第6回 鉛同位体比でわかる邪馬台国の位置
『季刊邪馬台国』第60号、第61号(梓書院)に掲載された馬淵久夫氏らによる鉛同位体比の分析結果(第5回の図3[1]=再掲)を、安本美典氏の掲載論文を参考として、私なりに解釈すると以下のようになります。 直線L(朝鮮半島産)にのる青銅器は、出土する遺跡全体の考古学の知見から、紀元前100年頃から倭国大乱の前の180年頃にかけて、大陸や朝鮮半島から運ばれた青銅器と、それと同じ原料で作られた国産品と考えられます。細形銅剣は、福岡県の早良平野にある吉武高木遺跡から9本出土する他に、筑前町(旧夜須町)峰遺跡や、筑紫野市西小田遺跡などから出土しています。細形銅矛は北九州市馬場山遺跡から、細形銅戈は吉武高木遺跡や佐賀県北茂安町北尾遺跡から、多鈕細文鏡は吉武高木遺跡や山口県梶栗ノ浜の他、大阪府柏原市大県や奈良県御所市名柄からも出土しています。また、音を出すための銅鐸は、朝鮮半島製で高さ数センチの小型銅鐸が福岡市板付遺跡などから出土し、高さ20センチから50センチくらいの中型銅鐸が出雲荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から出土しています。 このように大阪府と奈良県からは多鈕細文鏡が1面ずつ出土しているだけで、北部九州や出雲の青銅器はここに紹介できなかったものがたくさんあり、数の上で近畿を圧倒しています。邪馬台国が誕生する基盤が整えられた時代の先進地域は北部九州と出雲であり、近畿は後進地域だったのです。 次に領域A(魏の都のあった華北産)の青銅器は、出土する遺跡全体の考古学の知見から、180年頃~300年頃のおおむね邪馬台国時代に運ばれた青銅器と、それと同じ原料で作られた国産品と考えられます。主に前漢鏡が福岡県春日市須玖岡本遺跡や糸島市三雲遺跡、糸島市平原遺跡、飯塚市立岩遺跡、筑前市峰遺跡などの北部九州の甕棺(かめかん)から出土しています。小形仿製鏡は後漢式鏡を模した小形の国産鏡で、北部九州の邪馬台国時代の墓制である箱式石棺墓から出土するものが多く、福岡県筑前市夜須町八並遺跡や小郡市三沢横熊山遺跡、八女市亀の甲遺跡などから出土しています。なお、北部九州の墓制は、邪馬台国時代になると次第に甕棺墓から箱式石棺墓に変わっていきます。また、広形銅矛や広形銅戈は、長崎県対馬ハロウ遺跡や福岡県那珂川町安徳台遺跡、浮羽町日永遺跡などから出土しています。 銅鐸も領域Aの青銅が使われており、出雲加茂岩倉遺跡からは中型銅鐸が出土していますが、特筆すべきは高さ1メートル前後もある大型銅鐸が近畿から東海地方にかけて大量に出土するのです。大型銅鐸には型式が二種類あり、一つ目は「近畿式銅鐸」と呼ばれ、鈕の頂に双頭渦紋という飾耳が付きます(写真4)。 出土数の多い順に徳島、和歌山、滋賀、兵庫、大阪、奈良となり、奈良の出土数は大阪より少ないのです。二つ目は「三遠式(さんえんしき)銅鐸」と呼ばれて、鈕の頂に飾耳が無く胴に綾杉紋を持ちます。愛知(三河)や静岡(遠江:とおとうみ)を中心に出土しています。近畿式も三遠式も大型銅鐸は、音を出すための内部の舌(ぜつ)が無いものが多いので、領民に音を聞かせるためではなく、権力を誇示するための威信財に変化したと考えられています。 その他に領域Aの青銅器として出雲の荒神谷遺跡から出土した銅矛16個と銅剣358本などがあります。 領域Aの青銅器が作られ始める180年頃には「倭国大乱」が数年間続いた後に卑弥呼を共立することで終結したことが後漢書や魏志倭人伝などからわかります。この大乱は第3回で書いたとおり、現在の地名で言えば福岡市や春日市、那珂川町などを拠点として糸島市を含む「奴国連合」と、朝倉市を拠点として神埼市を含む筑紫平野の「新興勢力」との戦争で、筑紫平野に「邪馬台国」が成立して終結しました。