月刊傍流堂

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 月刊傍流堂
  4. 第7回 ディデュマ

第7回 ディデュマ

 ハリカルナッソスからミレトスに向かって北上する途上、ディデュマの近くを通る。ディデュマはイオニア地方随一の神託所として知られたアポロン神殿があったところである。軽い気持ちで立ち寄ることにしたが、着いてみてびっくり。直径3メートルはあろうかと思われるような巨大な円柱群(今現在立っている円柱は3本ほどであるが、途中で折れた円柱群が完全に立ち上がれば壮観であったろう)、重厚な大理石の側壁など、その盛時には極めて壮大かつ重厚な神殿であったろうことをうかがわせる遺構で、古代ギリシア世界における神託の重要性をいやがうえにも痛感させる遺跡であった。

 それではなぜ神託や卜占が古代ギリシア世界においてこのような遺構を出現させるほどにも重要であったのか。それほどにもそれらはなぜ必要とされたのか。それは古代ギリシア人が基本的に自己決定できない人たちだったからであろう。

 ギリシア人は基本的に自己決定できない人たちだった。それも重要な案件であればあるほど、国家(ポリス)の存続にかかわるような重大事案であればあるほど、そうであった。そうした事案に直面したとき彼らは必ず神託に伺いをたてるか、卜占のために犠牲獣を葬った。

 一例を挙げれば、ペルシア戦争最後の会戦ともいうべきプラタイアの戦いに面した時のスパルタの将軍パウサニアスの場合がそうであった。直面するペルシアの大軍と戦うべく生贄の占いを行うも吉兆が出ない。何度占っても出ない。その間にも多くの兵士が敵兵の飛矢をあびて戦死し、あるいは負傷している。それでも吉兆が出ない以上、戦闘の号令を発することはできない。兵士も必死にこらえている。そして遂に吉兆が出て号令が発せられ、耐えに耐えたエネルギーを爆発させてスパルタ軍はペルシアの大軍に勝利したというのである。このような話をヘロドトスが伝えている(ヘロドトス『歴史』第9巻参照)。別の報告によればこの吉兆は五度目の占で初めて示されたとのことである。

 しかし神託はいつも幸運な結果ばかりをもたらすとは限らなかった。ディデュマのアポロン神殿に多額の寄進をしたことで知られるリュディアの王クロソスの場合がそれであって、彼は自らの力を過信するあまりペルシアに対して兵を挙げた。それに先立ってデルポイの神託所に使節を派遣してお伺いを立てたところ、「もし汝が兵を挙げれば大いなる王国を亡ぼすであろう」との託宣がくだった。彼はこれを吉報とみて喜び、ハリュス河を越えたわけであるが(ハリュス河が当時リュディア王国とペルシア帝国の暗黙の境界とみなされていた)、結果として自らの王国を亡ぼしてしまったのである。「大いなる王国」とは自分の国であったわけである。神託はこのようにどちらにもとれるような内容のものであるのが通例であった。ちなみにこのリュディア軍のハリュス河渡河に際してはミレトスの哲学者タレスが協力したとのことである(ヘロドトス『歴史』第1巻参照)。

 このように一般にギリシア人は自己決定のできない人たちであったが、このギリシア人の本性に真っ向から背いた男がソクラテスなのである。彼は青年たちに何が善であり、何が正しいかを自ら発見させようとした。彼が行ったのは講義でもなければ、教授でもなかった。彼が実践したのは対話(ディアロゴス)であるが、それは要するに青年たちを対話(ディアロゴス)によって導き、自ら真理を発見させようとする実践なのである。言い換えれば、何が善であり、何が正しいかを自ら発見し、そしてそれに基づいて自分の行動を自ら決定するように促す行為だったのである。このソクラテスの実践の結果、多くの青年がポリスの規範に容易には服さない人間になってしまい、多くの禍をポリスにもたらすこととなった。その典型がアルキビアデスである。トゥキュディデスも伝えるようにアルキビアデスがアテナイにもたらした災禍は甚大であった(トゥキュディデス『歴史』参照)。アテナイがソクラテスを「国家の認める神々を認めず、他の珍奇なダイモニオンを導入し、また青年たちを堕落させるもの」として告発し、殺さざるをえなかったゆえんである(プラトン『ソクラテスの弁明』『パイドン』等参照)。

 近代世界では何よりも自己決定が求められる。今日学校で教えられるのは自分で考え、何が正しいかを自分で判断し、決定することである。そこに責任論もまた出てくる。そしてその責任はたいてい個人に帰される。そういう意味でソクラテスはまさに古代にあって近代の原理を出現させた男ということができる。近代はソクラテスから始まったとヘーゲルが考えるゆえんであろう。「ポリスの解体以降は近代」というヘーゲルの歴史感覚については彼の『哲学史講義』を参照されたい。

 主観性原理が横溢した近代世界においては神託や卜占といった秘儀は社会の片隅に追いやられている。主観性は、プラトニズムにおいて顕著であるように、合理性(ロゴス)と相携える原理だからである。それらは秘教的なもの、何かよく分からない宗教的秘儀として、その存在がかろうじて社会の片隅で許容されているようなものでしかない。にもかかわらずそれらは実にしぶとく、今日でもなお世界のいたるところに遍在する、そのようなものでありつづけているのである。なぜか、それはそれらが根本のところでは存在に由来する現象だからであろう。そしてこの存在(Sein)こそ、古代ギリシアの原理だったのである。古代ギリシア人が国家の重大事案に自ら判断するということはせず、その最終決定はこれを神々に委ねつづけたゆえんである。その結果、神託や卜占の意味が肥大化し、ディデュマやデルポイといった神託所を巨大神殿として出現させることになったのであろう。

 ディデュマのあの巨大なアポロン神殿の遺構の前に立つとき、われわれはこの古代原理の前に立つのである。自己決定できないギリシア人を統べていた沈黙の原理こそ、存在(Sein)である。そこにあるのは主観性(Subjektivität)ではない。まさにそれゆえにあの遺構がわれわれ近代人には何か異様なもの、なぜかくも巨大かつ威圧的なものとしてそこにあるのか、その理由がよく分からないものとして現前するのであろう。そこでわれわれが経験するのは古代原理と近代原理の差異性、存在(Sein)と主観性(Subjektivität)という異なる二つの存在論的原理の根本的な差異性なのである。


クサカベクレス

1946 年京都府生まれ。別名、日下部吉信。立命館大学名誉教授。1969 年立命館大学文学部哲学科卒。75 年同大学院文学研究科博士課程満期退学。87-88 年、96-97 年ケルン大学トマス研究所客員研究員。2006-07 年オックスフォード大学オリエル・カレッジ客員研究員。著書に『ギリシア哲学と主観性――初期ギリシア哲学研究』(法政大学出版、2005)、『初期ギリシア哲学講義・8 講(シリーズ・ギリシア哲学講義1)』(晃洋書房、2012)、『ギリシア哲学30講 人類の原初の思索から――「存在の故郷」を求めて』上下(明石書店、2018-19)、編訳書に『初期ギリシア自然哲学者断片集』①②③(訳、ちくま学芸文庫 2000-01)など。現在、「アリストテレス『形而上学』講読」講座を開講中(主催:タイムヒル)。

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事