第7回 ハイデガー vs. ヴェーバー
これまで三度にわたって、エドゥアルト・バウムガルテンが晩年にハイデガーとの関係について語ったインタビューの内容を紹介してきた。両者の関係については、これまでもっぱらハイデガーがフライブルク大学の学長時代に書いたバウムガルテンの所見だけが、ハイデガーの性格の劣悪さを示すものとして取り上げられてきた。 ただ拙稿でも強調したように、バウムガルテンはバウムガルテンで相当くせの強い人物であった。彼は過去のしがらみや思想的一貫性などに一切囚われることなく、自身のすぐれた知的能力や文化的洗練をフルに駆使して、その時々の状況において自分に役立つと見込んだ有力者のふところにもぐり込む類まれな能力をもっていた。 そもそも私がハイデガーの研究をとおしてバウムガルテン所見を知ったときに感じた疑問が、もともとマックス・ヴェーバーのサークルに属しており、アメリカのプラグマティズムの研究者だったバウムガルテンが、なぜハイデガーのもとで教授資格を取ろうとし、またハイデガーもそれを受け入れたのかということだった。ヴェーバーは言うまでもなく社会学の巨頭であり、主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は20世紀ドイツの思想書としては、その知名度においてハイデガーの『存在と時間』と双璧をなしている。また日本でも非常に人気があり、研究が盛んなこともハイデガーとよく似ている。 もっとも学問的には、両者は水と油という印象をもつ人が多いだろう。ヴェーバーはハイデガーが世に出る前に亡くなっているので、彼のハイデガー評は知る由もない。しかしハイデガーがヴェーバーの学問を浅薄なものだと軽んじていたことは明らかである。それだけにヴェーバーの知識人サークルに出自をもつバウムガルテンがハイデガーの弟子になっていることが、当初はあまりしっくりこなかった。 ハイデガーはバウムガルテンについての所見で、彼のことを「その血筋からしても、またその知的態度からみても、マックス・ヴェーバーを中心とする自由民主主義的なハイデルベルクの知識人サークルの出」だと評していた。ハイデガーはこう述べることで、バウムガルテンがナチズムと政治的に相いれない存在であることに注意を促し、ナチス教官同盟と突撃隊への加入を阻止しようとしたのである。そしてハイデガー自身ももちろん、ハイデルベルクの知識人サークルを自分と学問的に異質な存在だと見なしていた。 私自身、こうしたハイデガーのヴェーバー評価に影響されて、ヴェーバーの仕事には長らく興味がもてなかった。私がはじめてヴェーバーとまじめに取り組んだのは、2020年に雑誌『現代思想』のヴェーバー没後100周年特集号にヴェーバーとハイデガーの関係についての論考を依頼されたときだった[1]。その執筆のためにヴェーバーの『職業としての学問』を読んでみると、1920年代のハイデガーの哲学が意識的にヴェーバーの学問論の向こうを張っていることが見えてきた。 2020年3月に刊行した拙著『ハイデガーの超‐政治』において、私はハイデガーの思索が20世紀初頭にドイツの若者たちに大きな影響を与えた青年運動、学生運動の思想的基礎づけとして遂行されていることを強調した。当時の大学生は学問が専門分化し、そのことによって「生から疎遠」となっていることを厳しく批判していた。彼らは返す刀で、学問が生にとって意義あるものとなること、「フォルク(民族、国民)」にとって有用になることを求めたのである。ハイデガーの「存在への問い」はこうした学生たちの要求に正面から応えるものだった。つまりハイデガーは既存の学問において隠蔽されている事物の真の「存在」をあらわにし、そうした「存在」を「フォルク」共同体の基礎と位置づけたのだった。ハイデガーが1920年代の早い時期から学生のあいだで異例の人気を誇っていたのも、彼らがハイデガーの思索のうちに自分たちの求めているものを何らかの仕方で感じ取ったからであろう。 こうしたある種、反知性主義的な「目覚めた」学生たちの多くはやがて「フォルク」の刷新を唱えるナチスに惹きつけられ、大学におけるナチ運動の先兵となっていく。こうしてドイツの各大学の自治会は、ナチスが政権を掌握する以前からナチス系の学生によって支配されることとなった。そしてナチスが政権を獲得したとき、学生たちは自分たちが以前から求めてきた大学改革の実現を要求し、それまで大学運営を牛耳っていた正教授たちを圧倒した。