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第5回 伊勢へ

 まずは大嘗祭である。これまでの人生で「だいじょうさい」と口走ったことは一度もなく、いや、聞いた記憶さえない。この先も、僕が天皇になることはないし、皇室として仕事をする可能性もほとんどないのだから、その内実について知る必然性はない。一生、大嘗祭に直接的に関わることはないだろう。しかし、大嘗祭について考えることはできる。ひょっとしたら大嘗祭は僕と間接的には関わりがあったりして…。

 四条駅近くの本屋で『神道・天皇・大嘗祭』(斎藤英喜著、人文書院、2024.7.30)という1冊の本に目が留まった。まずはシンプルかつ品のある装丁に惹かれたのだが、知られざる、しかし知らねばならぬ重要な話が潜んでいるような気がしたのである。6500円は高額だったが、ちらとページをめくってみれば、眞子さまの結婚問題やら平成2年の大嘗祭時のテレビ中継の話が目に飛び込んできた。うっかり取っつきやすいと早合点して購入に踏み切ったわけだが、結果的にいえば、当然かつ必然の出会いだった。

 大嘗祭とは「即位した天皇が、初めて行う新嘗の祭り(新嘗祭は、年中行事として一一月二三日の勤労感謝の日に皇居で行う)で、皇祖神アマテラスをはじめ、天神地祇=日本全国の神々を大嘗宮の悠紀殿、主基殿に迎えて、天皇自らが神饌を奉り、また一緒に食する儀式」(『神道・天皇・大嘗祭』15ページ)であり、その始まりはいわゆる天孫降臨神話にもとづくとされてきたが、律令国家の起源を語る神話、日本書紀の「本書」には大嘗祭の記述はなく、「一書」という異伝ないし注釈書に天孫降臨神話が記されてあるだけ。実のところ、これは江戸時代の神道家による独自の解釈――大嘗祭の起源を日本書紀に結び付ける――によって創作されたもの(しかしまた、中世以降、明治まで呼ばれてきた「大嘗祭」ならぬ「大嘗会」という名は仏教の影響によるもの)。とりもなおさず「本書」ではなく「一書」に起源神話が置かれた理由は、大嘗祭は律令国家の公的な機構ではなく、天皇家の内廷的(家産制的)祭祀ゆえ。つまり、「本書=正統、一書=私的」という二重構造が潜んでいるのだ。

 稲穂を収穫する儀礼(=抜き穂)における「造酒児(さかつこ)」、天皇祭祀の補佐役たる「御巫(みかんこ)」「猿女(さるめ)」など実に多くの女性=宮廷巫女が登場するのが大嘗祭なのだが、その中にあって、食物を神に奉る=神饌を運ぶ「采女(うねめ)」(←神と直接的に関わる)だけは官人ではなく、天皇の日常生活に奉仕している内膳司。その理由は、大嘗祭の真っただ中にあっても天皇の人格=神性=神を祭ることができる能力を保持しなければならないため。言ってみれば「日常」と「神事」が連動。そもそも律令国家は官僚制的機構と家産制的機構の二元構造が基本であり、天皇の内廷的組織は外廷という官僚制度に包括されながらも独自な支配の力をもって、歴史のなかで変容しつつ持続されてきたという。朝廷と幕府、宮中と府中(政府)、あるいは国体と政体という、歴史に即した二重構造を生み出すことと繋がる、と著者は説明する。

「大嘗祭における天皇の役割は、それが自身の祖神たるアマテラスを祭ることにかかわっていた。内廷的組織が重要な役割を果たすのもそれと繋がっている。もちろん天皇の存在が二重構造(内廷・外廷)をもつ以上、アマテラスという神も、たんなる「祖神」ではありえなかった。ここにアマテラス神話の複雑な構造が生成していくことになる」(同書107ページ)

