月刊傍流堂

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 月刊傍流堂
  4. 第3回 同じ穴のムジナ? フォン・ヘルマンのトラヴニー批判

第3回 同じ穴のムジナ? フォン・ヘルマンのトラヴニー批判

2014年に黒表紙のノート(「黒いノート」)に記されたハイデガーの覚書群がハイデガー全集として刊行されはじめたとき、その覚書のなかに反ユダヤ主義的な表現が見出されるということで大騒ぎになった。この一件以来、ドイツではハイデガーの哲学そのものが政治的にいかがわしいものとして敬遠されるようになったことは、前回の「ハイデガー雑記」で述べたとおりである。

とはいえ、ドイツでもこうしたハイデガーの扱いが行き過ぎだという議論がまったくないわけではない。ハイデガーの晩年の高弟で、その遺稿管理人でもあったフリードリッヒ=ヴィルヘルム・フォン・ヘルマン(1934-2022)は、2017年に刊行された『マルティン・ハイデガー 黒いノートの真実』(フランチェスコ・アルフィエーリとの共著)で[1]、ハイデガー擁護の論陣を張っている。同書においてフォン・ヘルマンが厳しい批判の俎上に載せているのが、全集版の「黒いノート」の編者で、その刊行と同時に『ハイデガーとユダヤ人の世界陰謀の神話』という解説書を上梓したペーター・トラヴニー(1964-)である。

フォン・ヘルマンによれば、ハイデガーは全集版の編者が自身の担当巻の解説書を刊行することを禁じていたし、これまでそうした例もなかった。しかしトラヴニーはその禁を破る形で、全集版の刊行に合わせて『ハイデガーとユダヤ人の世界陰謀の神話』という書物を刊行した(『マルティン・ハイデガー 黒いノートの真実』、30頁、以下同書からの参照箇所を指示する場合は原書の頁数のみ記す)。そして彼はその「完全に非哲学的な書物」において、「黒いノート」全体があたかも反ユダヤ主義的思想を示しているかのような印象を読者に与え(37頁)、しかもそれを「存在史的な反ユダヤ主義」と呼ぶことで、ハイデガーの存在史的な思索がそれ自身、反ユダヤ主義的だという誤解を招いた(40頁)――フォン・ヘルマンはこのようにトラヴニーを批判する。

フォン・ヘルマンは、トラヴニーが妻子を抱えつつも長らく大学に常勤ポストを得られず金銭的に困窮している姿を見かねて、「黒いノート」の編集者として推薦したにもかかわらず、彼はその信頼と善意を裏切ったと憤っている(29頁以下)。トラヴニーは「黒いノート」の編集を自分の出世のために利用しようとした、というのがフォン・ヘルマンの見立てである。これまでの哲学的に堅実な著作によって大学にポストを得ることのできなかったトラヴニーが、ハイデガーを反ユダヤ主義者と攻撃することにより、一発逆転を狙ったというのである(32頁)。

ハイデガーの思索を反ユダヤ主義の哲学として喧伝するトラヴニーのキャンペーンは、たしかに大きな成功を収めたと言ってよいだろう。彼はハイデガーの反ユダヤ主義疑惑を取り上げるシンポジウムに参加するために、「黒いノート」刊行後はそれこそ世界各地を飛び回っていた。2014年12月には日本を訪れて、ドイツ文化センターが主催した「黒いノート」をめぐるシンポジウムにも参加している。

そのシンポジウムには私も発表者として出席した。私は「黒いノート」のユダヤ人をめぐる言明について、それが単純な反ユダヤ主義の表明ではなく、むしろナチズム批判として述べられているという解釈を提示した。それに対してトラヴニーは、問題のテクストを道義的非難もせずに客観的な考察の対象として扱うこと自体が反ユダヤ主義的と見なされても仕方がないふるまいであると私に警告してきたのだった。

実は私がトラヴニーと会ったのは、このときがはじめてではない。ドイツ文化センターの主催で2012年3月に行われた日独哲学会議「2011年3月11日以後の哲学の可能性」にも彼はドイツ側の代表として招待されており、その企画の一環として実施されたワークショップ「ハイデガーの科学論/技術論/労働論」に私は彼とともに登壇したことがあった。そのワークショップでのトラヴニーの演題は「ハイデガーとエルンスト・ユンガー」であり、私の演題は「ハイデガーの労働論」であった。

私の発表はハイデガーのフライブルク大学の学長時代にとりわけ目立つ、「労働」をめぐる言説の解釈をとおして、彼がナチスに加担していた時期に「国民社会主義(ナチズム)」を自身の哲学的立場に基づいてどのように再‐定義しようとしていたのかを明らかにしようとしたものだった[2]。ハイデガーの学長期の労働論はその当時、一世を風靡したユンガーの『労働者』(1932年刊)からも大きな影響を受けている。したがって私は、自分の発表がユンガーとハイデガーの関係について熟知しているはずのトラヴニーからも一定の理解が得られることを期待してワークショップに臨んだのだった。

