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第4回 【番外編】安心院すっぽんツアー~木下謙次郎『美味求真』の聖地を訪ねて

 木下謙次郎『美味求真』の現代語版を刊行して以来、どうしても訪れたい場所があった。

 2026年3月5日、ついにその地を訪れることができた。
 安心院(あじむ、大分県宇佐市)である。

【安心院郷とは、筆者の故郷であり、また良質なスッポンの産地でもある。豊州本線[現・JR日豊本線]の豊前善光寺駅に接続する日出生鉄道[現在は廃線]の圓座駅から東南一里(約四キロメートル)の地点にある小さな集落で、四方を山に囲まれ、渓流が山麓を巡って流れている。椎谷瀑布を水源とする津房川(つぶさがわ)は、集落の東北を流れ、富貴野の瀑布を水源とする富貴野川は西南を巡り、山と川の自然の地形によって一つの盆地を形成している。両川は盆地の西北で合流して一つになり、下流では駅館川(やっかんがわ)の流れとなる。これらの川は、海から五里(約二〇キロメートル)、水源から四里(約一六キロメートル)の地点にあり、すでに水源に近すぎず、塩水からも遠い。水は軟水で温度が高く、沿岸には岩石や砂地が多く、蜷(にな)、田螺(たにし)などスッポンの好む餌が豊富であり、水は清らかで流れは遠くまで続く。あるいは急流となり、あるいは深い淵を形成し、その変化は百態に富み、一言では言い表せない。まさにスッポンの理想的な生息地としてのあらゆる条件を完備した、水郷である。
 なるほど、この地で産出されるスッポンは、甲羅の皮膚が柔らかく緑色を帯び、腹の甲羅は黄金色に輝き、四肢の爪先は丸みを帯びてまるで櫓(ろ)の摺(す)りこぎのような形をしており、甲羅の縁は厚く、体は丸く、天性の品格が自然と卓越していることを示している。その肉の香りと美味しさは、まさに天下に比肩するものがほとんどないと言える。】
(木下謙次郎著、河田容英訳『現代語訳 美味求真』357~358ページ)

 『美味求真』は、さまざまな食材の習性、生態や調理法に詳しい本であるが、なかでも著者・木下謙次郎の故郷・安心院の名産スッポンについては、最も多くのページが割かれている。
 「安心院のスッポン」は木下謙次郎が本の中で紹介したことで、全国的に有名になったとも伝わる。原著に序文を寄せた北里柴三郎は、「巻中で最も脂ののっているのはスッポンの章である」と記している。僕も『月刊はかた』2026年2月号「福岡の版元がおすすめする今月の一冊」コーナーで、同書の紹介として「白眉はスッポンの章」と書いた。

 同時に、木下謙次郎先生のお墓が安心院・大泉禅寺にあることを役所の方からうかがっていたので、いずれ現代語版出版のご報告とお礼に参りたいと考えていた。ちょうど「安心院すっぽんウイーク」が開催中と知り、期間中の安心院訪問を計画。訳者の河田容英さんも都合がつき、本のプロモーションを兼ねた今回の安心院ツアーが実現したというわけである。

▲安心院地域複合支所、盆地ギャラリーには木下謙次郎の肖像が掲げられている


 東京から来られた河田さんとは現地、安心院支所で待ち合わせ。僕は博多から特急で中津まで行き、そこから大交北部バスで安心院に。観光協会を訪ねて地図をもらい、河田さんと合流すると、さっそく大泉禅寺に向かう。観光協会の方の話によると、木下謙次郎の墓の場所を尋ねる観光客は少なくないのだとか。やはり安心院は『美味求真』の‟聖地”なのだと実感する。
 無事にお寺に着き、今回の出版について先生の墓前にご報告。住職にもお話をうかがいたかったのだが、それはかなわなかった。

 その日は晴天で暖かく、宿に入るにはまだ時間もある。もしかしたらスッポンの甲羅干しが見られるかもしれないということで、観光協会で自転車を借り、津房川の観察スポットまで足を運んだが、残念ながらスッポンを見つけることはできなかった(後で宿の方にうかがったところ、「まだ冬眠中で、時期が少し早かったかもしれない」とのこと)。
 『現代語訳 美味求真』には次のような記述がある。

【また、冬眠中は空気中の酸素を直接吸い込む必要はないが、夏の間は活発に活動し、また餌を貪り食うために、酸素を多く必要とし、時折水面に浮かんで鼻先を出し、空気を呼吸することがある。さらに、夏の快晴で炎熱の日には日向ぼっこを好み、敵の恐れがないと安心した場合には、川の中の岩の上に登り、甲羅を日光に当てながら長々と昼寝をすることがある。これが、いわゆる「スッポンの甲羅干し」である。】(同書365ページ)

▲スッポンの甲羅干しが見られるという津房川の観察スポット

 
 そして、今回の旅の主目的の一つである、大正9年創業の「やまさ旅館」さんへ。
 やまさ旅館の初代ご主人と木下謙次郎は親しい間柄で、木下謙次郎の勧めもあって、すっぽん料理店を開くようになったとのこと。つまり「やまさ旅館」と木下謙次郎、そして『美味求真』とは、とても深い関係があるのだ。ちなみに木下謙次郎は、安心院でのスッポンの減少を憂いて自然飼育による養殖に乗り出したとも伝わり、その遺志は津房川でのスッポン人工孵化事業にも受け継がれているということである。
 玄関には、ここをよく訪れたという松本清張の色紙「美味求真 木ノ謙の里の やまさかな」(木ノ謙は謙次郎の綽名)が飾られていた。

