第14回 野を駈ける光
大雪山系の石狩岳に端を発した石狩川は一旦は北上し、愛別町からは小さな蛇行を繰り返しながら石狩湾へと南下していく。一方、支笏湖の東に位置する小漁岳を水源とする豊平川は定山渓で東に向きを変え、硬石山の麓で北へと転じ、そうして自身より遥かに長い経路をたどってきた石狩川の大きな流れに加わる。その合流地点に広がる扇状地の様子を、かつてアイヌの人々はサッ・ポロ・ペツ(乾いた大きな川)と呼び、いまや200万ほどの人が住む大都市となった。日本海まであと10キロと少しだが、潮の香りはここまで届かない。北には増毛山地、西には手稲山、南は馬追丘陵、東は夕張山地と四方八方のほとんどが山に囲まれているからだ。もっとも、京都のような盆地といった風情はまるでない。それはなぜか。まず、空気の問題。清濁というより、湿度の差だ。風の吹き抜けがいいせいか、ポプラの木々は常に葉をゆらしている。しかし、やはり夏より冬。日本海側気候の影響で一層強く吹く。あるいは、山の形が違うだろう。京都や奈良は丸みを帯びた山が多く、稜線は緩やか。一方、札幌のとりわけ東側の山々は綺麗な三角形が重なり合っており、いかにも律儀な印象を受ける。そんな形状が風通しを良くしているのか。律儀といえば、町並みもそう。札幌は京都にならい、その中心部は明治の初め、碁盤の目状に区画整理された。が、南東には豊平川が斜めに突き抜け、西北には北海道大学の広大な敷地があるため、京都のような整然としたつくりには至らなかった。もっとも、そこに北の大地のおおらかさを感じないと言えば嘘になろう。街角のあちこちに原生林の息吹が流れ込み、カッコウ、シジュウカラ、アカゲラ、ダイサギなどの鳥が飛び交う。そして、どちらかといえばポプラよりもイチョウで知られる北海道大学の傍らにコバンザメのようにぴったりと張り付いているのが、札幌競馬場である。 サラブレッドの毛色は八種類。鹿毛が最も多く、黒鹿毛、青鹿毛、青毛、芦毛、栗毛、栃栗毛…そして僅かながら白毛が存在する。競走能力には無関係と言われているが、戦時中には〝目立つ〟という観点で芦毛や白毛は用無し扱いを受けた。その名残のせいか、それとも他馬から奇異な目で見られることによって気性が荒くなりがちなせいか、長らく牧場関係者の間で忌み嫌われきた経緯がある。しかしながら、幸か不幸か、戦争を知らない者が大半となった今、むしろ芦毛や白毛の馬はたとえ棚ぼたでもビッグレースを勝ってしまえば、ぬいぐるみなどのグッズが手際良く作られ、速やかに時代をときめくヒーロー、ヒロインとなっていく。普通の鹿毛ならこうも簡単には事は運ばない。 僕のヒーローといえば、往々にして栗毛や栃栗毛だった。サイレンススズカ、マヤノトップガン、グラスワンダー…。もともと明快な色彩を好む性分がその理由かもしれないが、競馬に興味を持ち始めた17の冬、1頭の栃栗毛に魅せられたのだ。1991年1月の京成杯。若き3歳のマイル戦だ。栃栗毛のダイナマイトダディと栗毛のビッグファイトの2強対決。僕が贔屓にしていたのは前者のほう。名前もさることながら、見た目がド派手。やや渋みがかった栗色と四白流星(四本とも足元が白色、かつ両目の間に白色の線が走っている)のコントラストは誰しもが〝貴公子〟と形容したくなるような眩さだ。デビューから3連勝を飾り、早くに頭角を現していたライバルをあっさりと交わしたその駿足ぶりは、栗毛の偉大なる父サクラユタカオーを彷彿させるもの。しかし、好事魔多し。レース後に右前膝骨折が判明し、その後も古傷に悩まされ続けた。速すぎたゆえの早すぎた引退。サイレンススズカと同じく、美と才に恵まれたDNAを後世に繋ぐことは叶わなかった。 ―――― シートベルト着用ランプが点灯されるや、徐々に高度を下げ、亜成層圏から雲層へと潜り込む。やや機体が揺れ、これまで幾度となく経験したろうに、またしても雲海突破への緊張感に手のひらが熱くなる。