第5回 ハイデガーとバウムガルテン(2)
前回は、エドゥアルト・バウムガルテンがアメリカ人デヴィッド・ルーバンとの対話で、ハイデガーとの関係悪化の原因として挙げている三つの出来事を紹介した。その記事の最後において私は、両者の関係悪化には二人の出身階層が異なることに由来する「ハビトゥス」の違いが大きな作用を及ぼしているのではないかとの見込みを示した。実際、これらの出来事からは、バウムガルテンがハイデガーのふるまいの垢抜けなさをいちいち嘲弄し、そのことがハイデガーのコンプレックスを刺激しているという構図が読み取れるのである。 第一の出来事は、バウムガルテン夫妻が多額の財産を保有し、自宅を購入する余裕をもちながらも、バウムガルテン本人は奨学金を受給していたことをハイデガーが詐欺だとして非難した案件である。フライブルク大学哲学部の学部長だったフォン・メレンドルフが仲裁に入り、その資産は妻の収入であり、それを取り置いて夫が奨学金を得ることはとくに問題ないだろうとバウムガルテンを擁護した。それに対してハイデガーはなお、家族のためにお金を貯めることと家を買うことは別の話だと不満そうにしていたという。 ハイデガーはつましい家庭の出身であり、神学の習得を断念したのちはカトリック教会からの奨学金も絶たれて、フッサールの助手になるまではつねに経済的に不安定な状態に置かれていた。他方でバウムガルテンの父親はギムナジウムの教師であり、美術史の専門家として大学で講師を務める人物でもあった。このように典型的な教養市民層の出身で当たり前のように高等教育を享受してきたバウムガルテンが、妻の収入に由来する資産をもちながらも、奨学金を受給していることにハイデガーは猛烈な不快感を抱いたのであろう。 逆にバウムガルテンは、こうしたハイデガーの反応をしみったれたものと受け止めた。この感覚は学部長のフォン・メレンドルフも共有していた。それゆえ彼は、前回のハイデガー雑記でも記したように、ハイデガーはプチブル根性が抜けないねという皮肉をハイデガーが立ち去ってから、バウムガルテンに対して述べたのである。 二つ目の出来事にも、両者の出自の違いが象徴的に示されている。ハイデルベルクの知識人サークルの有力者から賛辞を受けて舞い上がっているハイデガーを見て、バウムガルテンはそのナイーブさに心からあきれたようである。バウムガルテンの父親はマックス・ヴェーバーのいとこであるため、彼も幼い頃からその周辺の知識人を見知っていた。それゆえ彼らがハイデガーに心にもないお世辞を言っていることが手に取るようにわかったのだろう。そしてよせばいいのに、そのことをハイデガーに言ってしまったのだ。 これに刺激されたハイデガーは本当にそうなのか、ハイデルベルクに行って確かめるようにバウムガルテンに指示した。ハイデガーは元来、ハイデルベルクの知識人たちを哲学的‐学問的に自分とは相いれない存在と認識していたはずである。それでも自分への評価は気になったようだ。バウムガルテンはハイデルベルクに行って彼らの本音を探った。そしてフライブルクに戻り、彼らが案の定、ハイデガーの講演をそれほど評価していなかったことをハイデガーに伝えた。 学者の親をもち、また当代一流の知識人サークルの人びとに囲まれて育ったバウムガルテンからすると、ハイデガーの態度はいかにも垢抜けないものに見えたのだろう。彼はハイデルベルクでの見聞を、わざわざハイデガーの哲学に引っ掛けた謎かけに包んで、相手をからかうような仕方で伝えているのである。 三つ目の出来事は、ハイデガーの講義に出席していた日本人留学生が隣に座っていたユダヤ人学生に、「(授業に長年出席しているだけあって)ハイデガーにそっくりですね」と軽口をたたいていたのをバウムガルテンが小耳にはさみ、それをハイデガーに伝えたところ、ハイデガーが激怒したという事件だ。これには次のような伏線があった。 ちょうどその講義にバウムガルテンとハイデガーが一緒に向かう途中、若者がハイデガーに話しかけてきた。話が終わり、若者が立ち去ったあと、あれは誰かとバウムガルテンが尋ねたところ、ハイデガーはぶっきらぼうに「よく知らんユダヤ人だよ」と答えた。