変なことになってしまう。「僕はヒンズー教徒ではないですが、宗教そのものを勉強したくて、ここに来たんです」と苦し紛れの言い訳をしてはみたが、彼らの顔色は変わらない。なにか、根本的に、僕は間違っているのかもしれない。

 あぶら汗が止まらない僕に助け舟を出してきたのは、このバスのかじ取りをしているチョビ髭の運転士だった。「ほら、さっき、地元のおばあちゃんが乗り込んできただろ。この少年はすぐに彼女に席を譲って、私の隣(の硬い荷物席)に移動してきたんだ。きっと悪いヤツではないと思う。この際、最後まで乗せてやってもいいんじゃないか」。靴下は履いていないが乗客員と違って全体的に小奇麗で、インテリ風情がある。ずっと真横から見ていたが、ハンドルの動かし方もとても優雅だ。いったい何者なのか。いずれにせよ、彼の一声で般若顔の彼らは渋々とバスに戻り始め、なんとか場は収まったのである。

 およそ1週間後、ウッタルカシでこの運転士と再会を果たすのだが、ひとまずはジョシーマスで下車し、バドリーナート行の路線バスに乗り継いだ。ここから標高はグンと上がる。しかし改めて地図を見やると、山岳道路からやや逸れた西方にValley of Flowersという名の国立公園があることを知る。もちろん、その詳細は分からない。当時は携帯電話を持っていないし、バスに乗り合わせた現地の人に聞いてもはっきりとした答えが返ってこない。それでも、いや、それだからこそ行ってみたい気持ちが沸き起こる。標高4000mのお花畑ってなんだ? ガンガリアで途中下車し、ちらほらとしか店のない頼りない山道を歩き、宿の有無を探る。少なくとも当時は観光地と呼べる場所ではなく、外国人の姿は見えない。ところが、唯一見つけた宿らしき建物の前で、日本人と思しき青年が、おそらく値段交渉だろう、手振り身振りでインド人と話している。まさかこんな僻地に同朋がいたとは…。しばし立ち止まって彼らの様子を眺めていると、青年がこっちを向くや表情を和らげ、「ガンガリアに泊まります?泊まるなら一緒に。その方が安くつきますから」と僕の返答をろくすっぽ聞かないうちに宿主との交渉を再び始め、その1分後には薄暗く、湿っぽい部屋に通されていた。  

 ここで、古宮くんと奇妙な一夜を過ごすことになる。


虎石 晃

1974年1月8日生まれ。東京都立大学卒業後は塾講師、雑誌編集を経てデイリースポーツ、東京スポーツで競馬記者を勤める。テレビ東京系列「ウイニング競馬」で15年、解説を担当。著書2冊を刊行。2024年春、四半世紀、取材に通った美浦トレーニングセンターに別れを告げ、思索巡りの拠点を京都に。趣味は読書とランニング。

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