しばしの沈黙の後、再び光が訪れた。雲の上の冷たく冴えた青い光ではなく、緑の光が、あらゆる種類の緑の光が氾濫し始め、小さな窓から僕を照らし出す。 ―――― 北の風土が僕を呼んだ。 誘惑の痛みは、たぶん風土のあらい肌ざわりが、ぼくに眼ざめをうながすためであった。 植物も、動物も、人間も無駄な飾りがいらないはずであった。それらは無垢であることによって、風や雪の抵抗をはねかえし、自分たちの生命の強さを、あらあらしく発散してくるにちがいなかった。馬はその象徴だった。(虫明亜呂無『野を駈ける光』ちくま文庫、48ページ) 昭和の時代を駆け抜けた虫明亜呂無もまた北の地に引き寄せられた一人であった。1972年に制作された記録映画「札幌オリンピック」の脚本を手掛けたが、何より競馬に取りつかれた者にとって北海道は特別の地である。サラブレッドのほとんどがここで生まれ、大きくなり、そして戻ってくる。いや、戻ってこれるのは、牝馬はともかく牡馬は1割にも満たない。それゆえ、サラブレッドは郷愁に駆られることはなく、刹那的に走り続ける。あるいは、母と暮らした僅か1年の甘い思い出を振り切りながら。僕らは、奇跡的に帰還を果たした王者に会いに行くことができるし、夏の間だけ開かれている函館や札幌の競馬場に足を運ぶこともできる。一貫して自由な身だ。遠くに噴火湾を望む函館競馬場も唯一無二のものがあるが、札幌競馬場で過ごす時間はどこの競馬場とも違う感覚を呼び起こす。北海道といえば札幌である。 映画評論や文芸批評でも数々の名文を残した虫明だが、少なくとも僕にとってはスポーツへの興味をより一層、掻き立てた人物であり、彼の文章はいまだに色あせない、いまだに他の追随を許さない。ある意味、我が国のスポーツ批評は虫明で始まり、そして虫明で終わった…と言えるのではないか。スポーツに潜むドラマや数字を持ち出すのは別に構わない。それはそれで見どころはあろうし、物事を多角的に捉えようとする気勢も必要だ。しかし、スポーツの本質から目をそらしてしまう人のなんて多いことか。では、スポーツの本質とは何か。それは人間の運動に他ならない。 人は複雑なゲームの構成のなかから、動作という、いかにも肉体的な、単純な美の要素をみつけだそうとしていた。複雑に変化し、たえず流動しつづける人間のありようのかたわらにならべてみて、愛よりも永遠で、信仰よりも強力な作業をおこなう何かを球場の内にもとめようとしていた。それは喧しい騒音をたてて衝突し、歪み、ふくらみ、変転する球場以外の場のできごとにくらべて、はるかに、澄明で鋭角な切り口をのぞかせ、いかにもそれにたずさわる人に献身の美徳を感知させずにはおかないできごとがつづくように思われた。(虫明亜呂無『むしろ幻想が明快なのである』ちくま文庫、80ページ) 「昭和14年は多感な年であった。私は、ようやく、心身ともに少年らしくなろうとしていた」と始まる『名選手の系譜――野球について』の一節である。その年の夏、新宿のニュース専門の映画館で職業野球選手のプレーを映した短編映画を観た衝撃を思い返しながら、改めて野球の、野球を観戦する醍醐味と意味を問いただした。そこには野球というカテゴリーを超えてスポーツ、いや、人々の生活の理想、社会のあり方が描かれている。もう少し読んでみよう。 人はつつましく、おのれの芸によって、生活を営む。巷にくれば憩いあり。人みな我をなぐさめて、煩悩即滅をうたうなり。巷にはそうした芸をかかげる職業がひっそりと息づいている。大げさな身ぶりもなく、誇張された感情表現もない。ただ彼自身の生活が芸に要約されるために、他人の芸を理解し、芸をとおして、他人の個性や、生活感情を把握できるくらしが横に縦につらなっている。そのもっとも通俗で、容易に理解へと至る契機が、定められたルールにしたがい、肉体と神経と思考が絶対に一致せねば成立せぬスポーツ、たとえば職業野球のなかにみいだされるのではないか。