月刊傍流堂

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 月刊傍流堂
  4. 第4回 邪馬台国の政治体制

第4回 邪馬台国の政治体制

 長く続いた福岡平野を都とした奴国時代は倭国大乱により終焉を迎え、代わって筑紫平野に邪馬台国が誕生しました、と言っても奴国や伊都国、投馬国などが消滅したわけではありません。もちろん大乱時の奴国王は失脚したことが想像されますが、邪馬台国の北にある諸国は属国として邪馬台国を支えていくことになるのです。戦勝国の邪馬台国は圧倒的に強かったわけではなく、戦争を収めるためには卑弥呼しかいないよね、と皆から女王に推されて誕生した国です。魏志倭人伝の一部を再掲します。 

 卑弥呼は女王になったとき既に年が長大でした。年が長大とは何歳ごろを指しているのかはわかりません。しかし、卑弥呼は180年代に女王となり、亡くなるのは247~248年ですから、年が長大とは20代はじめくらいに考えないと長寿過ぎます。卑弥呼の後継者の台与は13歳で女王になりますから、それに比べれば年は長大です。

 神道では女王卑弥呼でさえも、大自然に宿る神々に鎮まっていただくよう奉仕する巫女(みこ)に過ぎないように思えます。卑弥呼のもとで皆が自然に身に付けた所作で相和し一心不乱に祈る姿は、異国人から見ると「妖をもって衆を惑わす」ように見えたのではないでしょうか。

 卑弥呼は亡くなるまで夫はおらず、弟が政治を補佐していました。邪馬台国は宮室を備え、宮室は、見張台や城柵があり兵士が守っていました。「民は租賦を納める」とありますので、この兵士は租税で雇われた専属の兵士です。農民が臨時に兵士に駆り出されるのとは違って、日ごろから訓練を積んでいる強い兵士です。「城柵」は尖らせた木の枝を外に向けて並べた逆茂木(さかもぎ)や、環濠を巡らせて敵の侵入を防ぐ防御施設だったと考えられます。筑紫平野の吉野ケ里遺跡や平塚川添遺跡には城柵が見られますが、奈良の纏向遺跡には防御施設がまったく見当たりません。纏向遺跡は戦争が終わった後に繫栄した平和都市ということであり、この点でも纏向遺跡は邪馬台国ではないことを魏志倭人伝が教えてくれます。邪馬台国は卑弥呼時代に南に位置する狗奴国との戦争を控えた国であり平和都市ではないのです。

 そして邪馬台国時代になると、甘木市(現、朝倉市)の栗山遺跡、福岡市西区の宮の前遺跡、福岡市東区の唐原遺跡の3遺跡で出土し、これらも北部九州に限られ、奈良だけでなく近畿まで範囲を広げても絹製品の出土は皆無(ゼロ)です。このため養蚕と絹製品は、北部九州にあった邪馬台国が門外不出の産業、文化にしていたと考えられるのです。

 邪馬台国奈良説で考えると、属国である奴国で織った絹製品を魏の国に贈って、魏の国からもらった絹製品は属国に配り、奈良の卑弥呼は絹をまとわずに麻布で我慢したことになってしまいます。ところが4世紀の古墳時代になると一転して、奈良県天理市の大和天神山古墳や奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳などからも絹製品が出土し始めるのです。これも鉄製品と同じ理由で、九州の邪馬台国勢力が奈良へと進出して大和朝廷を興したため、門外不出だった絹製品が奈良へと東伝したと考えられます。布目氏は「邪馬台国の所在地としては、絹を出した遺跡の現時点での分布から見る限り、北九州(筆者注:北部九州のこと)にあった公算が大きいといえるだろう」とはっきり述べています。

                                   (図版作成:うさんぽデザイン/USA)


[1] 本図は、『季刊邪馬台国』77号(梓書院、2002年)掲載の図をもとに作成したものであり、同誌掲載図は川越哲志編『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年)に基づいて作成されたものです。


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事