 二重構造といえば、アマテラスの祟りを祓うのは天皇自身ではなく(危険回避のため)伊勢神宮の神官であり、そしてまた地方の神社に対する祭祀権は天皇にはなく、あくまで氏族=地域の統括者にある。後者の件に関しては吉本隆明のアジア的支配(ヨーロッパの政治支配と違い、支配共同体は被支配共同体の内部に対してはできるだけ手をつけない)とリンクする思想だ(同書132ページ)。それはさておき、伊勢神宮もアマテラスが鎮座する内宮とトヨウケを祭る外宮との二重構造になっているが、たんにアマテラスの食事担当の神に過ぎないトヨウケが同等とも言うべき地位を確立したのは外宮の祀官を務めた度会行忠を始めとする度会氏らの貢献が大きい。「倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)」という偽書を制作したり、天台系僧侶が作った「中臣祓訓解(なかとみのはらえくんげ)」から「祓え」の作法に関わる教理を学び、やがて内宮を「胎蔵界大日」、外宮を「金剛界大日」と説くまでに至り、内宮と外宮の相補的な世界観が社会に広がっていく。

 仏教の知を借りながら外宮の地位向上を果たしたあとは行忠の弟子筋にあたる度会家行が中心となって伊勢神道を確立し、さらには内宮外宮の内部紛争で荒廃していくなか、応仁の乱以降は「吉田神道」が跋扈していき…このあと神道・天皇・大嘗祭を巡る歴史は佳境を迎えるのだが、ひとまず、平成2年の政府見解で「即位式=国家的行事、大嘗祭=皇室行事」とした根源的理由が理解できたし(たんに憲法問題を回避するためだけの詭弁ではない)、アマテラス、スサノヲ、オホクニヌシなど古代の神々を仏教によって読み替え、新たな神格を生み出した中世神話の存在を知ることも有意義だった。何より、大嘗祭も伊勢神宮も天武持統朝の時代から今の今まで、そしてこれからも社会の影響を受けながら変化を遂げていくことはもはや宿命、歴史的真実であり、よって、そのあり方への固定化、硬直化した眼差しは回避しなければならないと誓った次第である。

 * * *

 さて、京都から伊勢へは近鉄の「しまかぜ」が一番だ。わずか2時間。全席快適シートの広々とした車内だが、乗車率は2割くらいか。バカンスシーズンではなく、秋の紅葉の季節でもない10月半ば。とはいえ、4人のお喋りおばちゃんがいたことで賑やかな旅路に。もっとも、斜め前の席には、一人の70代と思しき品の良い女性の姿が。多くの時間を読書にあてていたが、隣にいる妻の悦代も、僕がいなくなったらこうして一人旅をするのだろうか。引っ込み思案な性格だけに家にこもりがちな日々となるかもしれない。願わくば、彼女のように文庫本を片手に寺社巡りを続けて欲しいのだが…。

 奈良までの道のりもそうだったが、山並みがやや目立つようになるだけで、窓から眺める風景はさほど変化がない。二人でぼんやりと外を見ながら京都駅で購入した饅頭を食べ、伊勢詣での行程を立てていると、あっという間に伊勢市駅に到着した。

 ちょうどお昼時。まずは腹ごしらえだ。外宮までの参道沿いにある「いそべや」へ。昔の食堂らしく?前払い。素っ気ない店内だが、これで良い。いわゆる釜卵うどんを頼んだ。半年前まで住んでいた東京都府中市では太く腰の強い武蔵野うどんが定番だったが、僕はこういった茹で過ぎのようなやわらかいうどんが好きだ。黒々としたタレがまんべんなくかけられてあり、真ん中に浮かんでいるのが生卵。このシンプルなビジュアルは得も言われぬ感動がある。もっとも、対面の悦代はいっこうに生卵を溶き始めることなく、うどん一辺倒で食べ進めている。最後のほうになってどんぶりに口をつけ、唇を三角形にして生卵を吸い込む。醤油と生卵の融合が美味しいのになあ。怪訝そうな顔をして覗き込んでいる僕に向かって「私はこの食べ方でいいの」とピシャリ。潔癖症のたぐいか。何はともあれ、二人の胃の中には同じものが入っているわけであり、ともに満腹となったので、いざ伊勢神宮へ。

