第12回 「学問の危機」論争の行方
前回、マックス・ヴェーバーの講演「職業としての学問」をきっかけとする1920年代のドイツ論壇における「学問の危機」をめぐる論争について論じた。近代的学問が過度に専門分化し、「生から疎遠」となっていることに不満を抱き、それに代わる「世界観」を要求する学生たちに対して、ヴェーバーは同講演で、そうした学問のあり方は近代の「脱魔術化」の本質的帰結であり、それを時代の宿命として引き受けることを説いたのであった。 ゲオルゲ・クライスに属するエーリッヒ・フォン・カーラーは、1920年に刊行した『学問の職分』においてこの講演に対する批判の口火を切った。彼はヴェーバーが擁護する「古い学問」に対して、プラトン的な「イデー」を捉える「新しい学問」を提唱した。このカーラーの論考はゲオルゲ・クライスの中心人物であったフリードリヒ・グンドルフの強力な後押しを得た。こうして「古い学問」の守護者であるヴェーバーと「新しい学問」を唱道するゲオルゲ・クライスという、ワイマール時代の論壇を規定した学問論的な対立構図ができあがった。 同じ頃、フライブルク大学で大学教員としての活動を本格的に開始したハイデガーも、こうした「学問の危機」をめぐる同時代の論争に大きな関心を抱き、そのなかで自分の思想的な位置を定めていった。彼の「存在への問い」はそれ自身、近代の実証的学問とはまったく異なる知を打ち立てようとする試みであり、当時の学問論的論争においては明確に「新しい学問」に与するものだった。 ヴェーバーは「職業としての学問」において、学生たちの「新しい学問」の要求をないものねだりとして彼らに冷や水を浴びせかけた。それに対して、ハイデガーは学生たちの要望を正当なものと認め、それに対する哲学的な回答を示そうとした。学生もこのことをある意味、敏感に察知した。ハイデガーが『存在と時間』を刊行する前から、その名前は全国の大学で知られるほど人気があったという。哲学がこれほどの影響力をもつというような事態は今日のわれわれにはなかなか想像しにくい。しかしこのような異例の人気の背景には、ハイデガーが大学生から精神的指導者として受け入れられたという事情があった(この点については「第7回 ハイデガー vs. ヴェーバー」を参照)。 学生たちの「新しい学問」への希求は、第一次世界大戦の敗北後、ヴェルサイユ体制の軛のもとで苦しむドイツ民族の再興への願いと密接に結びついていた。それゆえ「新しい学問」を求める学生たちは、民族の再生を唱えるナチスの支持へと急速に傾いていくのである。そうした学生たちにとって1933年のナチスの政権奪取は、自分たちがこれまで要求してきた大学改革を貫徹する願ってもない機会であった。彼らはナチ党の後ろ盾を得て、各大学における「強制的同質化」の先兵となり、自分たちの主導の下で大学改革を推し進めようとした。 ハイデガーは学生たちの「古い学問」の克服という基本的方向性は認めつつも、彼らがそれに代わるものとして唱えている「新しい学問」は哲学的に不十分なものだと見なしていた。というのも、彼らの「新しい学問」概念は、学問が民族にとって有用であること、役に立つことを求めるといったものでしかなかったからである。ハイデガーからすると、こうした学問概念は対象領域の限定を不可避的に伴う理論的対象化という「古い学問」の本質をそのまま前提しているため、真の意味で「新しい学問」と言えるものではなかった。 このようにハイデガーは学生たちが求める「新しい学問」の導入が羊頭狗肉に陥る危険性を見て取っていた。そこで彼は自身の「存在への問い」に基づいた「学問の本質」の真正な理解へと学生たちを導くことにより、大学改革を正しい軌道に乗せようと試みたのである。ハイデガーがフライブルク大学の学長を引き受けたのも、こうした教育的な配慮によって動機づけられていた。 ナチスによる権力の掌握は、「新しい学問」と「古い学問」をめぐる1920年代以来の学問論的論争という観点からは、「新しい学問」の決定的な勝利と見なされた。それゆえこの論争において何らかの形で「新しい学問」の側に立っていた論者たちは、この機に乗じて大学から「古い学問」を追放して「新しい学問」を根づかせようと試みた。 たとえば教育学者エルンスト・クリーク(1882-1947)は「学問の危機」をめぐる論争に早い時期から参入し、ヴェーバーのリベラルな学問観が「共同体」、「教養形成」、「世界観」といったものと学問との本質的な関係を閑却していることを厳しく非難していた[1]。彼はナチスが政権に就く前からナチス支持を明確にしていたが、1933年の政権交代後はフランクフルト大学の学長に就任し、一時期、ナチスの教育政策をリードしていた。 