(同書82ページ) いや、むしろ、虫明の存在感を際立たせているのは女性の性と生理についての理解の深さだ。戦前戦中の封建的な風潮が色濃く残る時分、スポーツのみならず映画や舞台の言説空間において女性への分析=眼差しが希薄かつ短慮だったことに非難はしまいが、彼の卓越性にはいくら賛辞しても言い尽くすことはできない。第11回冬季オリンピック札幌大会のスピードスケート女子三千メートル優勝者スティーン・バース・カイザー(33歳の主婦)と、女子千、千五百、三千メートルのそれぞれ二位、三位、三位だったアッチェ・ケレン・デルストラ(32歳の主婦、3人の子供がいる)を巡るエッセイ、『あの女にだけは』にこんな記述がある。 千、千五百、二千と滑ってゆく彼女デルストラの左腕の腰を押さえている力、右腕の反動をとるための空気を斬る角度、よく張った肩、なによりも、均整のみごとにとれた股と膝とすねの三つの線の簡潔な緊張と迫力を見ながら、僕はなぜかベイルマンの映画に出てくる女たちの姿を思った……………カイザーやデルストラのスケートはそんな女性の旺盛な生命力とその背後にある孤独感を連想させた。彼女らの毎日の食事のありさまや労働や、夜の濃さがしのばれた。これは独身の女性では滑れない滑りかただと僕は感嘆した。独身女性にはない潤沢さと、豊饒が心にくいまでに彼女たちのスケートに発揮されていた。(『野を駈ける光』140ページ) あるいは、〝回想の女優たち〟とのサブタイトルが付いた『女の足指と電話機』(清流出版)にはおびただしいほどの女性論が展開されている。 女性というものは、男性以上に、一瞬で判断をくだす。自分を大事にするから、思いきりがよいのである。彼女たちは、くどくどと自己弁護をしたりしない。だめなものは、だめだ。なにも思いわずらう必要はないと覚悟し、すみやかに、実行に移していく。僕は最近、女性の最大の魅力は、そのような決意の早さと、決断の潔さにあると思うようになってきた。つまり、女性のほうが、そういう点では、男性よりはるかに、すっきりとして、爽やかなのである。「自分はこの男を愛していた。この男となら、うまくやってゆけるだろう」と、彼女は考えて、生活のすべてを、そのうまくやってゆく方向にむけてゆくために努力をする。が、男性はさまざまな理由で、女性のそのような心情を受けつけない。(同書244ページ) 彼女たちの形而上学は、愛の夢想のひとことにつきる。が、だからこそ、まことに、だからこそ、心意気やダンディズムを尊重する。彼女たちが人生にシラけ、人生に透明な冷淡さを求めるのは彼女たちが心意気やダンディズムを常に心中に復活させたいと切望するからである。そこに、女の主張を発見するからである。愛に執着するゆえに、愛と恋を、やすっぽく扱わないでくれ、と、彼女たちは要求する。彼女たちは、だから、テレビのドラマを軽蔑する。流行歌を拒否する。映画を敬遠する。それらは、男性が勝手に想像した女性しか描きださない。(同94ページ) このような文章を読んで僕は虫明に嫉妬したのである。いつになったらこのようなものを書くことができるのか、と。しかし、いつになっても書ける気配はない。文章の才というより、人生の才に乏しいのだろう。サラブレッドの血統表を眺めるか、野郎どもと酒を酌み交わすか。一方、多くの女性アスリートや女優らと交際していた虫明だが、憎たらしいことに、素晴らしい好敵手にも恵まれていた。僕は寺山修司との対論、『対談競馬論::この絶妙な勝負の美学』(ちくま文庫)を手に取って、さらに嫉妬するのである。 寺山 美しい馬とは何かということを考えると、ぼくは運のいい馬だという感じがする。馬と女は非常によく似ていて、運の悪い女というのはだいたいぼくはきらいなんですよ。運の悪い女はなぜきらいかというと、きれいじゃないからです。