 事前調査をほとんどしていなかったゆえ、入場料がないこと、正殿が望めないことには面を食らった。多くの人々に開かれている一方で、ここはやはりまごうかたなき聖域とも。まずは外玉垣南御門の前でお参り。10数メートル向こうに門が見えるが、そのまた後ろにもう一つ門があって、その先にようやく正殿があるという。それを知ったのは家に帰って『天皇たちの寺社戦略』(武澤秀一著、筑摩選書、2024.10.15)を読んだから。この書物も『神道・天皇・大嘗祭』に優るとも劣らない魅惑的な言説に満ちていた。

 かつて天皇らが作った社寺建築には、日本書紀と同じく、自らの血筋を権威付けるための、そして我が子、我が孫の即位に至る道筋をつけるための戦略、思想が示されているという。法隆寺しかり、伊勢神宮しかり。後者でいえば、「伊勢神宮は皇祖神アマテラスの御在所である正殿によって、皇祖神の存在を明示する。同時に伊勢神宮は、天皇は皇祖神アマテラスの子孫であるから尊い、という天皇のレゾンデートル(存在理由)と正統性を可視化する」(『天皇たちの寺社戦略』176ページ)装置であるため、持統が女帝天皇として即位した690年に第一回式年遷宮が施行され、そしてまた校倉造りだった正殿は神明造りへと変更された。詳しい説明は省くが、これにて〈アマテラス=持統〉のフィクションが成立。さらには、正殿+宝殿二つの三極構造という社殿配置の(皇祖アマテラスを祭る)伊勢神宮は(薬師如来を本尊とする)薬師寺の伽藍配置を範にとっていることも新たなる知見。伊勢神宮はその初めから仏教とは切っても切れない存在だったのだ。

 この前の近江では雨、そして伊勢でも雨。あくまでしとやかな雨であったが、帰りしな、匂玉池のほとりで少し雨宿り。土宮、多賀宮、風宮なども回ったところで10分程度の滞在時間。あっけなく外宮詣でが終わってしまっただけに時間がたっぷりと余ってしまった。すると、「真珠を見に行きたい」とガラにもないことを連れが言う。これまで宝石なんて、とんと見向きもしなかったのに。「教科書にも載っていたわよ」という鳥羽にある「ミキモト真珠島」へ足を延ばしてみることにした。

 鳥羽駅からは海岸沿いを歩いて5分。うどん屋「阿波幸」の長男としてこの世に生を受けた御木本幸吉が一代で築いた真珠養殖の聖地だ。小さな島でも「珠の宮」と呼ばれる神社はあるし、野鳥の森もある。なにも観光地定番の博物館や記念館だけではない。我々が島内に入ったときにはちょうど海女さんの潜水実演が行われていた。この日は前日よりグッと気温が低くなっていただけに海の中はことさら冷えていたのではないか。今や見られるのは日本中でここだけとなった、昔ながらの白い磯着の海女さん。するりと姿が消えたかと思えば10数秒後には再び海上に現れ、来訪者へ向けて手を上げて海底から拾ってきた貝を見せる。パラパラと拍手が起こる。ガイド役のお姉さん曰く、真珠養殖の成功の裏には、アコヤ貝を自在に採取できる海女さんの存在が不可欠だった。

 その後は博物館で真珠の歴史、ネックレスを作る工程などを勉強したあと、パールプラザへ。いわゆる土産物屋だ。何十万どころか何百万する商品も売られている。それ相応の出費を覚悟していたが、悦代は眺めるばかりで手に取ってみようとすらしない。値段に怖気づいたのか、それともたんなる「女心と秋の空」か。さっきまでは「ハート形のが欲しい」と言っていたのに。安堵やら未練やら複雑な感情に見舞われたが、雨上がりの志摩の絶景を二人きりで愉しみながら、また再び鳥羽駅へ戻ったのである。

 この日は、主水岬の突端にある鳥羽国際ホテルに宿泊。鳥羽駅からは送迎バスでものの10分だ。ワイン党としては和食の夕ご飯がいささか不本意であったが、いざ食してみると、久々に地産地消の素晴らしさに気づかされた次第。端正な白ワインとも合う。暮れなずむ夕日を眺めながら、静かに夜が更けていった。

