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第6回 鉛同位体比でわかる邪馬台国の位置

▲写真4 滋賀県野洲市出土の近畿式銅鐸

 その他に領域Aの青銅器として出雲の荒神谷遺跡から出土した銅矛16個と銅剣358本などがあります。

 領域Aの青銅器が作られ始める180年頃には「倭国大乱」が数年間続いた後に卑弥呼を共立することで終結したことが後漢書や魏志倭人伝などからわかります。この大乱は第3回で書いたとおり、現在の地名で言えば福岡市や春日市、那珂川町などを拠点として糸島市を含む「奴国連合」と、朝倉市を拠点として神埼市を含む筑紫平野の「新興勢力」との戦争で、筑紫平野に「邪馬台国」が成立して終結しました。その後の邪馬台国は247年か248年に卑弥呼が亡くなったため、一族の台与(とよ)が引き継ぎ、さらに続いて280年頃まで約100年間にわたって栄えたと思われます。

 領域Aの青銅器については、北部九州では魏志倭人伝に書かれている鏡や矛が大量に出土しますが、近畿や出雲では魏志倭人伝にも、後の大和朝廷が編纂した記紀にも一言も書かれていない銅鐸が大量に出土するのです。しかも、銅鐸の出土の中心は瀬戸内海沿岸や東海地方であり、奈良からの出土数は少ないのです。

 最後に領域B(華中・華南産)の青銅器はおよそ300年以降に作られたと考えられます。そのように考えられる理由は、邪馬台国が朝貢したのは華北の魏(220~265年)の国であり、次の王朝である西晋(265~316年)の都は、初めは華北の洛陽にありましたが、311年に長江沿いの華南の建業(今の南京)に移り、西晋の次の東晋(317~420年)も引き続き建業(ただし建康と改称)に都を置いたからです。300年以降あるいはもっと後かも知れませんが、華北に代わって領域Bの華南の鉛や銅が輸入されるようになったと考えると整合が取れるのです。

 出雲や近畿、東海で盛行していた領域Aの銅鐸は、出雲では270年頃に、近畿や東海では少し遅れて280年頃に、突如として一斉に町はずれに埋められてしまいます。そして銅鐸に代わって、領域Bでできた三角縁神獣鏡を前方後円墳に埋納する文化が奈良から始まり、九州から福島県まで広く波及していくのです。このような事情の詳細については後の回で説明しますが、九州の邪馬台国勢力が、270年頃に出雲を完全に併合し、280年頃には奈良へも進出して大和朝廷が誕生したための変化であると考えると最も簡明に説明できるのです。

 * * *

 改めて、邪馬台国問題を論ずるときの注意点を書きます。邪馬台国北部九州説では伊都国などの属国も近接していて同じ文化圏にあるため、属国には含まれない奈良のことを考慮する必要はありません。しかし邪馬台国奈良説では、邪馬台国が監視官である一大率を現在の福岡県糸島市の伊都国に常駐させていたことから、属国であるはずの北部九州の国力や文化などと整合が取れているか厳しくチェックする必要があるのです。

 巨大前方後円墳である箸墓古墳の築造時期を、卑弥呼の死去に合わせて勝手に250年頃に繰り上げたり、纏向遺跡からベニバナが出土した、木製仮面が出土した、などと奈良のことだけを考える訳にはいかないのです。しかし、邪馬台国奈良説の考古学者の多くが九州の遺跡にはほとんど関心を示さずに、纏向遺跡は邪馬台国であるとマスコミを通じて宣伝しています。私は20年ほど前に奴国の王都のあった(と誰もが認める)福岡県春日市で開催された古代史のシンポジウムに出かけました。その時に、邪馬台国奈良説を唱える考古学者が「今回初めて須玖岡本遺跡に来て鏡などの出土物を拝見しました」と発言するのをはっきりと聞きました。この考古学者は北部九州の遺跡を見ずに邪馬台国を語ってきたのです。

 考古学に何も権威を持たない幼子のような私だからこそ、「王様たちは裸だよ!」と見たままを叫んでしまうのです。裸の王様たちはイエスマンたちに持ち上げられて、今日も気持ち良さそうに大本営発表を繰り返しているのです。そろそろ、日本の古代史を謎のまま放置しないで前進させませんか。

 おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな (松尾芭蕉)

                             (図版作成:うさんぽデザイン/USA)


[1] 本図は、『季刊邪馬台国』60号(梓書院、1996年)掲載の図をもとに作成したものです。


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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