バウムガルテンはこの答えに困惑した。つまりハイデガーの露骨なユダヤ人差別に驚いたということだろう。バウムガルテンがよせばいいのに、ユダヤ人を見分けられない日本人が見るからにユダヤ人という風貌をした学生に対して冗談でハイデガーにそっくりだと言ったことをハイデガーに伝えたのは、このユダヤ人差別に対する意趣返しをしているのである。 以上の出来事からもわかるように、バウムガルテンは才気煥発で、幼少の頃から著名な知識人たちと身近に接していたせいか、物おじせず目上の学者のふところに入り込む独特の才能をもっていたようである。彼がまだ10代の頃からハイデガーに接近し、一時は親密な関係を結んでいたのも、そうした彼の資質によるものだろう。 しかし他方で、バウムガルテンは自分の才気煥発さを必要以上に振り回して、人間関係に波紋をもたらすことも多かったようだ。たしかに育ちのよいバウムガルテンからすると、ハイデガーのふるまいは野暮ったく見えて仕方がなかっただろう。ただそれにしても、彼のハイデガーに対する嘲弄的な態度は度を超えている。ハイデガーがバウムガルテンを蛇蝎のごとく嫌うようになったのも当然である。 もっともバウムガルテンの態度が行き過ぎだったとしても、彼がハイデガーに対して抱いた軽侮の感情は、他の学者たちもある程度は共有するものだった。つまりハイデガーとバウムガルテンの対立は大局的に見ると、それぞれの出身階層に由来する「ハビトゥス」の違いに基づくところが大きかったと言えるだろう。 ハイデガー自身、そうした知識人や学者のハビトゥスになじめないところがあり、それに対する反感をしばしば示している。彼が「田舎」や「土着性」を称揚していたことはよく知られている。このような土着性に基づいた生は実のところ、土着性から遊離した教養市民的なあり方と対置されていた。つまり彼の「存在への問い」そのものが、知識人や学者たちの「知」を問いに付すものであったのだ。別のところで詳しく論じたように[1]、ハイデガーのナチスへの肩入れも、そうした教養市民層、知識人層に対する批判的意識を抜きにして考えることはできない。ハイデガーはナチスの反エスタブリッシュメント的な性格に共鳴し、その台頭を近代知識人の根無し草的な生を根本から刷新するチャンスと捉えたのである。 そうしたハイデガーからすると、まさに旧来の鼻持ちならない知識人の権化であるバウムガルテンが突撃隊とナチ大学教員団に加入を申請し、ナチズムに追従しようとしていることは絶対に許しがたいことであった。ナチスがバウムガルテンのようなリベラル知識人を受け入れてしまえば、ナチズム運動の真に革命的な性質がうやむやにされてしまう――このような切迫した危機感から、ハイデガーは例の所見をしたためたに違いない。ハイデガーが所見において、バウムガルテンが「その血筋からしても、またその知的態度からみても、マックス・ヴェーバーを中心とする自由民主主義的なハイデルベルクの知識人サークルの出」であることをまずもって強調していることにも、今述べたようなハイデガーの根本姿勢が示されている。 ところで同じ所見においてハイデガーは、バウムガルテンがゲッティンゲン大学に職を得たのはフライブルク大学の「ユダヤ人フレンケル」のつてであることを指摘していた。この点について、バウムガルテンはアメリカ人ルーバンとの上述の対話できわめて興味深い証言を残している。それによると、ゲッティンゲン大学の職を自分に斡旋したのはフレンケルではなく、なんとハイデガーの師フッサールだったというのだ。そこで語られている事情は次のとおりである。(以下の記述も基本的にはすべて、David Luban, A Conversation about Heidegger with Eduard Baumgarten, in: Berel Lang, Heidegger’s Silence, London, 1996に依拠している。