 * * *

 早朝、目覚めて窓を見やると、昨日とは打って変わって青空が見える。いい日になりそうだ。

 近江鳥羽線で伊勢市駅まで行って、そこからバスに乗るという選択肢もあったが、一つ手前の五十鈴川駅から行く手もあるようだ。どうせなら降りたことのない駅で降りたい。しかも、うまくいけば早く着ける可能性もある。ところが、内宮までの路線バスの本数が異様に少なく、結局は歩いて行くはめに。我々はどうしてこうもいつも歩き回ってしまうのか。京都に移住してからは毎日のように1、2時間は歩いている。もっとも、途中に小山のような森があり、そこに月讀宮があった。伊勢神宮の14ある別宮の一つだという。ここも式年遷宮が行われているようで、真新しい材木で作られてある。怪我の功名ではないが、内宮外宮だけでなく、その周辺の別宮も含めての伊勢神宮であることが了解できたのは幸いだった。

 国道23号線をさらに南下する。30分ほどで宇治橋に到着。外宮も相当な広さを誇っていたが、ここ内宮は志摩の森と直結しているせいか、より一層、深遠さを感じる。そもそも植生が違うのかもしれない。ひんやりとした空気を身に受けながら外玉垣南御門へ。参拝後は隣の古殿地(前回の遷宮まで社殿が建っていたところ)へ足を運んでみた。外宮でも感じたが、この森の中にぽっかりと広がる空き地には周囲とは違った空気が佇んでいる。建築物がない分、余計に濃密な時間が感じられるのだ。傍らにある大木に抱き着くような感じで耳をあて、その鼓動を聞き取ろうとしているおじさんがいる。一見は変人に映るが、いや、これは分かる。遥か昔の人の存在や自然の営みをダイレクトにキャッチできるような気持ちになるのだ、ここは。

 再び宇治橋を渡って、右に折れればそこは門前町。ずっと先まで食べ物屋、土産物屋が続いている。「赤福の本店に行ってみたいわ」と連れが言う。10人近く並んでいたが、わずか5分で入ることができた。明治時代に作られた建物は風情たっぷりだし、店頭にデンと置かれてある3つの朱塗りの竈も立派。すぐ目の前を五十鈴川が流れているロケーションも素晴らしい。縁側に座って頂く赤福餅とほうじ茶の美味しいこと。これぞ伊勢詣での醍醐味である。2人とも足の疲れも癒え、バス通りへ。

 その途中に、より一層、賑わいを見せている「おかげ横丁」が。江戸から明治期の建築物を再現した区画。すると、左前方に周囲とは雰囲気の違う洋風の建物が見えてくる。看板に目をやれば「御木本真珠島店」と書いてある。リベンジの時がやってきた!とは大げさだが、やや尻込みする悦代を促し、店内に入ってみた。ここはだいぶ若年層寄り。我々でも手の出やすいものが置いてあるかもしれない。二人でショーケースを眺めていると、「あっ」と声ならぬ声が同時に出た。やや小ぶりながらもハート形の可愛らしいネックレスが、そこにあった。「いいね、これ」。うん、僕もいいと思う。3万円もしない。決まりだ。ようやく、久々に、悦代にいいものを買ってあげることができた。ハートのネックレスは僕にとっても大きな収穫物であった。

 しかし今日はとことんバスとの巡り合わせが悪い。帰りも1時間ほど待たなければ次のバスがなかった。そうであるなら、徒歩を選択するのが我らの主義。さすがに最後は足が棒になって、やっとこさっとこ五十鈴川駅へたどり着いた。

「大変だったね」

「こんなに私を歩かせて」

「行きはともかく帰りまでも。これは想定外だった」

「今度は丹後に行こうよ」

「丹後?」

「伊勢神宮があったところ。元伊勢というのよ」

「ああ、元伊勢…行こう、行くとも」


虎石 晃

1974年1月8日生まれ。東京都立大学卒業後は塾講師、雑誌編集を経てデイリースポーツ、東京スポーツで競馬記者を勤める。テレビ東京系列「ウイニング競馬」で15年、解説を担当。著書2冊を刊行。2024年春、四半世紀、取材に通った美浦トレーニングセンターに別れを告げ、思索巡りの拠点を京都に。趣味は読書とランニング。

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