フライブルク大学において政治的に急進化した学生への対応に苦慮した正教授たちが、学生を懐柔できる存在として白羽の矢を立てたのがハイデガーであった。こうしてハイデガーは43歳という異例の若さで学長に選出されたのである。 このような学生たちの反知性主義的な動向を見て取って、その危険性に対して早くから警告を発していたのがマックス・ヴェーバーであった。彼の小著『職業としての学問』は1917年に自由学生同盟という有力な学生団体に招かれてミュンヘンで行った講演がもとになっている。その内容は干からびた学問に代わる「体験」を求め、教師に「指導者」、「予言者」であることを要求する学生たちに対して、学問の専門分化は「脱魔術化」を本質とする近代文明の宿命であり、それを雄々しく受け入れるべきであることを教え諭すものだった。 その講演でヴェーバーは当時の学生たちにはびこっていた指導者待望に次のように冷や水を浴びせかけている。 満堂の学生諸君!諸君はこのようにわれわれに指導者としての性質をもとめて講義に出席される。だが、そのさい諸君は、百人の教師のなかのすくなくとも九十九人は人生におけるフットボールの先生ではないということ、いな、およそいかなる人生問題についても「指導者」であることを許されていないということ、を忘れておられる。考えてもみられよ、人間の価値はなにも指導者としての性質をもつかどうかできまるわけではない。また、それはともかくとしても、ある人を偉い学者や大学教授たらしめる性質は、かれを実際生活上の、なかんずく政治上の指導者たらしめる性質とは違うのである。それに、この指導者としての性質をもつかもたないかはまったく偶然によることなのであって、もし教壇に立つ人すべてが学生たちの無理な期待にこたえて指導者としての性質をはたらかそうなどと考えたならば、それはきわめて憂慮すべきことである。だが、それ以上に憂慮すべきは、教室で指導者ぶることが一般に大学教授に放任されているばあいである。なぜなら、自分自身を指導者だと思っている人ほど実際にはそうでないのが普通であり、また教壇に立つ身としては、自分が実際に指導者であるかどうかを証明すべきいかなる手段も与えられていないからである。[2] このヴェーバーの警告を学生たちは相手にしなかった。第一次世界大戦の敗北後、ドイツの学生は祖国の窮状を憂いつつ指導者への待望をますます強め、政治的にも急進化していった。このことと軌を一にして、ヴェーバーの自由主義的な学問論はむしろ学生たちに唾棄されるものとなってしまったのだ。 こうしたなか、まさに指導者として祭り上げられたのがハイデガーであった。ハイデガーがいかに学生たちの信望を集めていたかは、彼が1930年にベルリン大学の招聘を断り、フライブルク大学に残留する決断をしたとき、多くの学生が彼の自宅にまで松明行列を作って押し寄せ、感謝を表明した出来事に典型的に示されている。少々長くなるが、ハイデガー全集第16巻の補遺にも収録された、その出来事を報じる当時の新聞記事の一部を見てみることにしよう。 夜9時、ツェーリンゲン、市電の終着駅。すでに暗くなっている。群れを作った学生たちが立って待っている。市電が着くごとに数は新たに増えていき、すでに数百人に達している。ライトがきらりと光り、トラックのがたがたいう音が聞こえてくる。突拍子もない積荷、バイオリンやチェロ、そして譜面台をもった楽士たち。――松明に点火し、行進開始。トラックが動き始め、やっとの思いでレーテブック通りを登り、止まる。四七番地はどこだ。暗闇を人影が通り過ぎ、楽器と譜面台を引きずっていく。「ここだ。」彼らは前庭をそっと通り抜け、家を回り込み、足音を忍ばせるように爪先立ちになり、前庭をこっそり歩いて通り抜け、家を一回りしてテラスによじ登り、明かりを点ける。音楽同好会の25人の楽士たちが立っている。アイネ・クライネ・ナハトムジーク。――長い行列がちらつく明かりとともに草地を通り抜けていく。この家の裏のくぼ地で行列は立ち止まる。ハイデガー、万歳、万歳、万歳!こだまが反響する。――ますます多くの人々が夜中の騒ぎを見ようと、通りでひしめきあっている。やってくるのは松明をもった何百人もの学生たち。彼らは庭へと移動し、ハイデガーの家の裏で集合する。ハイデガーはバルコニーに立っている。グーリット教授が指揮する。ヘンデル。25人の弦楽器奏者が演奏する、夜中に松明の明かりのもとで。茂みから歌声が響いてくる。誰かが言う、何もかもがいつもとはまったく違う、と。それぐらい荘厳で、それくらい幻想的だ。偉大な学者は答え、誓う。この夜はすべての人たちのものだ。