運の悪い女のことを〝薄幸の美女〟と言う人があるけれども、ありえるわけがないというのがぼくの意見なんです。つまり〝薄幸〟がその人の美を培っている場合には、その人にとって不幸ということは、ひとつの美容的役割を果たしているのであって、彼女が不幸によって「幸福」になっていることを意味するな。 虫明 しかし競馬の場合には、ぼくは〝薄幸〟論者ですね。いつまでも幸いである馬なんてのは化け物です。競馬も虚構の上になりたっているのだから…。 寺山 ところが運の悪い女と、運の悪い馬というのは、どういうわけか、醜い。「月を眺めて目に涙」なんて娼婦は、髪がきたなかったり、皮膚のつやがわるかったりする。女はいつでも幸福でなければいけない。 それにひきかえ運の悪い男というのは、これはいいんですよね。だから、レースで敗けた馬の中に、しばしば例外的に美が見出されるのは、その馬がオスの時に限る。オスは、知っているんだな。ドストエフスキーではないが「一杯の茶のためには、世界など滅びてもよい」と。 虫明 馬と人間を切りはなしなさい。(同書43ページ) とびっきり感性豊かなやんちゃ坊主を、ひと回り世代が上のクールな大人がたしなめる。とても愉快な光景だ。もっとも、虫明も競馬への、芸術への傾倒ぶりは常軌を逸していると言えなくないが、いずれにせよ、恥ずかしげもなく、惜しみなく、真剣に何かを語り合える関係は幸福そのものだ。 ―――― 新千歳空港に到着した。羽田から早朝の便に乗ってきた中村君が、到着口に立っていた。他の用事でメールのやり取りをしていた3日前、何の気なしに誘ってみたら、二つ返事で快諾。昨年秋、10年ほど続けてきたパティシエの仕事をやめ、今は競走馬ファンドの会社(サラブレッドの所有権利を分割して出資者を募り、賞金を得た際は配当金を支払う組織)に週3日通い、動画作成に取り組んでいるという。「映像に興味を持ち始めて」と説明するが、不惑の年が迫ってきた年齢を踏まえると、何とも頼りない言い分である。どうやら今回も飛行機代を極力ケチったようだが、やはりと言うべきか、金銭的事情は決して満足のいくものではあるまい。競馬が好きなだけでは生きていけないと思うのだが。 もっとも、僕は二十歳の頃から一口馬主(分割されたサラブレッドに出資した者、その行為の総称)に首ったけである。毎年、我が国で生産されるサラブレッドの約半数くらいの、9代前までの先祖が記された血統表(延べ512頭)を丹念に調べ上げ、その後のパフォーマンスから「配合=走力」のカラクリを見い出す…そんな途方もない営みを飽きもせず続け、競走馬の最前基地たるトレーニングセンターで馬を扱う厩務員、調教助手、騎手に取材しつつ、サラブレッド形態学への探求も忘れず、そうして30を越した頃にはサラブレッドの神秘を、レースで走る以前におおよその走力を把握できるようになった。これまで何頭かのG1馬に出資することに成功したが、昨年春、イギリス生まれの1頭のサラブレッドに魅せられ(配合、馬体とも完璧)、そのミスティックレナンと名付けられた栗毛のデビュー戦に立ち会うべく、北の地に戻ってきたのである。 「やっぱり、いい馬ですよね」と中村君。直射日光を全身に浴びても心地よさを感じてしまうほど空気は清々しい。最近は地球温暖化の影響を受け始めているとはいえ、やはり札幌の夏は京都と違う。パドックを周回する馬たちも穏やかな表情だ。「ミスティックレナンだけが外ラチ近くを歩いている。他の馬よりも歩幅が大きいから、みんなと一緒に歩いていると、すぐ前の馬に追い付いてしまう。たんに骨格が大きいだけでなく、四肢の動きもしなやか。全身に無駄がない」。彼に説明をしているというより、まるで自分に言い聞かせているようだ。1年前に想像した通りの成長ぶりにため息がでる。血統は、配合は、正直だ。パドックに入った瞬間はミストのシャワーに驚いていたが、2周目からは落ち着きを取り戻していた。