しかし、私の発表に対するトラヴニーの反応はにべもないものであった。ハイデガーの学長期のテクストは新聞や雑誌に発表したものなど政治的で時流迎合的なものでしかなく、哲学的解釈の対象とするには値しないという趣旨のことを彼は述べた。私の発表は、通常はそのように時流迎合的なものとしてまともに扱われないテクストが、実は「存在への問い」の直接的な帰結であり、すなわちその政治的含意を顕在化させたものでしかないことを示したものだった。したがって、それを端から哲学的に取り上げる価値のないテクストだと決めつけるトラヴニーとは議論がまったくかみ合わなかった。

フォン・ヘルマンは、かつてはまともな研究者であったトラヴニーが「黒いノート」の編集に際して、出世欲からハイデガーを反ユダヤ主義者として売り飛ばす道を選んだと解釈していた。しかし私からすると、それは深読みでしかない。今も述べたように、トラヴニーは「黒いノート」の刊行以前から、一見すると時流迎合的に見えながら、しかしよく読むと「存在への問い」の直接的帰結を示しているようなテクストをそうしたものとして解読する能力をもっていなかった。したがって「黒いノート」についても、彼はただ単に普通の読者には反ユダヤ主義にしか見えないテクストを、そのとおり反ユダヤ主義として受け取ったというにすぎないだろう。

ところで、上述のように厳しくトラヴニーを非難するフォン・ヘルマンも、ユダヤ性や世界ユダヤ人組織に言及する「黒いノート」の覚書が反ユダヤ主義的であることは認めており、自分はそれから距離を取ると宣言している(30頁)。ただフォン・ヘルマンによると、そうしたテクストは「黒いノート」の最初に刊行された全集版の三つの巻(第94~96巻)の1250頁のうち、わずか13か所に見られるものでしかない。そして、それらはハイデガーの「存在史的な思索の構造のうちで決して思想的‐体系的な基礎をなしていない」(38頁)。つまりフォン・ヘルマンは、「黒いノート」の問題の覚書に見られる反ユダヤ主義はハイデガーの存在史的な思索とは何の関係もないと主張し(41頁)、そのことによってハイデガーの哲学を救い出そうとするのである。

しかし私の見るところ、こうした擁護のやり方は誤りである。前回の「ハイデガー雑記」でも述べたように、「黒いノート」の「ユダヤ的なもの」への言及を含む問題の覚書はハイデガーの「存在史的思索」と切り離せない。ハイデガーはユダヤ‐キリスト教の創造説(世界が唯一神によって創造されたという教説)の登場を古代ギリシア哲学と並んで、「存在の歴史」のひとつのエポックとして位置づけている。このことは『哲学への寄与論稿』(ハイデガー全集第65巻)でもこの上なく明快に述べられている(同書、125頁以下)。同巻の編集を担当したフォン・ヘルマンがこれをまったく見落としているのは解せない話である(もしかすると、キリスト教を否定的に捉えたくないという無意識のバイアスが働いていたのかもしれないが)。

まさに以上のような存在史的な認識を前提として、ハイデガーは「黒いノート」のユダヤ性をめぐる覚書では、ナチズムが西洋形而上学(主体性の形而上学)に盲目的に追随し、その完成を推し進めていることを、ナチスは「ユダヤ的なもの」との戦いを標榜しながら、それ自身が西洋形而上学という「ユダヤ的なもの」に規定されているという言い方で皮肉っているのである。

このようにフォン・ヘルマンはハイデガーの存在史的思索を哲学的に高く評価すると言いながらも、そのもっとも基本的な内容を把握できていない。その結果、彼は「黒いノート」の問題のテクストもそうした存在史的思索との連関において捉えることができず、それを単なる反ユダヤ主義的なテクストと受け止めてしまうのである。こうして結局のところ、フォン・ヘルマンのハイデガー読解の水準は、彼が口を極めて非難するトラヴニーのそれと本質においてまったく変わりがない。要するに両者は同じ穴のムジナでしかないのである。


[1] Friedrich-Wilhelm von Hermann, Francesco Alfieri, Martin Heidegger. Die Wahrheit über die Schwarzen Hefte (Philosophische Schriften Band 94), Duncker & Humblot, Berlin, 2017.

[2] ハイデガーの労働論については、以下のネット記事でも簡単に触れているので、興味がある方は参照されたい。https://gendai.media/articles/-/115127?imp=0


轟 孝夫 経歴

1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事