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第1回 イヌ、ネコは存在の真理に触れているか

 クサカベクレス=日下部吉信先生のオンライン講座[1]に出ていて、発言を求められることがある。どうもオンラインでの対話というのが得意ではなくて、お互いの顔を突き合わせての(その時空間全体を共有する)対話だったらいいのに、と思うことがよくある。

 その日の講座[2]でも発言を求められた。

 日下部先生はカメラをオンにされているので、こちらもオンにすれば表面上は顔を見せあっての対話ということになるのだが、先日負傷して、まぶたの上を数針縫い[3]、絆創膏が貼られ、右目のまわりが「パンダの目」みたいになっていたので(医学的には「眼窩周囲血腫」という)、余計な心配をさせてしまうと思った。それでこちらは声だけでの登場になってしまった。しかし、仮に顔を映して発言をしたとしても、実際にお会いして話をする、というときとはやはり何かが少し違ったものになっただろう(端的に言えば対話の「リアルさ」を欠く)。

 * * *

 その場で言いたかったのは、次のようなことだ。

 存在の真理というものがあるとしたら、僕はそれに少しでも近づきたい。そして主観性の原理が存在を覆い尽くしてしまうというようなことがこの先あるようなら、なんとかしてそうなる前に存在を救い出したい(「救い出す」という表現が誤解を与えるなら、「そうした状況を回避するための方策を探りあてたい」と言い換えてもよい。クサカベクレスの言葉を借りるなら、「主観性に代わって存在が立ち現われねばならない」)。

 主観性とは、主観であること、または主観的であること。主観性の原理とは、認識や行為の根本(原則)を主観性に置くこと。クサカベクレスによれば、「(物事を自らの)前に立てる原理」。相対しているものを前に立て対象化(表象)し、言語化・数値化して(ここでは数値と言語は似たような意味)それを理解したい・説明しようとする原理。

 これに対して存在とは対象化できないものであって、自然そのもの(ピュシス)といってもよい。「自然は隠れることを好む」とのヘラクレイトスの言にある通り、本来は我々人間からは隠れている(見えにくい)ものである。

 そうした対象化されえない存在について、対象化して説明・理解したいとするのが「主観性」であり、そこにいま地球上で起きているさまざまな問題の根があるとクサカベクレスは考えている。僕もこれに同意する。前に立てる原理である以上、そうやって対象化した時点で、主観性がとらえているものは、当の理解したい(その正体を知りたい)存在とまったく同じものとは言えない。最初から主観性は存在からは離れてしまっており、何らかの「ズレ」を含んでいる。ズレを含まざるを得ない。ズレているものを、ぴったり一致している、同一のものである、と考えることはできない。

 一方でクサカベクレスは「(人間は)主観性を乗り越えることはできない」という。もちろん僕も人間である以上、主観性からは逃れられないのだろう(しかし本当にそうだろうか? ピュタゴラスが主観性を人間に移植する、主観性を植え付ける以前の古代ギリシア人たちのようなあり方を生きることは不可能なのだろうか?)。僕自身、現に主観性ないし主観性原理とともに生きている(生きてきた)面があることも否定はしない。主観性を使うと便利だし、ある意味で楽だと思えることも確かにある。合理的。現代に生きる僕は、主観性原理のおかげで今日のような姿になっていると思われる科学の恩恵もしっかりと受けている。それらを一切放棄すると、僕の日々の生活はたちまち成り立たなくなってしまうだろう。しかし、それでもなお、主観性(原理)が存在を覆い尽くしてしまう場面を想像すると、僕はとてもつよく恐怖を覚えるのだ。そう、「恐怖」。怖いのである[4]。現代社会を見渡してみると、その傾向はますます強度を増してきているのではないだろうか。

 いうまでもないことだが、主観性(主観性原理)を批判する、ということは主観性を全否定することではない。そういうことではない。主観性(主観性原理)のすべてがダメだと言いたいわけではない。先ほど書いたように、主観性(主観性原理)が人間の社会生活をある意味でスムーズにするといった面ももちろんあるし、近似値的にならば存在に迫れる(存在理解に寄与する)といった面もあるだろう。科学は主観性原理によって発展してきた。批判とは、大雑把に言うと、何か主張のようなものがあるとして、それと反対のことを言うことでは全くなく、そのよい面わるい面(「賛同・肯定できる面できない面」と言い換えてもよい)を吟味するということだ(そうでなければ議論というものの意味はなくなってしまうだろう)。僕が言いたいのは、主観性原理は決して万能ではなく、限界があるということ、主観性(主観性原理)にはよい面ばかりではなく、影や負の部分もある、ということだ(多くの人がそれを手放しで称賛・評価しているように見えることには反するかもしれないが)。

 そうした問題意識を持つなかで毎週、クサカベクレスの講座に参加し、主観性原理が存在を覆い隠してしまおうとしている状況があるとするならば、そうした状況に抗うための、あるいは人間や存在がそうした波に飲み込まれてしまわないようにするためのヒントを得たい、とクサカベクレスや他の参加者が発する言葉に耳を傾ける。