その後の邪馬台国は247年か248年に卑弥呼が亡くなったため、一族の台与(とよ)が引き継ぎ、さらに続いて280年頃まで約100年間にわたって栄えたと思われます。 領域Aの青銅器については、北部九州では魏志倭人伝に書かれている鏡や矛が大量に出土しますが、近畿や出雲では魏志倭人伝にも、後の大和朝廷が編纂した記紀にも一言も書かれていない銅鐸が大量に出土するのです。しかも、銅鐸の出土の中心は瀬戸内海沿岸や東海地方であり、奈良からの出土数は少ないのです。 最後に領域B(華中・華南産)の青銅器はおよそ300年以降に作られたと考えられます。そのように考えられる理由は、邪馬台国が朝貢したのは華北の魏(220~265年)の国であり、次の王朝である西晋(265~316年)の都は、初めは華北の洛陽にありましたが、311年に長江沿いの華南の建業(今の南京)に移り、西晋の次の東晋(317~420年)も引き続き建業(ただし建康と改称)に都を置いたからです。300年以降あるいはもっと後かも知れませんが、華北に代わって領域Bの華南の鉛や銅が輸入されるようになったと考えると整合が取れるのです。 三角縁神獣鏡はすべて領域Bの青銅で作られており、ほとんどの三角縁神獣鏡は前方後円墳から出土します。日本全国で出土した三角縁神獣鏡を合計すると500面以上にもなりますが、中国大陸と朝鮮半島からは唯の1面も出土していません。魏志倭人伝によると卑弥呼が魏の国からもらった鏡は100面ほどであり、このすべてが失われることなく出土して、なお余りあるということはありえないでしょう。三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏の国からもらった鏡と考えずに、4世紀の国産鏡と考えると整合が取れるのです。 出雲や近畿、東海で盛行していた領域Aの銅鐸は、出雲では270年頃に、近畿や東海では少し遅れて280年頃に、突如として一斉に町はずれに埋められてしまいます。そして銅鐸に代わって、領域Bでできた三角縁神獣鏡を前方後円墳に埋納する文化が奈良から始まり、九州から福島県まで広く波及していくのです。このような事情の詳細については後の回で説明しますが、九州の邪馬台国勢力が、270年頃に出雲を完全に併合し、280年頃には奈良へも進出して大和朝廷が誕生したための変化であると考えると最も簡明に説明できるのです。 以上のように、邪馬台国北部九州説によれば、青銅器の鉛同位体比が変化していく様子が無理なく理解できて、こじつけを考える必要がありません。一方、邪馬台国奈良説や三角縁神獣鏡の魏鏡説を採用すると、なぜ邪馬台国時代に領域Aと領域Bの青銅器が混在するのか、なぜ奈良は大型銅鐸文化で属国は鏡や矛文化なのか、なぜ属国の方が先進地域のように見えるのか、などの疑問が次々と湧いてくるのです。奈良説の学者は無理矢理にこじつけを考えていますが、どんなこじつけなのかは馬鹿らしいので書きません。 * * * 邪馬台国奈良説が誤りであることは、数学の背理法をヒントにした方法でも説明できます。背理法とは、最初に証明したいことを否定した仮定を設けて検討を進め、矛盾が生じたらその原因は最初の仮定が誤りだったと考えて、最初に証明したいことが正しかったとする証明法です。この連載で示したいことは「邪馬台国奈良説は誤り」なので、これを否定して「邪馬台国奈良説は正しい」と仮定して検討を進めて、矛盾を探してみます。 邪馬台国奈良説は正しい(すなわち、邪馬台国は奈良であり、他の地域は属国である)と仮定する。 1)邪馬台国が誕生する前の青銅器(直線Lにのる青銅器)は属国である北部九州から大量に出土する。