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第12回 奈良再々訪

「生まれも育ちもここ、京都三条ですけど、まったくといっていいほど神社仏閣に興味はなかったんです。それが父が大病を患ってしまったことで、西国三十三所巡礼をやりまして。それからですね、寺社巡りを頻繁に行うようになったのは。別に大きな興味を持っていなくてもふらっと足を運んでみると、それぞれ個性というか、見どころがちゃんとあって、面白く感じるものなんですよね。ああ、三輪山に行かれたのですか。すごく大きな鳥居があったでしょう。京都に引けを取らず、奈良はポテンシャルの高い地だと思います。壷阪寺なんてかなり山奥にあるのに、外国人の方々がたくさんいたのには驚きましたよ。朝護孫子寺も立派なお寺ですけど、私は長谷寺には7、8回は行きましたかね」

 見知らぬ土地に住むことになれば、そこに長らく住んでいた人からの情報収集は欠かせない。昨春、京都に移住してからは事あるごとに京都人にちょっかいを出してきたが(YMCAプールに集う御隠居さんたちが主なターゲット)、借りたマンションの隣に小奇麗な床屋があったのは幸いであり、さらに幸いだったのはマスターがかなりの腕利きだったこと。僕は超短髪だけに、結構、繊細さが求められる(と思う)。そしてダメ押しが記憶力抜群の物知りだったこと。「この前、清水寺のうらぼん法話を聞きに行ったんですよ。話し手がゴリラの研究者…えっと、名前は何でしたっけ」と口ごもると、すかさず「山極寿一さんですね」と助け舟を出してくれるし、「今日は山崎の美術館へ行ってきたんです。民藝の展示もやってまして」と仕入れたばかりの情報を披露しようとすると、「ああ、今は民藝でしたか。バーナード・リーチ、濱田庄司、河井寛次郎…日常の生活道具とはいっても彼らが残したものはセンス溢れる逸品ですよね」と有名人の柳宗悦や棟方志功を差し置いて、影の立役者の名前が矢継ぎ早に飛び出してきたかと思えば、「その大山崎山荘美術館は廃墟寸前だったところを回収して、今の立派な建物に作り替えたそうで。併設されてある安藤忠雄が設計した地中館もこじんまりとした感じが山荘とマッチしていますよね。モネの絵も素敵です」と小ネタも忘れない。とりたてて自慢げな語りではなく、あくまで世間話の一環として切り返してくるから単純に聞いて楽しい。無料だし。それにしても人名や地名がポンポンと出てくるのは地頭がいい証拠か、それとも四六時中お客さんと会話をしているせいか。何はともあれ、「奈良はポテンシャルが高い」との発言は妙に心に響いた。ある意味、奈良文化はまだまだ人口に膾炙していないとも。僕がまさにそうだったが、例えば関東に住んでいる人で古都巡りをしようと思い立っても、少なくとも3、4日くらいの日程が用意されていないと奈良まで足を運びにくい。結局、京都オンリーとなってしまうのがオチであり、たとえ1日を奈良にあてることができても東大寺周辺の観光で手一杯だ。それゆえ「奈良はまた今度」となってしまう。しかし、奈良こそヤマト(=日本)創世の地とも言えるし、古墳はもちろん、珍しい建築物、仏像も多い。1度や2度の訪問で満足できるわけがなく、雄弁なマスターに背中を押され、そしてまた奈良国立博物館で開館130年記念特別展「超国宝―祈りのかがやき―」が開催されているということで、この春、再びならぬ三度目の奈良訪問となった。