 * * *

 存在の真理に到達したい。

 その日、僕は、以前一緒に暮らしたイヌやネコのことを話題にして、彼らのほうがむしろ「存在の真理」に触れている面があるのではないか、というようなことを言った。彼らは人間が使うような言語・言葉を持っていない。彼らには宗教や哲学もないだろう。それでも、彼らのほうが存在の真理に近い、あるいはそれに触れていると感じたことがこれまでたびたびあった。彼らは何かを自らの前に立てたりしないし、対象化したりもしない。自らの存在を(ただ)生きている。自分以外と接するときには(例えば僕と遊んでくれるときのある瞬間などには)、西田幾多郎の「物自身となってものを見る」を実践していると思えることもある。他の事物と同一化している。そのときイヌやネコは人間になっているだけでなく、僕にもなっている。

 彼らとは気持ちが通じ合っていると実感できたときさえあるが、これが人間相手だと、なかなかそういうことを実感することは難しい(笑)。存在の真理に到達するには、言葉や人間のものの考え方が邪魔になるという面もあるのではないだろうか。

 人は誰もが、程度の差はあれ先人の考え方の影響を受けている。それはもとを辿れば、初期ギリシアの哲学に遡ることができるのかもしれない。そこで勃発した「存在vs.主観性」という哲学上の抗争が言わば精神の戦いとして現代にも続いているというのがクサカベクレスの主張である。哲学を知らないような人、哲学書など一冊も読んだことがないという人でさえ、間接的に、また広い意味で、上記のいずれかの考え方の影響下にある。そしてその戦いは、現代では主観性が圧倒的に優勢で、多くの人に、主観性原理とそれにもとづく考え方が知らず知らずのうちにしみ込んでいる。そうした主観性原理からいったん離れてみること。ときには言語や数値からも。

 動物たちのように。

 傍流的に。

 存在(の真理)について真に理解しようとするときには、どうしても動物たち(人間以外の生物)には触れることができるような事柄、すなわち言語を超えた何か、「言語の限界」的なことを考えざるを得ない面もあると思われる。

 * * *

 主観性原理の限界ということで思い浮かぶ話がいくつかある。科学者の中にも、そのことを鋭敏に感じ取っている人は少なからずいる。例えば火山学者・鎌田浩毅は霊長類学者・山極寿一との対話[5]の中で次のようにいう。

「……地球科学はある程度一次近似で行けるところはもう終わったんですよ。あとは言わば「複雑系」を扱うことになるわけ。だから地震予知ができない。なぜかというと、岩石が割れる現象は突きつめると複雑系に行きついて、すべての分子の動きをコンピューターに入れて解析したってやっぱりどこで割れるか予測できないんですよ。(中略)だから結局あるところまではわれわれ地球科学者はハッピーに研究していたけど、あるところから急に地震予知もダメ、火山噴火予知もダメ、というようになった。(中略)あまりにも初期条件が複雑すぎちゃって、一般市民が期待する予知はもう無理なんですね。(以下省略)」

 主観性原理、すなわち科学では自然を完全に掌握することはできない。それはクサカベクレスの言う通り、存在=自然とは、対象化されないものであるからだ。

 * * *

 さて、存在とは対象化されないものだとすれば、我々はそれにどうやって到達することができるのだろうか。どうやってその実相を理解したり、感じたり、知ったりすることができるのだろうか。人間は、その真理をどうすれば共有することができるのだろうか。動物たちに教えてもらいたいところだが、それは(言語以外によって)「感じ合う」「感じ取る」「感得・体得する」ということくらいしかできないかもしれない。よってそれを他者に伝える(他の誰かと共有する)ことは困難を極める[6]

 主観性の哲学を目指したのではないと思われる哲学から、我々はそれを学ぶことができるかもしれない。                         (つづく)


[1] 市民大学「スコラタイムヒル」内クサカベクレスのギリシア哲学<対話型>講座

[2] 2024年12月7日。使用したテキストは日下部吉信著『ギリシア哲学30講』(明石書店、2018年)第11講前半。

[3] 現在は抜糸し、快方に向かっております。関係各位にはお騒がせしました。

[4] つねにこういうことを感じて怯えながら生きているわけではありません(笑)。ふだんはどちらかというと「全体として見たとき、ギリシア世界は、厳しくもあったが、結構明るいのである」(クサカベクレス「ギリシア哲学紀行」第6回)のギリシア世界の明るさに憧れていて、明るく生きています(つもり)。

[5] 山極寿一×鎌田浩毅『ゴリラと学ぶ 家族の起源と人類の未来』(ミネルヴァ書房、2018年)

[6] もう片方の限界を呈示する、ということもその一助になると思う。あるいはそうすることくらいしかできないのかもしれないけれど。


柴村登治(傍流堂代表)

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