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第4回 ハイデガーとバウムガルテン(1)

エドゥアルト・バウムガルテン(1898-1982)はハイデガーにとっては因縁の人物であった。不倶戴天の敵だったとさえ言えるかもしれない。

ハイデガーは第二次世界大戦におけるドイツの敗北後、ナチスの協力者として彼が所属していたフライブルク大学の政治浄化委員会の審査を受けることになった。1933年にナチスが政権を奪取した際に、ナチス支持者としてフライブルク大学の学長に就任して、ナチスの宣伝に一役買ったことが問題視されたのである。

政治浄化委員会でハイデガーは反ユダヤ主義者ではないかという追及に晒された。彼はこの点について、かつての盟友だったカール・ヤスパース(1883-1969)に問い合わせることを大学側に要望した。大学はヤスパースにハイデガーについての所見を求めた。ヤスパースはこの要請に応えるかどうか逡巡したが、最終的には所見をしたためた。

その所見の内容はハイデガーの期待に反して、彼が1933年の段階では反ユダヤ主義者であったと指摘するものだった。その際、ハイデガーが反ユダヤ主義的だった証拠としてヤスパースが挙げたのが、ハイデガーが学長時代にかつての弟子バウムガルテンについて書いた所見である。バウムガルテンはハイデガーとけんか別れしたあと、ゲッティンゲン大学に職を得て、そこで講師として勤務していた。ナチスが政権を獲得したのち、彼は同大学の突撃隊とナチ大学教員団に加入を申請した。それを受けて、ナチ大学教員団の指導者はバウムガルテンの学問的能力と政治的適性をハイデガーに照会した。問題の所見はこの照会に対して書かれたものである。

この所見には、バウムガルテンは自分のもとで教授資格を取ろうとしていたが、学問的にも人格的にも適性を欠いていたため関係を断ったこと、彼がハイデルベルクのマックス・ヴェーバーを中心とするリベラルな知識人サークルに出自をもつこと――そもそもバウムガルテンの父はヴェーバーのいとこであり、彼はヴェーバーの遠い親戚だった――、また自分と決裂したのち、フライブルク大学の教授エドゥアルト・フレンケルのつてでゲッティンゲン大学に職を得たことなどが記されていた。

ここでとりわけ問題視されたのは、この所見においてフレンケルに言及する際に用いられた「ユダヤ人●●●●フレンケル」という言い回しであった。これは明白に反ユダヤ主義的な表現であった。ハイデガーはバウムガルテンとユダヤ人との親密な関係を示すことで、彼がナチズムの世界観には相いれない人物であることを示唆したのである。ヤスパースはこの点を取り上げて、ハイデガーがこのとき反ユダヤ主義者であったことは紛れもない事実だと指摘した。

この思いもよらぬ告発によって、ハイデガーは窮地に陥った。彼に同情的な同僚の尽力のおかげで免職はぎりぎり免れたものの、教職禁止を伴う定年退官という重い処分が下されることになった[1]

この一件は、ハイデガーが根っからのナチであったことはもとより、自分のかつての弟子を政治的に陥れようとしたという意味で、悪しき人柄の持ち主であることを顕著に示す証拠として受け止められている。こうした評価が妥当であるかどうかは、さしあたりここでは問題にしない。しかし例の所見からは、ハイデガーがとにかくバウムガルテンを毛嫌いしていたことはひしひしと伝わってくる。バウムガルテンはもともとハイデガーのもとで教授資格を取ろうとしており、両者はある時期まではそれなりの信頼関係を築いていたはずだ。それがなぜ、これほどまでに関係が悪化してしまったのだろうか。この点については長いあいだ漠然と疑問に思っていたが、詳しい事情はわからないままだった。

ところが今年の3月、ドイツの図書館で調べ物をしていたら、バウムガルテン自身がハイデガーとの関係について語っている資料にたまたま行き当たった。これは1976年にデヴィッド・ルーバンというアメリカ人の哲学研究者がバウムガルテンと三日にわたって面談した際に、バウムガルテンが語った内容をルーバンがメモに取り、それをのちに文章としてまとめたものである。対談は英語で行われたようで、ルーバンの文章もすべて英語で書かれている。この報告は「ハイデガーをめぐるエドゥアルト・バウムガルテンとの対話」と題されて、ベレル・ラングという別のアメリカ人哲学者による著書『ハイデガーの沈黙』の巻末に付録として収録されている[2]

同書は1996年に刊行されたものである。「ハイデガーの沈黙」とは、ハイデガーが第二次世界大戦後にユダヤ人のホロコーストについて沈黙したことを指している。この沈黙の理由がハイデガーの思想にあることを同書は示そうとしている(その内容についてはエッセイの本筋とはずれるのでここでは触れない)。あるときラングがルーバンに「ハイデガーの沈黙」についての考えを語ったところ、ルーバンは自分がバウムガルテンと対談したことがあり、その記録を残していることを明かした。この対談はバウムガルテンのフライブルクの自宅で1976年7月17日から20日にかけて行われたものである。対談の内容は、ユダヤ人問題に対するハイデガーの態度を主題とするラングの著書の内容にも密接に関係するため、ルーバンの許しを得て、巻末に付録として収録することにしたという。