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 飛鳥時代に作られた奈良・中宮寺の菩薩半跏像、東京・深大寺の釈迦如来倚像は「超国宝」展の目玉。これらは他に類を見ない造形物だ。6月初旬の爽やかな青空が見える週末、心弾ませて近鉄奈良駅に降り、しかし道端に転がっているおびただしい鹿の落とし物を踏みつけないよう注意を払い、観光客の多さにおっかなびっくりの妻と離れないよう心掛けながら、博物館前までやってきた。何やら、建物を取り囲むように人が連なっているのが見える。これはもしかして…ああ、やっぱり、「超国宝」展目当ての大行列であった。チケットを持っていない人は1時間半待ちだとか。我慢に我慢を重ねて入ったところで、展示品を落ち着いて鑑賞できないのは必至だ。「まさかここまでとはね」と呟く二人。しかし、誰のせいでもなく、これを予想できなかった僕らのせいであり、奈良の底力というか、「国宝」という言葉の魅惑的な響きに少し無頓着過ぎたようだ。そういえば近々、いつもの昭和のモノクロ映画ではなく、ロードショーの『国宝』を見に行くつもりなのを思い出した次第である(原作は非常に面白かった)。

 仏像は本来、あるべきところにある状態でこそ輝きを放つもの。またの日に中宮寺や深大寺へ足を延ばせばよいのだと自らを強引に説得してプランBを発動させた。『飛鳥園』への訪問である。大正11年、朝日新聞社に在籍していた写真家、小川晴暘が会津八一の熱心な勧めを受けて、仏像などの文化財の撮影を行うために創業した施設だ。以前、東京で行われた展覧会の広告写真に衝撃を受け、いつか彼の作品をまとめて見てみたいと思っていたのだ。「仏像写真を芸術の域にまで昇華させた」との謳い文句は決して嘘ではなく、彼が撮影した仏像たちは躍動している。鬼気迫る凄みを見せるものがいれば、異様なほどの静けさを漂わせているものも。こちらとしては仏像に対する印象を変容せざるを得ない。日本屈指のハンサムボーイ?興福寺の阿修羅像で仏像フェチに陥ってしまった淑女は数え切れないほどいるだろう。あるいは、東大寺戒壇堂四天王広目天像、新薬師寺金堂十二神将・伐折羅大将像のようなカッコいい男になりたいと思った輩も一人や二人ではないはず。彼の作品は、制作者の魂が制作物に宿っていることを再確認させる。仏像は生きているのだ。

 飛鳥園の住所と思しき場所をうろついてみるが、カフェのような食事処のような飲食店があるだけ。はて、これはいったいどうしたことか。その店の横にある小路を進んでみると、奥は猫の額ほどの広場になっており、その脇に暗闇に包まれた小さな建物があった。どうやらここがギャラリーのよう。今日はたまたま休業をしているだけかもしれないが、すでに閉鎖されてしまったかのような寂れぶり。広場の柱に飾られてある小川のパネル写真をいくつか見るだけにとどめて立ち去った。

 事前にしっかりとした予定を立てていかなくても旅は面白いが、うまくいかないときはとことんうまくいかない。時間が無駄に過ぎていってしまう。博物館に続き飛鳥園もスルーせざるを得なくなった今、僕らにはプランCしか残されていない。とはいえ、これはノープランのこと。もはや行き当たりばったりの旅と化したわけだ。しかし、奈良公園で立ち往生をしている暇はなく、すぐさま本日のメインターゲットでもあった東大寺へ足を向けた。

 ―――――

 おそらく高校時代、修学旅行で訪れたことはあるはずだが、まったくといっていいほど覚えていない。もはや初めての訪問に近い。と、その前に東大寺ミュージアムにも立ち寄ることに。先月、感服させられた岡寺の如意輪観音座像と同じ、塑像(土でできた仏像)が入口正面にスクッと立っていた。こちらも奈良時代の制作物。岡寺の塑像とは違い、精緻な造りで高貴なる佇まい。その日光菩薩立像、月光菩薩立像は、彼らの真ん中に屹立している千手観音菩薩立像を凌ぐ存在感。決して脇役ではない。このような国宝、あるいは重要文化財は劣化防止のため保存に適した環境下に置かれるケースが増えているだけに(前述したように僕は好ましいとは思わないが)、宝物館のある寺社に訪れた際は出来るだけ立ち寄ることにしている。無駄足になったことは一度もない。

