第1回 SNS映えする哲学書:『存在と時間』
2017年に『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書)を上梓した。幸いにして、この本は世間に好評をもって受け入れられ、現在に至るまでほぼ毎年、増刷されている。本書は題名のとおり、ハイデガーの主著とされる『存在と時間』の内容を概観することに主眼を置いている。それゆえ同書では、『存在と時間』刊行後の数十年にわたる彼の思索の歩みや、しばしば取りざたされる1930年代に入ってからのハイデガーとナチズムとの関係については詳しく論じていない。 ハイデガーが20世紀のもっとも重要な哲学者であることは多くの人が認めるところであろう。しかしこれとともにつねに但し書きのように付け加えられるのが、彼がナチスに加担したという汚点をもつ人物だということである。このことゆえに、われわれはハイデガーを手放しで称賛することができなくなってしまう。それどころか、このナチス加担が彼の哲学的思索と何らかの仕方で関係するとすれば、彼の哲学そのものがナチズムに親和性をもった危険思想だという疑念をぬぐえなくなる。 私がハイデガーに関心をもちだしたのが、だいたい1980年代終わりであった。その時期はちょうど、ヴィクトル・ファリアスの『ハイデガーとナチズム』の刊行を契機として「ハイデガー・ナチズム問題」が思想界でかまびすしく論じられたときと重なっていた。ハイデガーとナチズムの関係については、1990年代以降、ハイデガーの未公刊の講義や覚書などが全集版として続々と刊行されたことにより、資料的な環境はそれまでとは比べものにならないほど充実した。しかしそうした資料の充実がハイデガー研究にはあまり反映されず、一般読者はおろか研究者でさえも「ハイデガーは根っからのナチだ」とか「ハイデガーは戦後、ナチス加担について反省を示さなかった」といった素朴な捉え方からいまだ脱却できていない。 そうした状況に一石を投じるべく、ハイデガーとナチズムの関係について、近年公開された新たな資料に立脚して単なる政治的断罪にとどまらない事象的な記述を提示しようとしたのが『ハイデガーの超‐政治 ナチズムとの対決/存在・国家・技術への問い』(明石書店、2020年)である。ちなみに本書の編集を担当していただいたのが、現在、傍流堂の社主を務めておられる柴村登治さんである。 マスメディアやSNSなどでのハイデガーに対する言及のなかでも、ナチス加担は頻繁に触れられる主題であった。それゆえ、私は長いあいだ『存在と時間』の難解な哲学的内容よりは、「ハイデガー・ナチズム問題」の方が一般読者の関心を集めるトピックであると思っていた。したがってまた、その問題について論じた『ハイデガーの超‐政治』は前著『ハイデガー『存在と時間』入門』以上の注目を集めるだろうと大きな期待を抱いていた。しかし結果はそれとはまったく異なるものであった。同書は一般向けの新書ではない点を差し引いても、前著と比べると売れ行きは芳しくなく、SNSでの言及もはるかに少なく感じられた。 結局、日本の読者はハイデガーに関しては、ナチス加担の「真相」を知りたいとはとくに思っておらず、それよりも『存在と時間』という著作に圧倒的に関心があるようであった。こうした見立ては、2023年に『ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書)を刊行することによってさらに裏づけられた。 私は同書で、ハイデガーの1910年代の思想形成期から『存在と時間』の刊行を経て、後期に至るまでの思索の歩みを概観した。そうした思索の展開のうちに彼のナチス加担がどのように位置づけられるかを前著以上に明快に示し、また類書では論じられることの少ない後期の「存在の思索」についても多くの紙幅を割いて説明した。 このように拙著『ハイデガーの哲学』は、私としてはハイデガー入門書の「決定版」として満を持して世に送り出した書物であった。しかしそうした自負にもかかわらず、本書は刊行直後のSNSの反響、さらにはその売り上げも『ハイデガー『存在と時間』入門』にはるかに及ばないものであった。私の落胆は大きかった。 以上の経験をとおして見えてきたのは、どうやら人びとはハイデガーについては、圧倒的に『存在と時間』という書物だけに関心をもっており、「ハイデガー・ナチズム問題」や『存在と時間』以降の思索の歩みにはほとんど興味がないということである。 そう言えば、たしかにSNSではハイデガーは『存在と時間』という著作と一緒に言及されることが多い。そこでは『存在と時間』は、とにかく読まれるべき偉大な哲学書といったイメージで語られている。