出雲からも銅鐸が多数出土するのに対して、奈良からは多鈕細文鏡が1面出土するのみである。奈良(邪馬台国)の方が属国(九州北部など)よりも後進地域であることになり、矛盾(矛盾1)。 2)邪馬台国時代の青銅器(魏の時代の領域Aの青銅器)は、属国である北部九州からは後漢式鏡などが大量に出土するが、奈良を含む近畿からは後漢式鏡がまったく出土しない。邪馬台国に魏の文化が入ってきていないことになり、矛盾(矛盾2)。 3)三角縁神獣鏡は「領域B」の、魏の次の王朝である華南の西晋や東晋の原料を使って作られている。奈良を中心に全国から三角縁神獣鏡が500面以上出土するが、中国大陸や朝鮮半島からは1面も出土しない。邪馬台国の女王卑弥呼は魏から100面の鏡をもらったが、これを三角縁神獣鏡と考えることは難しく、矛盾(矛盾3)。 4)魏志倭人伝に邪馬台国の兵器は「鉄鏃」とある。また絹織物を魏に贈り、返礼品として魏の絹織物をもらったとある。北部九州からはそれらが大量に出土するのに対し、奈良からは鉄鏃は2つだけ出土し絹織物は皆無である。よって「石鏃」や「銅鏃」で国を守り「麻」で身をまとった奈良の王族が、「鉄鏃」で国を守り「絹」で身をまとった北部九州の王族を従えていたことになる。また邪馬台国は一大率を伊都国に派遣し属国を監視していたはずだが、国力の低い邪馬台国が国力の高い属国を監視していたことになり、矛盾(矛盾4)。 以上により、最初の仮定に無理があると結論できるため、邪馬台国奈良説は誤りである。Q.E.D.(証明終わり)。 改めて、邪馬台国問題を論ずるときの注意点を書きます。邪馬台国北部九州説では伊都国などの属国も近接していて同じ文化圏にあるため、属国には含まれない奈良のことを考慮する必要はありません。しかし邪馬台国奈良説では、邪馬台国が監視官である一大率を現在の福岡県糸島市の伊都国に常駐させていたことから、属国であるはずの北部九州の国力や文化などと整合が取れているか厳しくチェックする必要があるのです。 巨大前方後円墳である箸墓古墳の築造時期を、卑弥呼の死去に合わせて勝手に250年頃に繰り上げたり、纏向遺跡からベニバナが出土した、木製仮面が出土した、などと奈良のことだけを考える訳にはいかないのです。しかし、邪馬台国奈良説の考古学者の多くが九州の遺跡にはほとんど関心を示さずに、纏向遺跡は邪馬台国であるとマスコミを通じて宣伝しています。私は20年ほど前に奴国の王都のあった(と誰もが認める)福岡県春日市で開催された古代史のシンポジウムに出かけました。その時に、邪馬台国奈良説を唱える考古学者が「今回初めて須玖岡本遺跡に来て鏡などの出土物を拝見しました」と発言するのをはっきりと聞きました。この考古学者は北部九州の遺跡を見ずに邪馬台国を語ってきたのです。 考古学に何も権威を持たない幼子のような私だからこそ、「王様たちは裸だよ!」と見たままを叫んでしまうのです。裸の王様たちはイエスマンたちに持ち上げられて、今日も気持ち良さそうに大本営発表を繰り返しているのです。そろそろ、日本の古代史を謎のまま放置しないで前進させませんか。 おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな (松尾芭蕉) (図版作成:うさんぽデザイン/USA) [1] 本図は、『季刊邪馬台国』60号(梓書院、1996年)掲載の図をもとに作成したものです。 高橋 永寿(たかはし えいじゅ) 1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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