そしてふたたび楽士たちが演奏し、茂みから歌が聞こえる。やがて松明は消え、闇と沈黙のなかに人影は消え去っていく。1930年5月28日水曜日の出来事である。/学生たちはハイデガーに敬意を表し、彼に対する信仰を告白した。ハイデガーはベルリンに招聘されたが、彼は断った。四千人の学生が、ハイデガーが留まることを願い、そして彼は留まった。三学期前に彼は着任した。彼は哲学について話したのではなく、彼自身が哲学していた。彼は教えたのではなく、説教し、要求したのである。彼はあらためて自分を売り込む必要などなかった。皆、彼の言うことを最初の瞬間から聴いたのである。[3] この引用テクストで、学生たちはハイデガーに対する「信仰を告白し」、ハイデガーは「教えたのではなく、説教し、要求したのである」と言われている。彼は紛れもなく指導者として君臨していた。 ヴェーバーからすると、これは大学教員にあるまじきことであった。彼によると「学問がこんにち専門的に従事されるべき『職業』としてもろもろの事実的関連の自覚および認識を役目とするものであり、したがってそれは救いや啓示をもたらす占術者や予言者の贈りものや世界の意味に関する賢人や哲学者の瞑想の産物ではないということは、もとよりこんにちの歴史的状況の不可避的事実であって、われわれは自己に忠実であるかぎりこれを否定することはできない」[4]。こうしてヴェーバーは教師が指導者としてふるまうことは、教室において自分の主観的な価値判断を押しつけないという教師としての知的廉直の徳に反することだと厳しく非難する。 ハイデガーはこのヴェーバーの禁をあからさまに破っている。そしてその後、「学長」という大学の指導者に祭り上げられて、その任に堪えられず自滅していくのである。学者が指導者ぶることの危うさを指摘する、先ほど引用したヴェーバーのテクストは、まるでこうした事態を見通していたかのようである。 もちろんハイデガーも何の根拠もなく、ただいたずらに指導者を気取っていたわけではない。今日の実証的学問が単なる「事実的関連」以上のものを捉えられないことについては、ハイデガーもヴェーバーに異論を唱えないだろう。しかしハイデガーは「存在への問い」において、そうした実証的学問とはまったく異なる「知」があることを唱えていた。それが「存在」についての知にほかならない。「存在」とはわれわれが意のままにできるものではなく、むしろわれわれが存在するや否やそれに委ねられ、服さねばならないものであり、「フォルクの世界」を形作るものであった(別のところでも述べたように[5]、これは結局フォルクを規定する「風土的なもの」を捉えている)。 ハイデガーは西洋哲学やそこから派生した近代の実証的学問において隠蔽されている「存在」に開かれることを学生たちに求めていた。現にハイデガーは上掲の新聞記事の続きの箇所に記録されている学生に向けたスピーチで「現代においては客観的で普遍的拘束力をもつ認識や力という支えはわれわれにはまったく欠けている」としたうえで、「今日われわれに残された、支えを獲得する唯一の方法」は「現存在のただなかで身を持すること」だと述べている。そしてこのように「現存在のただなかで身を持すること」を目指すことこそが学生に求められた「闘い」であると檄を飛ばしている[6]。この「現存在のただなかで身を持すること」とは、「存在」に対して身を晒し、それに耐え抜くことにほかならない。ハイデガーは今日の実証的学問がわれわれを拘束する力を失っていることを前提として、真の拘束力をもつものとしての「存在」に開かれることを学生たちに求めたのだった。 このようにハイデガーの哲学はヴェーバーの学問論を明確に意識しつつ、それを「存在」についての知によって乗り越えようとするものであった。こうしたハイデガーとヴェーバーの学問論的な対立関係を考慮すれば、ヴェーバーの知識人サークルのなかで育ったバウムガルテンがハイデガーに接近するのは露骨な「転向」と見なさざるをえない。バウムガルテンは例のごとく鋭敏に、時代の流れは今やハイデガーの側にあると見て取ったのだろう。 こうした宗旨替えがごく無造作にできてしまうのがバウムガルテンらしいところである。ただその分、ハイデガーに対する帰依は表面的なものでしかなかったようだ。ハイデガーの洗練されていないふるまいに対する侮蔑の感情を抑えきれず、過度に嘲弄的な態度を取っているのも、バウムガルテンがハイデガーに全面的に信服していなかったことの表れであろう。 バウムガルテンはハイデガーから破門されたのち、さらにナチズムそのものに接近していく。