「豊かな感受性と高い学習能力の表れだな」との呟きも彼の耳には届かない。 澄み切った青空にファンファーレが鳴り響いた。芝2000mのスタート地点は4コーナー辺り。1周と少し走ってゴールである。僕らはそのゴール付近で観戦したが、遠くからでも1枠1番に入ったミスティックレナンが真っ先にゲートから飛び出したことが分かった。外側からプレッシャーを掛けにくる馬がいたが、出走馬の中で飛びぬけて体の大きい栗毛に畏怖を感じたのか、追い抜くことはせず、併走するだけにとどめた。ルメール騎乗の1番人気リスレジャンデールは栗毛の真後ろ。達者なジョッキーはライバル馬の選定を誤らない。パワー勝負では勝ち目がないと判断し、最後の瞬発力勝負で一泡吹かせようと心に決めたのだろう。道中のペースはかなり緩やかなものとなった。 ミスティックレナンはパドックで見せた繊細な面を見せずに終始、穏やかに走っているように見えたが、僕は呼吸がうまくできず、息苦しさを覚えていた。後方から馬が一気に追い抜いて、前を塞がれてしまったらどうしよう…なにせフットワークが大きいから馬群の中では気持ち良く走れまい。たとえ4コーナーまで先頭をキープできていてもゴール前、内からスルッとリスレジャンデールに交わされてしまうのではないか。後から思い起こせば、もっとレースを楽しめばいいのにと我ながら呆れてしまうのだが、レース中は何が起こるか分からない、予断は許さない。大事なレースになればなるほど悲観的な気持ちになりがちだ。こんなことでは、僕にはジョッキーという仕事など務まりようがない。 幸い、コース内に鹿が闖入してくることなく、鳥の襲来もなく、まるで口笛を吹いているかのように余裕しゃくしゃくと栗毛が4コーナーを回ってくる。他馬の鞍上は必死に手を動かしているのに、こちらの鞍上、北村友一はなかなかゴーサインを出さない。しかし、栗毛の姿はみるみる大きくなってくる。ゴールまであと200m。満を持してムチを入れると、瞬時に弾むようなフットワークに変わった。大地を蹴る力が強くなる。やはり、道中は口笛を吹いていたのだろう。最大のライバル、リスレジャンデールは伸び悩んでいる。いや、ミスティックレナンの脚力が段違いなのだ。終わってみれば、後続を2馬身半もの差をつける圧勝劇。レース前のマスコミは「ハイレベルの新馬戦」と謳っていたが、たんに当メンバーでミスティックレナンが一番強かっただけではなく、海を越えて、もっと大きな世界に飛び出てゆけるサラブレッドなのではないか。そんな予感を感じさせる走りであった。虫明はこう記している。 札幌競馬場の一端にたち、まっさきに、僕をとらえたのはそのように熾烈な感情であった。人は大声で、呼吸のにおいに、土と草のにおいをこめて話さねばならない。馬も人も、ここでは、筋肉、植物質繊維、内臓器官、ナーバス・エネルギー、血漿、骨格で勝敗をきそわねばならない。運とか、展開の綾、僥倖、不測の幻覚など、およそ、偶然が競走にはいりこんでくる余地がひとつもなかった。北の風土と自然がきびしくそれらの侵入にたちふさがっていた。あるのは、ひたすらに、頑健な生命の競争だけであった。(『野を駈ける光』54ページ) 「この馬、きっと、来年の凱旋門賞に向かうことになるだろう。少し遠いけれど、パリまでついてきてくれるかい?」 「はい、もちろんです!またよろしくお願いします!」 虎石 晃 1974年1月8日生まれ。東京都立大学卒業後は塾講師、雑誌編集を経てデイリースポーツ、東京スポーツで競馬記者を勤める。テレビ東京系列「ウイニング競馬」で15年、解説を担当。著書2冊を刊行。2024年春、四半世紀、取材に通った美浦トレーニングセンターに別れを告げ、思索巡りの拠点を京都に。趣味は読書とランニング。

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