第6回 ハリカルナッソス
次の訪問地はハリカルナッソスである。 現在のトルコ、ムーラ県のボドルム。ここは世界七不思議のひとつとされるマウソロスの霊廟(前353年~350年頃建設)で知られるポリスであり、現在もその遺構が見られる。マウソロスの霊廟は尖塔を有する四角形の独特な形状をする建造物だったそうで、現在もそれを模した建物(その多くは霊廟関係の建物)がヨーロッパ各地に見られるとのことである。日本の国会議事堂もそのひとつといわれる。われわれが日頃目にする日本政治の中心施設・国会議事堂のルーツがはるか紀元前4世紀のギリシアの一ポリスの一建造物にあったというのはまったくもって驚きという外ない。 またボドルムでは水中考古学が盛んで、海中から回収された古代の遺物が多く展示されていた。30隻以上もの沈没船が周辺の海域から発見されたのだそうである。 しかしハリカルナッソスという地名に特にわれわれが親しみを持つのはやはりそこが歴史家ヘロドトスの出身地だからであろう。もしヘロドトスがいなかったなら、われわれはあの古代の大事件、ペルシア戦争について何も知るところなかったであろう。紀元前490年と480年の二度にわたって繰り広げられた地中海地域最大の出来事、ギリシアとペルシアの戦いについて今日われわれが鮮明なイメージを持つのはひとえにヘロドトスという偉大な歴史家のおかげなのである。 歴史的事実だけではない。ヘロドトスは小アジアのみならず、エジプトや紅海など東方オリエントの諸地域を広く旅し、そこに暮らす諸民族の風習について数多くの報告を行っている。それらは地中海地域一帯の諸民族の当時の様子を知る貴重な資料であるが、それだけではない。ヘロドトスの記述の行間からむしろわれわれはギリシア人が地中海地域においてどのような存在であったかを伺い知ることができるのである。 地中海地域においてギリシア人はどのような存在であったか。 ギリシア人は元々から地中海地域にいた人たちではなかった。ギリシア人は北方からバルカン半島を南下してきたアーリア系の民族であった。「アーリア人」とか「セム人種」といった表現はナチス・ドイツのラッセン・テオーリ(人種論)を想起させるので今日ではほとんど禁句であるが、ギリシア世界を根本的に理解するためにはどうしても避けることのできない概念であることをご理解いただきたい。ギリシア世界はいわばセム系の諸民族(バルバロイ)に取り囲まれた陸の孤島であったわけである。 その結果どういうことになったか。 彼らは戦士民族となった。彼らは戦いつづけないと生きられなかったし、生きるということはすなわち戦うことであった。彼らはわずか300人でも100万のペルシア軍と戦った(テルモピレーの戦い)。ところで戦うということは勝つか負けるかということである。勝った者は自由であるが、負けた者は自由を失う。彼らは自分たちを「自由人」と呼んだ。他方、自由を失った者を彼らは人間と認めない。自由を失った者はもはや「人間」とはいえず、家畜同然の存在であり、当然売り買いの対象となる。したがって奴隷制度が極めて当然の制度としてギリシア社会の基層を形成したが、このことに疑問を持った哲学者はまずなかったといって過言でない。ソクラテスもプラトンもアリストテレスも奴隷制度を一言も問題としていない。奴隷制度は彼らにとっては極めて当然な、また自然な制度であったわけである。そしてそれを支えていた理論は戦いの論理であったわけである。 このようにギリシア人は北方起源のアーリア系の民族であったため、地中海地域にあってもなお周辺のセム系の諸民族(いわゆるバルバロイ)と根本的に異なる心性を有する人たちだったということができる。彼らのそれら諸民族に対する差異意識は極めて大であったろう。非ギリシア的なものを異質のものとして受け取る根深い感性がギリシア人のもとにあったこと、のみならず2500年の西洋精神史の中にありつづけていたことは否定しえない事実である。この差異意識が彼らの文化を比類ないものとして自認させ(あの白亜のコンコルド神殿やパルテノン神殿を思い浮かべていただきたい)、また西洋世界に憧れを抱かせてギリシア文化をことさらに称揚させてきた根拠でもあったといって過言でないであろう。これを肯定的に評価するにせよ、否定的に対処するにせよ、われわれはこの差異意識は、それはそれとして受け止めねばならない。 奴隷や異民族にギリシア人は「差別意識」を持っていたであろうか。 このような質問をしてきた人があった。 この質問に対するわたしの見解はむしろ否定的である。奴隷は自由を失った者でもう「人間」とはいえず、家畜同然の存在であるが、家畜に対してわれわれは差別意識は持たないであろう。それに奴隷は有用であった。彼らの存在によってはじめてスコレー(閑暇)が生まれ、哲学も可能となった(アリストテレス)。それに当時のギリシア人はむしろ彼らがバルバロイと呼んだセム系の諸民族から学ぶ立場にあった。エジプト、カルダイア、フェニキアといった先進諸地域からギリシア人は幾何学、天文学、代数といった諸知識を取り入れ、それらをベースにして哲学もまた生み出されたのである。 また彼らの東方にあったペルシア帝国はその版図が地中海地域からインダス川地域にまで及ぶ強大な帝国であり、彼らは常にその脅威にさらされていて、軽蔑の対象とする余裕など彼らにはなかったであろう。東方オリエントの数多くの民族を見聞したヘロドトスですら、それら諸民族の多くの奇妙な風習を報告してどこか笑っているようなところはあるが、そこに軽蔑や差別意識といったものは感じ取れない。 このテーマでギリシア人ないしギリシア哲学を語るとき、ギリシア人は「差異意識」は大きかったが、「差別意識」はなかったか、ないしは極めて希薄であったというのがわたしの見解である。全体として見たとき、ギリシア世界は、厳しくはあったが、結構明るいのである。 クサカベクレス 1946 年京都府生まれ。別名、日下部吉信。立命館大学名誉教授。1969 年立命館大学文学部哲学科卒。75 年同大学院文学研究科博士課程満期退学。87-88 年、96-97 年ケルン大学トマス研究所客員研究員。2006-07 年オックスフォード大学オリエル・カレッジ客員研究員。著書に『ギリシア哲学と主観性――初期ギリシア哲学研究』(法政大学出版、2005)、『初期ギリシア哲学講義・8 講(シリーズ・ギリシア哲学講義1)』(晃洋書房、2012)、『ギリシア哲学30講 人類の原初の思索から――「存在の故郷」を求めて』上下(明石書店、2018-19)、編訳書に『初期ギリシア自然哲学者断片集』①②③(訳、ちくま学芸文庫 2000-01)など。現在、「アリストテレス『形而上学』講読」講座を開講中(主催:タイムヒル)。
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