そこではヴェーバーの知識人サークルという自身の出自は都合の悪いもの、できる限り隠さねばならないものだった。所見でハイデガーがその点を指摘しているのは、そうしたバウムガルテンの弱みを突いているのである。 前回の雑記で、バウムガルテンがナチ体制下でプラグマティズムをどのように売り込んだかについて、ハンス=ヨアキム・ダームスの論文「第三帝国におけるプラグマティズム ハイデガーとバウムガルテン事件」[7]に即して紹介した。同論文によると、バウムガルテンが1936年に刊行したプラグマティズムに関する研究書『アメリカ的共同体の精神的基礎』の第1巻は、プラグマティストの精神的な先駆者としてベンジャミン・フランクリンに光を当てたものだった。バウムガルテンは同巻において、フランクリンのプロテスタント的禁欲をアメリカ資本主義の興隆に寄与したと主張するヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の有名な議論をフランクリンの伝記に依拠して論駁しているという(段落49)。 バウムガルテンはこのように公然とヴェーバーを批判することによって、ハイデガーの告発に対して自身の「潔白」を証明し、おのれの学問がナチ体制と矛盾しないことを示そうとしたのであろう。ところがバウムガルテンは戦後になると、今度はナチス体制の協力者から、マックス・ヴェーバー思想の紹介者へと転身を遂げる。そして非ナチ化の審査によってハイデガーのように公職停止処分を受けることもなく、マンハイム商科大学に正教授のポストを得た。なんという見事な立ち回りであろうか。 逆にハイデガーは第二次世界大戦後も、基本的に自分の思想的立場を変えることはなかった。大きく変わったのは、大学のポストを奪われて、かつて彼を取り巻いていた多くの若き信奉者がいなくなったことだけだ。ハイデガーはかつての指導者気取りが災いして、今日では若者をナチズムに導いた危険な哲学者というイメージを多くの人がもつようになった。 結局、ヴェーバーはハイデガーに勝利を収めたのであろうか。それともハイデガーの蹉跌にもかかわらず、彼の思索の意義はなお失われていないと見るべきだろうか。私はハイデガーの研究者としてもちろん後者の立場を取っている。しかし他方で、私は実証的学問を超える知を安易に振りかざす危険に対するヴェーバーの警告を肝に銘じるべきだと考えることにおいて人後に落ちない者でもあることも最後に付言しておきたい。 [1] 拙稿「ヴェーバーとハイデガー―近代批判の世代間相違―」『現代思想 2020年12月号 特集マックス・ウェーバー―没後100年―』青土社、153~166頁。 [2] マックス・ウェーバー『職業としての学問』尾高邦男訳、岩波文庫、1993年、59頁以下。 [3] 『フライブルク新聞』第147号、1930年5月30日、『ハイデガー全集 第16巻』ヴィットリオ・クロスターマン社、2000年、757頁。 [4] ウェーバー『職業としての学問』、65頁以下。 [5] 轟孝夫「ナチスも「正しく導ける」と思っていた!?……ハイデガーが理想とした、「みんなのための学問」とは」講談社現代ビジネス、2023年8月23日。https://gendai.media/articles/-/115127 [6] 『ハイデガー全集 第16巻』、758頁。 [7] Hans-Joachim Dahms, Pragmatism in the Third Reich: Heidegger and the Baumgarten Case, in: European Journal of Pragmatism and American Philosophy XI-1, 2019. 本稿では以下のWeb版を参照した。https://journals.openedition.org/ejpap/1524 このWeb版には各段落に番号が付されている。この論文の参照個所を指示するときは、段落番号を記載する。 轟 孝夫 経歴 1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)、『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)、『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。
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