 まだ旅は始まったばかりなのに、早くもお腹が空き始めた。ミュージアムの前、南大門の近くのベンチが空いている。この辺りのお店はどこも混んでいるに違いないと予想し、近鉄奈良駅でおにぎりを購入していたのだ。今日は天気がいいし、過ぎ行く人たちを眺めながら頬張るのは楽しい。時おり近づいてくる鹿には要注意しなければならないが、「お前には絶対にやらないよ」と鉄の意志でもって睨みつければ近づいてこないもの。そこは同じ動物、以心伝心だ。すると鹿たちは無邪気に笑っている外国人観光客のほうへ向かう。しかし、食べ終わり頃にやってきた牡鹿はなかなかのつわものだった。鉄の意志にも馬耳東風ならぬ鹿耳東風。僕の手提げ袋に強引に頭を突っ込むや、大切な本をバリッと齧りだした。こんな素っ気ない紙でも美味しいのか。一応は神の使いとされている生き物だけに丁重に追い払い、いよいよ大仏を目指すことにした。

▲奈良公園の鹿

 正面の左側にある入り口を通り過ぎると、大仏殿すなわち金堂が見える。これまで見たどこの本堂よりも大きい。真正面ではなく斜めからのほうが金堂の大きさが、奥行きの深さが明瞭に察知できる。とりたてて大きいものに魅力を感じる性分ではないが、東大寺大仏のルーツである洛陽の龍門石窟もさることながら北京の紫禁城も目の当たりにしてみたいという欲望が生じてきた。松家仁之の近著『天使も踏むを畏れるところ』(新潮社)の主人公、村井俊輔(≒吉村順三)が若かりし頃の東アジア旅行で受けた衝撃…「太和門を抜けると、そこには距離感を失わせる海のような空間が広がっていた。遠く向こう岸に見えるのが、中国最大の木造建築である太和殿だった。黄瑠璃瓦の壮大かつ優美な広がりと重量感」(同書上巻、95ページ)は東大寺とはまた一味違う感覚だろう。紫禁城のスケールには及ばないものの、東大寺には大陸的な茫洋さが感じられ、奈良の大仏さん=盧舎那仏坐像も我が視界に収まり切れないほどの大きさであった。

▲盧舎那仏坐

 
黒々とした四角張った顔、体。「東大寺の大仏こそ東アジア世界の仏教文化の終着駅」と『華厳の思想』(講談社学術文庫、4ページ)で鎌田茂雄が語っていた華厳宗のシンボル的存在であり、聖武天皇による破格な一大プロジェクトの痕跡だ。万葉集に海犬養岡麻呂(あまのいぬかいのおかまろ)のこんな歌がある(大岡信『私の万葉集』講談社文芸文庫を参照)。

 御民我 生けるしるしあり 天地の 栄ゆる時に あへらく思へば                             

 〈天皇の御民(みたみ)である私は、まことに生き甲斐を感じております。天も地も一体となって栄えているこの御代に生れ合わせたことを思いますと〉                             

 実はこの歌、一億一心、国体護持といった国家イデオロギーが高唱された太平洋戦争中に名声を博したという。作者からしてみたら後世による驚きの利用であったが、「この歌そのものは、現実に自分が感じとっている世の中の有様に対する満足感をそのまま素朴に歌っているだけ」(同書第二巻、140ページ)。しかしながら、聖武天皇の栄華は長くは続かず、この歌が詠まれた天平6年(734年)から僅か6年後には都を捨て、漂流のような遷都の旅に出る。そのさなかに大仏造りの詔(みことのり)を発布し、開眼式が行われたのが752年。波乱万丈の人生の終着地であった。その後の東大寺は大きな火災が2度あったがその都度、建て替えられ、いまや世界有数の観光名所に。この日もすれ違うのは外国人ばかり。ちなみに、大仏殿はかつて今よりも約1.6倍の規模を誇っていたが、大仏さんはというと、ひと回りほど大きかったくらいのようだ。