ここで語られていることはバウムガルテンの立場からの回想であり、しかもルーバンのメモをもとに構成されたものなので、その内容の信頼性には一定の留保が必要であろう。ただその点を差し引いても、ここにはハイデガーとバウムガルテンの関係について、これまで一般には知られなかった非常に興味深い内容が記されている。もう30年近く前に発表された古い資料ではあるが、管見の限りまだ日本では紹介されていないと思うので、以下でその内容をかいつまんで見ていくことにしたい。

バウムガルテンは1914年にハイデガーの神学の関する講義を聴講し、ハイデガーと知り合いになったという。バウムガルテンによると、ハイデガーは当時、軍務として郵便検閲も行っていた。(実際のところ、ハイデガーが講義と郵便検閲業務に携わりだしたのは1915年秋からなので、1914年に知り合ったというバウムガルテンの回想は不正確である。)

バウムガルテンは1924年から1929年にかけてアメリカに留学し、プラグマティズムを精力的に学んだ。ドイツへの帰国後、彼はハイデガーのもとで教授資格を取る準備をはじめた。しかしバウムガルテンは1932年にハイデガーのゼミナールで、ハイデガーとカント倫理学の解釈をめぐって衝突し、その結果、両者は袂を分かつことになった。

バウムガルテンによると、ハイデガーとの関係が難しくなったのは個人的な恨みを買ってしまったからであった。とくに三つの出来事によってハイデガーが自分を敵視するようになったという。その出来事それぞれの内容が非常に興味深いので、以下で簡単に紹介したい。(なお三つの出来事の詳しい年月は、原文には記されていない。他の資料から日時がわかるものについては注記しておく。)

バウムガルテンはアメリカ留学中に講師を務めた大学で妻と知り合い結婚した。ドイツに帰国してから、その妻がアメリカ滞在中に稼いだ3,500ドルが思いがけず、夫妻の手元に戻ってきた。そのお金は1929年の大恐慌で失われたものと思っていたが、実はそうではなかったのだ。これは当時のドイツでは大金で、彼らはそのお金でフライブルクに家を購入した。その家の写真をハイデガーに見せたところ、彼は気分を害してしまった。

というのも、バウムガルテンが買った家は、ハイデガーが1928年にマールブルクからフライブルクに戻ってきたときに、ハイデガーの妻エルフリーデがいたく気に入って、その外観をそのまままねて自宅を建てさせたものだったからである。ハイデガーはバウムガルテンが家を買えるような大金をもっているにもかかわらず、大学に通うために奨学金を受給していることを詐欺行為だとして厳しく非難した。

当時の学部長フォン・メレンドルフがバウムガルテンとハイデガーを取りなすために、彼らが会う場を設けてくれた。フォン・メレンドルフは妻が自分の家族のためにお金を得る一方で、夫が奨学金で大学に通うことはまったく適切だと述べて、バウムガルテンのことを擁護した。ハイデガーはそれに対して憮然としながら、「おそらくそれがアメリカ的な考え方だろうが、ドイツでは自分の家族のためにお金を取り置くこととを買うことはなお区別されているのだ」と答えたという。つまり将来に備えて金を貯めているだけならともかく、家を買うようなぜいたくができるのであれば、奨学金は受け取るなということだろう。フォン・メレンドルフはバウムガルテン夫妻が立ち去るときに次のように述べたという。「ハイデガーは偉大な人物かもしれないが、中身はまだ小物“petit bourgeois”だね」。

これがバウムガルテンの挙げる一つ目の行き違いである。二つ目の行き違いは、ハイデガーが講演「形而上学とは何か」をハイデルベルクで行ったあとに生じた。「形而上学とは何か」は1929年にフライブルク大学で教授就任演説として読み上げられたものだが、同じ内容の講演がハイデルベルク大学でも行われたのであろう。(『ハイデガー/ヤスパース往復書簡1920-1963』を見ると、この講演は1929年12月5日に行われたことがわかる。)

ハイデガーの講演後、マックス・ヴェーバーの弟アルフレート・ヴェーバーは手をたたいて「すばらしい」と述べた。そして詩人シュテファン・ゲオルゲのサークルのメンバーとして知られる文芸批評家フリードリヒ・グンドルフは次のような大げさな賛辞とともに乾杯したという。「自分が講演から学んだのは、詩は決定的な言葉であるが、哲学はそれ以上に決定的な言葉であるということだ。」

ハイデガーはフライブルクに戻って、このことをバウムガルテンに誇らしげに報告した。それを聞いてバウムガルテンは、少なくともグンドルフは本気ではなかっただろう、というのも、もし本気だったとすれば、ゲオルゲを貶めていることになるからと述べた。バウムガルテンは、ヴェーバーのサークルの人士と近しい間柄だったから、彼らが心にもないお世辞を言っていることがわかったのだろう。