そして自分がそうした哲学書の最高峰に果敢にチャレンジしていることをSNSで報告しているのである。つまりSNSでの『存在と時間』への言及は、たいていは知的な虚栄心からなされているのである。要するに、『存在と時間』は「SNS映えする哲学書」なのだ。 『存在と時間』という著作そのもののハードルが高すぎるというのであれば、さしあたりは同書の入門書や解説書が代替手段として認められてもいるようだ。拙著『ハイデガー『存在と時間』入門』に対する例外的な需要も、おそらくはそこに由来していたのであろう。 このような形で『存在と時間』を受容する読者が、同書において注目する内容はほぼ同じである。彼らは『存在と時間』の中心的な問い、すなわち「存在への問い」にはほとんど関心を示していない。そのことも仕方がないと言えば仕方がない。というのも、『存在と時間』は未完の著作であるため、その問いへの答えを提示する前の箇所で途絶してしまっているからだ。 さて、そうだとすると、読者は『存在と時間』のどのような点に興味をもっているのだろうか。SNSでの『存在と時間』の語られ方を見る限り、同書の内容のうちでもっとも注目されているのは、やはり「死への先駆」についての議論である。一般読者は哲学とは何か人生にとって重要で深遠な事柄を語るものだというイメージを抱いている。このようなイメージに『存在と時間』の「死」についての考察がぴたりと当てはまるのだろう。 もっとも読者が『存在と時間』から読み取るのは、死の問題だけではない。世間の同調圧力に埋没し、「おしゃべり」や「好奇心」にかまける「世人(ダス・マン)」という人間の非本来的なあり方についての記述も、「死への先駆」の議論に負けず劣らず人気がある。 こうした死と非本来的な世人という二つのトピックは、それぞれ無関係に言及されるわけではない。むしろその両者は、「われわれはさしあたり世人の同調圧力のうちで〈自分らしさ〉を見失っているが、おのれの死の可能性に直面させられることにより、自己の固有性を取り戻す」といった実存的な覚醒の物語としてセットで語られるのが普通である。 このように『存在と時間』はSNS上では、世間に埋没した自己疎外から「死への先駆」によって脱却することを説く、それこそ「実存主義的な」書物として語られる。たしかにこうした要素が『存在と時間』のうちにまったく見られないわけではない。しかしハイデガー自身が繰り返し注意しているように、『存在と時間』はこうした人生論について語ろうとした書物ではない。そもそもそのような人生論は、こう言うと申しわけないが、どうにもありきたりで、『存在と時間』を読まなくても語れるような代物でしかない。そうだとすれば、『存在と時間』についてのそうした言説こそ、実は世人のおしゃべりに類するものではないだろうか。 こうした世間で広く受け入れられている『存在と時間』の解釈においては、同書の中心的問いである「存在への問い」はまったく度外視されている。それゆえまた、このような解釈を奉じる人びとは、『存在と時間』で完全に遂行されなかった「存在への問い」に真正面から取り組んでいる後年の思索にも一切、関心を示さないのである。 しかもこの「存在への問い」こそ、ハイデガーのナチス支持の思想的根拠でもあった以上、「存在への問い」に関心をもたない人びとが彼のナチス加担の理由について正しい認識をもつことは不可能であろう。そしてそもそも彼らは『存在と時間』だけに関心があるのだから、その後のハイデガーの政治的逸脱はどうでもよいことでしかないのだ。 ハイデガーは『存在と時間』で世人のおしゃべりが、自分はすべてを了解しており、自分に閉ざされているものは何もないという信念に立脚していることを指摘していた。そうだとすると、『存在と時間』の上述のような人生論的な読み方の一面性を指摘し、読者を「存在への問い」というハイデガー哲学の根本問題へと導こうとする拙著の努力は、多くの読者には余計なお世話でしかないだろう。もし本をたくさん売ることが私の目標であったとすれば、私は読者のニーズを読み違えて、まったく誤った努力をしていたことになるわけだ。(続く) 轟 孝夫 経歴 1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)、『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)、『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。
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