またハイデガーが1920年代初頭から哲学の刷新への志を共にする「戦闘仲間」として親しく交わっていたカール・ヤスパース(1883-1969)も、1933年の政変後、大学改革についての提言書をしたためて州の文部省に送ろうとしたことがあった。その提言書は結局、送られることなくヤスパースの手元にとどめられた。彼はナチスに対しては批判的で、そのためにハイデガーとも疎遠になった。しかしそうしたヤスパースでさえも、ナチスが権力を握った直後は、大学改革の可能性を見て取っていたのである。 ハイデガーにとっては、ナチスによる政権奪取はまだ「新しい学問」の実現に向けた最初の一歩にすぎなかった。というのも、学生たちが唱えている「新しい学問」の概念は、先ほども述べたように、学問が民族にとって有用であることを求めるものでしかなく、その理論的な浅薄さは覆い隠しようがなかったからである。それゆえハイデガーは学長として、学生たちを真正な学問概念へと導くことにもっとも多くの力を注いだのだった(その典型的な実践は彼の学長就任演説「ドイツの大学の自己主張」に見ることができる)。 そうした努力にもかかわらず、ハイデガーは学長就任後、早い段階で自分の精神的な指導が学生たちに対して何の影響力ももたないという現実に直面した。ハイデガーの大学改革は学生たちの変革を目指す勢いを当てにしたものであり、その成否はひとえに彼らを学問の本質についての哲学的省察へと導けるかどうかに懸かっていた。したがって学生の教化がうまくいかなければ、ハイデガーの改革の試みが頓挫してしまうのは当然の帰結であった。こうしてハイデガーは学長就任後、1年足らずで学長職の辞任を余儀なくされるのである。 ハイデガーは学長から身を引いた後、ドイツの大学において「新しい学問」として喧伝されているものが、実態上は存在者の領域の理論的対象化に依拠する「古い学問」と異なるものではないことをことあるごとに指摘している。たとえば彼は1936~1938年頃に書かれた『哲学への寄与論稿』のある箇所で次のように述べている。 「学問」は〔本来的な意味での〕知ではなく、説明領域の正当性を設定することであるから、「学問」はまた必然的に、そのつど新たな目標設定から、ただちに新たな「刺激」を受けるのであって、そうした刺激の助けによって、「学問」は同時に、あらゆる可能な脅威(すなわちあらゆる本質的な脅威)から逃れ、更新された「落ち着き」のうちで、さらに研究を進めていくことができる。こうして今や、「学問」が次のことを自覚するまでには、そう何年も時間は必要としないだろう。すなわち、その「自由主義的な」本質とその「客観性の理念」は、政治的‐民族的「方向づけ」とうまく両立するだけでなく、そうした方向づけにとって不可欠でもあるということである。そしてそれゆえ、今や「学問」の側からも「世界観」の側からも一致して、学問の「危機」といったことについて語るのは、実際単なるおしゃべりにすぎないということが認められねばならないのである。[2] 1920年代にさかんに議論された「古い学問」と「新しい学問」(世界観)の対立は、ナチス時代になると自由主義的で客観的な学問と、世界観的な方向づけをもった学問の対立として解釈されるようになる。つまりナチスの学問論においては、「新しい学問」は「政治的‐民族的方向づけ」に即した学問を意味するものになる。上の引用でハイデガーが指摘しているのは、そのように理解された「新しい学問」と「古い学問」のあいだに実際のところ本質的な対立はなく、それどころか互いにそれぞれを必要としあう関係にあるということである。 これが意味するのは次のようなことであろう。すなわちわれわれが何を客観的な学問研究の対象とするかは、世界観によって方向づけられる。逆に世界観はそれ自身の具体的な内容や裏づけを、客観的な学問研究から獲得するということである。たとえばナチスのように人種主義的世界観を促進したいのであれば、それに資する客観的な学問研究の振興を図るだろう。またマイノリティの権利擁護を推進したい場合は、そうした目的に適合した学問研究が奨励されるに違いない。このようにある研究が世界観的に方向づけられているということと、それが客観的であるということは何ら矛盾しない。それどころか、そのつど任意の対象を選んで、それに対して方法的手続きを適用するという客観的学問のあり方そのものによって、さまざまな世界観による学問の利用が可能になっているのである。 ハイデガーは上の引用で、今や「古い学問」の側からも「新しい学問」の側からも、学問の「危機」について語ることは無駄だと認識されるようになったと述べている。