バウムガルテンの返事にプライドを傷つけられたハイデガーは、本当の事情を探らせるためにバウムガルテンをハイデルベルクに送り出したという。バウムガルテンはマックス・ヴェーバーの未亡人マリアンネと話した。彼女によると、ハイデガーの講演中、グンドルフは彼女に皮肉なコメントをささやいたということだった。

フライブルクに戻りハイデガーと会ったとき、バウムガルテンは最初、関係ないゴシップで話をそらしていたが、ハイデガーが我慢できず結果を尋ねてきた。それに対して、バウムガルテンはふざけて、自分の旅行は「真理の本質は両義性である」というハイデガーの教説と合致するものだったと答えた。それは何を意味するのかというハイデガーの問いに対して、バウムガルテンは次のように答えた。「グンドルフはあなたの面前ではあなたをほめたが、他の人びとにはあなたのことをあざけっていたということです。これは両義的であり、それゆえそれは真理なのです。」

これを聞いたハイデガーは机から立ち上がって、部屋の隅に行き、口笛を鳴らしたという。バウムガルテンによると、これはハイデガーが自分を抑えられなくなっているサインであった。

このエピソードが事実であるとすれば、一癖も二癖もあるはずの学者や批評家の社交辞令を真に受けるハイデガーはあまりにナイーブすぎるし、わざわざバウムガルテンを探りに行かせるのも大人気ないように感じられる。他方でバウムガルテンはバウムガルテンで、言わないでもよいことを言って、不必要に人間関係をかきまぜるやっかいな人物だという印象を禁じえない。

三つ目の行き違いは前の二つに劣らず面白い。ある日、バウムガルテンとハイデガーは同じ市電で大学に向かった。彼らが下車したとき、ひとりの若者がハイデガーに近づいてきた。ハイデガーを熱狂的に崇拝しているといった面持ちであった。バウムガルテンは気を遣って、二人から離れた。あとでハイデガーにあの男は誰かと尋ねると、ハイデガーは「ああ、よく知らないユダヤ人だよ “Oh, some Jew.”」と答えた。この言い方はバウムガルテンを困惑させた。

ハイデガーは若い男と話したため、自分の講義に遅れてしまった。ハイデガーとバウムガルテンが教室に入ったとき、バウムガルテンはある会話を耳にした。最前列に座っていた日本人が隣の男に「ハイデガーのところでどれくらい勉強しているのですか」と質問していた。その男は「15年」と答えた。それに対して日本人が、「ああ、そうですか――たしかに、あなたは見かけもハイデガーみたいですね」と返したのだった。実はその男はユダヤ人であり、しかも見かけからしてまさにユダヤ人であった。

夜にバウムガルテンとハイデガーが帰宅する途中、ハイデガーは日本から何人か訪問者が来ていると言った。バウムガルテンは講義にいた日本人はそのうちのひとりかと尋ねると、ハイデガーは「そうだ、彼はもっとも優秀で、テクストのすぐれた解釈者だ」と述べた。バウムガルテンはそれに対して無邪気に、「テクストのよき解釈者は、人相のよき解釈者でもあると思いませんか」と質問した。ハイデガーが「そのとおりだ」と肯定したところ、バウムガルテンは教室での会話を再現した。ハイデガーはこれに対して怒り心頭であったという。

バウムガルテンはこの出来事によって、ハイデガーとの関係の行く末が定まったと述懐している。まあそれはそうだろう。二つ目のエピソードもそうだったが、三つ目のエピソードでも、バウムガルテンは言わずもがなのことを言っているようにしか見えない。しかもそれを機知にとんだジョークに仕立て上げることによって、相手を笑いものにしてしまっているのだ。

ルーバンはバウムガルテンの印象を記して、自分はこれほどすぐれたユーモアの持ち主を見たことがないと述べている。バウムガルテンとの面談の際、ルーバンに同伴していた別のアメリカ人哲学者もバウムガルテンのことを「罵倒の名人」と評したという。この呼び名をバウムガルテンはいたく気に入っていたという。バウムガルテンは利発で機知にとんだ、あまり物おじしない性格だったのだろう。これはある意味では、性格的な長所とも見なしうる。しかしハイデガーとの関係においては、そうした彼の特質が破壊的な作用をもたらしてしまったようだ。

もっとも、バウムガルテンがハイデガーとの関係悪化の原因として語っているエピソードから、両者の対立が単なる性格の不一致というにとどまらない、より深い要因に由来することも見えてくる。ごく簡単に言えば、両者の出身階層、ならびにそれに由来する行動様式、いわゆる「ハビトゥス」の違いである。すでに文章が長くなったので、この点についてはまた次回に論じることにしたい。(続く)


[1] ハイデガーによるバウムガルテンの所見をめぐる以上の経緯については、拙著『ハイデガーの超‐政治 ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』明石書店、2020年、117頁以下を参照。

[2] David Luban, A Conversation about Heidegger with Eduard Baumgarten, in: Berel Lang, Heidegger’s Silence, London, 1996, pp.101-111.


轟 孝夫 経歴

1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。

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