 再び南大門を潜って、南へ進む。「元興寺に行きたい」と連れが言う。由緒あるお寺のようだが、よくよく聞けば、ついこの前訪れた飛鳥寺(=法興寺)が元興寺の前身だという。奈良への遷都に伴い、養老2年(718年)に新京に移り、元興寺に改まった。この寺地が〝平城(なら)の飛鳥〟と呼ばれるようになったのも自然の流れだろう。
 当時の状況を如実に伝える大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の歌がやはり万葉集にある。

 古郷の 飛鳥はあれど あおによし 平城の明日香を 見みらくしよしも

 今の新しい住まいも悪くはないが、かつて慣れ親しんだ地への思いも捨てがたい。そんな気持ち=本音を反転させて吐露したものか。個人の気分や都合で引っ越しなどできなかった時代。そうであるからこそ郷愁もまた生じるのか。丹比国人(たじひのくにのひと)も似たような心情をこう歌にした。

 明日香川 行き廻る岡の 秋萩は 今日降る雨に 散りか過ぎなむ

 「古郷」は奈良から見ての古京、すなわち明日香や藤原であり、「行き廻る岡」は明日香川沿いにある雷丘だ。〈明日香川がその裾を流れめぐっている丘、その丘に咲いている萩は、今日降っている雨にあえなく散ってしまうのだろうか〉と大岡は訳している(同書第三巻、47ページ)。幼き頃から体内にしみ込まれた四季折々は終生、忘れ得ないものなのだろうか。それが本当なら、現代を生きる僕の感受性はいかがなものか。半世紀ほど住んだ東京から400キロ以上も離れた場所での新生活にはまったくといっていいほど違和感はなく、そしてまた東京を懐かしむ気持ちも生じない。「脳化社会」[1]の寵児に成り果てたか、はたまた生粋の根無し草か。

 東大寺から15分ほど歩いて元興寺に到着。かつては南北に約440メートル、東西に約220メートルもあった広大な敷地はいまやだいぶコンパクトになったが、国宝、重文が満載である。その極楽堂でまずはお参り。境内には旧庫裏や茶室、そして石塔のアートたる浮図田など見どころは決して少なくなく、極楽堂や禅室の屋根瓦も面白い。水道管を半分に切ったかのような丸い瓦が整然と並んでいる。法隆寺玉虫厨子の屋根表現もこの丸瓦を意識して制作されたとか。併設されている法輪館(宝物館)では、精巧極まりない五重小塔、太子誕生650年を記念して造立された聖徳太子立像がとりわけ印象深かった。

 少し時間に余裕がある。近鉄奈良駅の反対方向、つまり南へ歩いてみることにした。この周辺は〝ならまち〟と呼ばれ、人々の暮らしが今も息づくところ。派手派手しい店はなく、たまにひょんなところで飲食店や雑貨屋に出くわす。これが往々にして魅力的な雰囲気を漂わしているのだから散策にも飽きがこない。スマホのマップというアプリで探っていると、元興寺のかつての境内だったせいか、この辺りは寺院が多いことに気付く。そんな中で十輪院になぜか惹かれた。道端から見える境内も小ざっぱりして端正な佇まい。人気はなく、本堂脇の受付にもやはり人の姿が見えない。ブザーを鳴らすとじきに神妙な面持ちの尼さんが現れ、拝観料を払い、チケットを受け取る。あまり歓迎されていない感じである。観光客はお呼びではないのか。少し戸惑いながら堂内へ進入したところ…妙な違和感を覚えた。天井が低い。本尊も見当たらない。さきほどの元興寺とはまるで違う。ここは新興宗教の類かと脳裏をよぎり始めたが、よくよく見れば、仏壇の奥に洞窟のようなものがある。さながら狸谷山不動院のよう。さらに近づいて目を凝らせば。石壁に仏様が彫られているではないか。これが〝石仏龕(せきぶつがん)〟。本尊の地蔵菩薩は中央に、その左右に釈迦如来、弥勒菩薩を浮き彫りで表している。世にも珍しい厨子だ。いつの間にか尼さんが背後に来ており、この極楽浄土を願う地蔵世界を説明してくれた。言葉遣いはあくまで丁寧で聞き取りやすく、表情もさきほどとは打って変わって柔らかい。ほんわかとした外貌の地蔵菩薩と重なって見える。こちらも穏やかな気持ちになってくる。