このテクストが書かれたのは、ナチスが1936年に施行された四か年計画により本格的な戦争準備を始めた時期と重なっている。世界観的目標を追求する戦争遂行のために学問の動員が大々的に推進されるようになったとき、「古い学問」と「新しい学問」の対立は解消され、もはや誰も「学問の危機」など問題にしなくなったとハイデガーは皮肉っているのである。 以上のような議論によってハイデガーが批判しているのは、「新しい学問」が「古い学問」の克服を唱えながらも、「古い学問」の本質を温存し、それを助長さえしているといった事態である。ハイデガーはここに「新しい学問」の裏切りを見て取るのである。 ハイデガーからすると、問題は「新しい学問」の規定のあいまいさ、不徹底さにあった。そうした問題意識のもと、彼は学長時代には自身の「存在への問い」によって「新しい学問」に哲学的な基礎を与えようと試みていた。彼によると、「新しい学問」は何よりも「存在」了解の根本的転換を必要とする。このような哲学的議論が人びとに理解されにくいということは、ハイデガーも十分に承知していたであろう。しかし彼が学長在任中やその後の経験から新たに認識したのは、哲学的に不徹底な「新しい学問」の主張が「古い学問」を温存し、しかもそれを積極的に助長するという「古い学問」と「新しい学問」の共犯関係であった。 結局、学問の意義をめぐるワイマール時代の論争が行き着いたのが、「学問は社会の役に立つものでなければならない」という結論だった。この条件を満たすことにより、学問はおのれ自身の意義をふたたび確認し、学問の本質についての面倒な考察はもはや必要ないと思うようになるのである。 こうした学問論は今日ではもはや自明のものとなり、何か特別な学問論的な立場として意識されることもない。大学に所属する研究者には、学問研究に公費が投入されている以上、それが国民に役立つものであることがつねに求められている。また科研費などの競争的研究資金に応募する際も、自分の研究テーマがどのような社会的要請や課題を満たすものであるかをアピールすることは不可欠である。 私自身、研究者として活動するなかで、自身の研究の社会的課題への貢献や「政治的正しさ」への適合性をアピールすることがないわけではない。しかし正直に告白すれば、そうしたアピールは心から信じてというよりは、研究費を取るための方便として行っていたことは否めない。私が仮にナチス時代に研究者として活動していたとしても、おそらく同じようにふるまっていたに違いない。ナチスの世界観に心服していないにせよ、自分の研究がそれに適合しているように見せかける努力はしたであろう。そうしなければ現代日本でもナチス時代でも、大学のポストを得たり、研究費を獲得したりすることはできないのだ。 今日のハイデガー研究において、現代基準の「政治的正しさ」を振りかざして、ハイデガーのナチス加担を途方もない悪として非難することはめずらしいことではない。本連載の以前の記事(第2回など)でも述べたように、とりわけドイツではハイデガーを研究するにあたって、まずはこうしたスタンスを明確に示すことが求められる。しかし上でも見たように、ハイデガー自身のテクストを読めば、彼を純粋なナチだとするような解釈が成り立たないことは明らかである。それにもかかわらず、多くの解釈者はそうしたことを一顧だにしない。こうした彼らの態度を見るにつけ、彼らが仮にナチス時代に生きていたとして、これと同様の体制順応性が発揮されないという保証がどこにあるのかという疑問を私は禁じえないのである。 [1] Richard Pohle, Max Weber und die Krise der Wissenschaft: Eine Debatte in Weimar, Göttingen, 2009, S.65f.. [2] Martin Heidegger, Beiträge zur Philosophie (Vom Ereignis), Gesamtausgabe Bd. 65, Frankfurt am Main, 1989, S.149.〔 〕内は筆者の補足。 轟 孝夫 経歴 1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)、『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)、『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。
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