文中に記載されたページ数は、同書の参照箇所を示している。) バウムガルテンは1932年1月13日にハイデガーの演習で、カントのある章の解説を担当した(この演習は1931/32年冬学期の演習「『純粋理性批判』の超越論的弁証論、カントの実践哲学を考慮に入れて」であろう。この演習のためのハイデガーのメモなどが、ハイデガー全集84.1巻に収録されている)。その際、バウムガルテンは定言命法を取り上げ、カントはさまざまな動機を区別する能力を人間の本質と同一視していると主張した。ハイデガーはこの点についてカントはむしろ曖昧であることを強調しており、バウムガルテンの主張はそうしたハイデガーの解釈には反するものだった。演習でハイデガーはなぜか怒りだし、バウムガルテンにはカントを解釈する能力はないと言い、机をこぶしでたたいて「君によると、ひとは哲学を始める前によい人間でなければならないわけだ」と厳しい口調で述べた。バウムガルテンも机をたたいて「自分の発表のそのような解釈に抗議します」と応じた(p.106)。 バウムガルテンによると、彼はこのときハイデガーとの関係が終わったことを認識した。そして彼はフッサールのところに行き、このことを報告した。バウムガルテンが驚いたことには、フッサールはワインをもってこさせて、バウムガルテンの「解放(liberation)」を祝って乾杯した。バウムガルテンが演習の様子を詳しく語ったところ、フッサールは「なんだって?君は自分の発表に対するハイデガーの解釈に抗議したというのか?君はこう言うべきだったんだよ。『先生、あなたは私の主張を正しく理解されています――そして、それがカントの主張でもあったのです』と」。そしてフッサールはバウムガルテンが後日ハイデガーに手紙を書いたときも、それを手伝ってくれたという(p.107)。 二人が決裂した演習の一週間後、演習に参加していた学生たちがバウムガルテンの扱いについてハイデガーに抗議した。そのなかには、のちにフランクフルト学派の哲学者として知られるようになるヘルベルト・マルクーゼもいた。彼はバウムガルテンに対して、「君の過ちは演習でなにか新奇なことを述べたことだ」と述べたという。それから間もなく、ハイデガーはバウムガルテンに奨学金を支給していたリンカーン財団に手紙を書き、担当者にバウムガルテンは無能であると告げた。その結果、バウムガルテンは奨学金を打ち切られてしまった(p.107)。 バウムガルテンによると、そのときフッサールがゲッティンゲンでポストを得る手助けをしてくれた(p.107)。フッサールはフライブルク大学に着任する前は、たしかにゲッティンゲン大学で教えていたから、そこにつてがあったとしても不思議ではない。この時期にはハイデガーとフッサールの関係は決定的に冷え切っており、フッサールはハイデガーの学問的な離反を苦々しく思っていた。それゆえフッサールはバウムガルテンがハイデガーに反抗したことを面白がり、彼に職を世話するという形でハイデガーに意趣返しをしたのである。 バウムガルテンについてのハイデガーの所見を、当時のナチ組織の役職者はハイデガーの怨恨によるものとして重要視しなかった。しかし1935年になって役職者の交代とともに、この所見がふたたび取り上げられ、バウムガルテンは解雇を告げられた。その際、たまたまバウムガルテンの妻の友人が大学のナチ組織の事務所に秘書として勤めており、彼女が上司の不在時にバウムガルテン関連のファイルをこっそり彼に見せてくれた。そこでバウムガルテンは見慣れた筆跡で書かれた自分についての所見を発見するのである。バウムガルテンはその所見の写しを手書きで作成した(p.107)。 上でも述べたように、バウムガルテンはフッサールの手引きでゲッティンゲン大学にポストを得た。しかしハイデガーは所見で、「ユダヤ人フレンケル」のコネだと書いている。バウムガルテンによると、彼の就職の陰でフッサールが動いていたことはハイデガーも知っていた。たださすがにハイデガーはフッサールを指弾することはできず、代わりにフレンケルの名前を挙げたのだという(p.108)。 皮肉なことに、このことがバウムガルテンにとっては助けとなった。