 世の中を 憂しと思ひて 家出せし 我や何にか かへりてならむ

 作者未詳の万葉歌。〈世の中をつらく厭わしいと思って出家した私だ、今さら還俗して何になろうか〉と訳した大岡は仏教の教えを説く釈教歌ではないかと推測しているが(同書第四巻、18ページ)、この歌の主人公は出家してから日が浅く、まだ世俗に後ろ髪惹かれる思いが残っているに違いない。一方、僕らより少し年が上と思しき十輪寺の尼さんには一点の曇りもない、これぞ明鏡止水の佇まいだ。かつてドイツの建築家、ブルーノ・タウトは十輪院境内の風情を絶賛していたようだが、僕らはわずかな時間ながら、品格ある尼さんと素敵な時間を過ごせたことが何よりの土産となった。

 駅方面へ歩いて行く。目論見通り、15時少し前に着いた。カキ氷好きの妻が長年、焦がれていた「kakigori ほうせき箱」である。相当な人気店のようで、事前に予約をしないと入れない。よって、これまで縁遠かった。もっとも、奈良のカキ氷文化(『日本書紀』には仁徳天皇が奈良の氷室から運ばれてきた氷に喜ばれたとの記述があり、庶民はというと、氷の溶け具合でその年の稲作の出来を占っていた)を引き継ぐ名店なのだから一度くらいは行ってみたい。妻の機嫌がいいのに越したことはない。前日に予約を完了。なんだかんだ無駄な時間は一切なく、グッドタイミングで「kakigori ほうせき箱」にたどり着いたのは普段の行いの良さだろう。

 まずは入り口で8つくらいある本日のメニューから選ぶ。「奈良いちご」なら分かりやすいが、「柿の葉和紅茶」や「ミルクボーロ」と言われてもイメージできない。ちょっと迷った挙句、僕は無難な「パステルフルーツ氷」を、連れは「抹茶氷」を選び、席へと移動する。じきに運ばれてくる。カキ氷の上部を覆っているミルクエスプーマが見た目からして秀逸だ。食べてさらに感激。純水を72時間凍らせた氷との相性が抜群なのだ。これだけではない。カキ氷の内部にも〝味変〟ならぬ〝味強〟が潜んでいる。食べ進めて飽きるどころか、もっと食べたくなるのだ。これもひとえに旨味が強まっていくから。往々にして最後は飽きがきてしまうカキ氷だが、僕のマラソンと違い、最後までスピードが鈍らない。一気呵成にフィニッシュとした。そもそも器がしっかりと冷えているから氷もなかなか溶けない。

「美味しいね」

「うん、美味しいよね」

 結局僕らは歌より団子である。

▲kakigori ほうせき箱の抹茶氷


[1] 養老孟司氏による造語で、身体や感覚よりも、脳(=情報処理や論理的思考)に重きを置く社会のあり方を表す。


虎石 晃

1974年1月8日生まれ。東京都立大学卒業後は塾講師、雑誌編集を経てデイリースポーツ、東京スポーツで競馬記者を勤める。テレビ東京系列「ウイニング競馬」で15年、解説を担当。著書2冊を刊行。2024年春、四半世紀、取材に通った美浦トレーニングセンターに別れを告げ、思索巡りの拠点を京都に。趣味は読書とランニング。

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