▲やまさ旅館の玄関


 スッポンは、「食通が最後に行き着く食材」とも言われる。その味、料理の素晴らしさについては、ここで僕が説明するまでもないだろう。良質なスッポンの素材そのままの味を、ぜひご自身の舌(感覚)で確かめていただければ幸いである。

 河田さんと食事をいただきながら、女将さんと『美味求真』の内容について話が弾み、また、安心院の振興、スッポン文化について貴重なご意見をうかがうことができた。女将は「スッポン料理は安心院の大切な郷土料理、食文化。これを守り、伝えていきたい」と語る。『現代語訳 美味求真』とともに、安心院のスッポンの素晴らしさを発信していければ、九州に住む者としてもうれしく思う。

 食事を終えて、生きているスッポンを見せていただく。
 とてもかわいい。愛嬌がある。――しかし同時に、食材でもある。
 この複雑な気持ちについて、以前取材させていただいた故・髙山辰雄画伯の言葉が思い出された。牛をスケッチする話になった際、画伯はこんなことを言われた。
 「仔牛はかわいい。かわいい、かわいいと思って絵を描くのだけれども、食事時になると、牛の肉を食べるのです」
 動物であれ、植物であれ、食べる(命をいただく)ということは、そういうことなのだろう(髙山先生には僕が深く感銘を受けた「食べる」という作品がある)。

 木下謙次郎も、スッポンをとても可愛がってもいたようだ。謙次郎の息子、木下幹一は謙次郎の没後に再版された『美味求真』のあとがきで、父について次のように回想している(用字は原文ママ)。

【父は季節に従つてよく郷里より鼈や鰻、雉、山鳥等を取寄せてゐた。雉や山鳥等は夜寝る時など、自分の枕邊に置いて之を撫でたり擦つたりして、如何にも可愛いい、貴いものに觸れて居る様な様子に見えたし、鰻や鼈は之を生かしたまゝ送らせ、盥等に入れていつまでも飼つて置き、毎日自分で水を換へたり、眺めたりしては注意深く取扱つて、甚だ大切にして可愛いがるのであつた。これ等の父を見ると、私はいつも父を生物學者の如く又詩人の如く感じた。】(『美味求真第一巻』五月書房、1988年)

 だから、木下謙次郎は、スッポンを包丁で自ら捌く時にも、次のような思いを胸に刻んでいたに違いない。

【一つの南瓜にも至味があり、一尾の鰯にも味神は宿る。そうであるならば、どんなものでも、それぞれ本来の味を発揮させて、一つひとつ、その役目を果たさせることが料理であると言える。言い換えれば、料理とは型式的には生物を殺すことであるが、思想的には食材として生物を活かそうとすることである。つまるところ料理人の包丁は殺す道具ではなく、命を吹き込む道具なのである。】(『現代語訳 美味求真』52~53ページ)

▲かわいらしい、愛嬌のある顔。カメラを向けるとおとなしくなった

——

2026年3月6日。

 出張2日目は、安心院ワイナリー、安心院支所地域振興課、同地域教育課、安心院図書館、大分県立安心院高校などを訪問し、『現代語訳 美味求真』を地元の方を含め、もっと知ってもらうためのご相談。みなさん親切に対応くださり、ありがたかった。安心院高校には食文化コースがあり、毎年スッポンの調理実習を行っているそうだ。

 その後、別府に移動し、時間調整のため河田さんと入った喫茶店「喫茶なつめ」さんで、思いがけずスッポンに出会って「おお!」と目をみはった。レジそばの水槽で元気に飼われていた。店長によると、湯布院の川で30数年前に捕まえたオスのスッポンとのこと。つまり30年以上生きているスッポンである。店長は大の活字好きらしく、われわれが『現代語訳 美味求真』のプロモーションで大分を回っていると話すと、本の内容にも大変興味を持ってくださり、食の本や読書の話題でしばし盛り上がった。最後は彼女がスマホを取り出し、3人で記念撮影。写真をこれまた読書家のご子息に送る、と喜んでおられた。

▲「喫茶なつめ」で出会ったスッポン

 
 ……というわけで、まさに“すっぽんツアー”となった大分出張だった。

 ◇ ◇ ◇

 安心院は『現代語訳 美味求真』にも書かれている通り、風光明媚な地で、かつて安心院を訪れた司馬遼太郎は「盆地の景色としては日本一」と絶賛したそうである。次回は安心院盆地をゆっくり回ってみたい。

【盆地の前方にそびえ、古木がうっそうと生い茂る山腹に人家の煙が立ち上る場所、それがかつての大友氏[戦国大名・大友宗麟を中心とする豊後の大友氏㆒族]の旧城跡・龍王山である。その東南には、遠く霞をまとい雲間にそびえる山があり、冬には常に雪を戴いている。それが豊後富士である。「足一つ騰(あが)りの宮」の古跡は、神武天皇の東征の事跡を偲ばせ、九人峠の古戦場は、この地方における王朝時代の興亡の跡を物語っている。風光は明媚で、気候は温暖、渓流では魚やスッポンが躍り、田園では果実や穀物が豊かに実る。土は肥え、水は清らかであり、魚やスッポンを友として生涯を終えるには、この上なく適した地である。】(『現代語訳 美味求真』358~359ページ)

 木下謙次郎の描写は、現在の安心院の風景にも重なって見えた。


 柴村登治(傍流堂代表)

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