彼はナチ組織の役職者にアプローチし、自分はフレンケルを知らないと宣誓し、ハイデガーの所見があてにならないことを示すことができた。そして解雇を免れたのである(p.108)。 多くの人びとは以上のエピソードから、ハイデガーが世評どおり、とんでもなく卑劣な人物であることの証拠だけを読み取るだろう。しかしバウムガルテンもよく見ると、就職ではユダヤ人の世話になりながら、またハイデガーの反ユダヤ主義に困惑したと言いながら、ナチスが政権を取ると、ただちにナチスに迎合しようとしているのである。この機会主義的な変わり身の早さと、その時々の枢要な人物に巧みに取り入る彼の能力には驚かざるをえない。こうした節操のない機会主義こそ、バウムガルテンの生き方を特徴づけている。ハイデガーがバウムガルテンを警戒したのも、まったく根拠がないわけではないのである。 しかもバウムガルテンはその後、ナチ体制下でトントン拍子の出世を遂げさえしているのだ(この点については、拙著『ハイデガーの超‐政治』明石書店、2020年、124頁以下を参照)。彼はナチのイデオローグ、アルフレート・ボイムラーの庇護を受けて、1941年にはケーニヒスベルク大学の正教授にまで昇進した。バウムガルテンは通常は、「ナチ」だったハイデガーによって政治的に追い落とされた被害者と見なされている。こうした見方に覆い隠されてしまっているが、実はバウムガルテン自身が十分にナチであり、しかもナチ体制への順応ということで言えば、ハイデガーとは比べものにならない成功を収めたのである。 それにもかかわらず、戦後こうしたバウムガルテンの体制順応はほとんど問題視されなかった。この点について、バウムガルテンはインタビューで興味深いことを語っている。彼はドイツの敗戦後、イギリス軍政府によって「最上級のナチ(top Nazi)」に格付けられた。彼のラジオ演説をBBCが誤って翻訳してしまったことが原因だったという(p.108)。ここでは語られていないが、バウムガルテンが終戦直後にイギリス軍占領地域にいたのは、戦争末期にソ連軍の侵攻から逃れて、ケーニヒスベルクからゲッティンゲンに避難したためであろう。 バウムガルテンはフランス軍占領地域に逃亡し、フランス軍の将軍ピエール・ケーニッヒにラジオ演説の原稿を示し、その結果、非ナチ認定をされたという。その際、ケーニッヒの副官が彼の父の教え子であったことが大きな役割を果たしたという(p.108)。要するに、バウムガルテンは父親のコネを使って非ナチ化の処分を免れたのである。 このようにバウムガルテンはナチス政権の下で華々しい出世を遂げたにもかかわらず、非ナチ化の処分は巧妙に逃れた。そして彼は戦後も大学で教鞭を執り続けたのである。これはフライブルク大学の学長を辞任したのち表舞台には出ず、ナチス体制下では一貫して冷遇されていたハイデガーが、戦後に非ナチ化の審査をさんざん引き延ばされたあげく、実質的に解雇に等しい教職禁止の処分を受けたこととは対照的である。 これまで見てきたアメリカ人ルーバンによるバウムガルテンのインタビューでは、バウムガルテンとハイデガーの戦後の関係について、きわめて興味深い後日談が語られている。しかし本稿もかなり長くなってしまったので、これについては稿を改めて次回に論じることにしたい。 [1] 拙稿「「ハイデガーの哲学をまじめに受け取ること」……低い出自に由来する「反エスタブリッシュメント感情」が、彼をナチズムに近づけた?」講談社現代ビジネス、2023年8月23日、https://gendai.media/articles/-/115124 轟 孝夫 経歴 1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)、『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)、『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。
この記事へのコメントはありません。