第5回 タイで哲学 わからないのが普通の状態で暮らす
ネオ高等遊民です。 今回もタイ生活についてです。テーマは、前回の終わりでチラッと書いた、「わからない状態でいることがふつうになった」話です。 この感覚は、私の生き方や世界の見方をどのように変えたのかを、今回考えてみたいと思います。 タイでは、何をするにも日本と少しだけギャップがあります。この微妙なズレの中で過ごしていると、次第に『わからない』という感覚が常態化してきます。 まず、言語の問題。相手が何をいっているのかわからない。わからないことがふつうなのです。わかるほうが珍しい。ほかにも、慣れない土地での慣行や作法がわからずに右往左往することもあります。前回のバスの事例とかがそうですね。それが普通になります。 日常会話はタイ語でやりますけど、半分くらいは勘と推測です。相手の言っていることが正確には聞き取れない時は、状況から推測して何を意図しているのかを当てるんです。ただ、当たることはあまりないので、ほとんどコミュニケーションは失敗します。 そんなふうに「わからないのがふつう」という状態でずっと過ごしていると、少しずつ価値観も変わってきます。まず、ごく軽い気苦労を常にうっすらと覚えているようになります。何をするにしても、日本にいるときよりもコストとリスク、不確実性が上乗せされるという感覚です。実際に「わからない」という不全感を毎日のように味わっているため、少しずつストレスが溜まるのだと思います。その結果、だんだん決まった行動しかとらなくなるんですね。 たとえばコンビニ(タイはセブンイレブン)の買い物なんかは、もうプロセスがほぼ固定しているので、一言もしゃべらず、店員の言うことを全くきかなくてもできてしまいます。だからコンビニで買い物をするとか。たまにキャンペーンとかで定型的なやりとりにないことを聞かれるともうまったく対応できない。 日本でも、お年寄りの方などは、これに近い体験を日々しているのではないかと勝手ながら想像します。 こうして、「わからないのが普通」という状態でいると、安定や同一を求めるようになります。いつもうっすら不安定な揺らぎの中で生活しているからでしょうね。海外生活ってチャレンジングですごいと感じる方も多いでしょうけど、実際の生活上では、確かに私は安定を求めています。 「『わからない』という状況が日常化すると、徐々に私は決まった行動パターンを求めるようになりました。性格というのは日常の習慣で形成されるものですが、「わからないのが普通」という状態で過ごすと「甘え」が形成されるように思えます。というのも、わからないということは、生活する上でまわりの助けを借りなければならないからです。さらに、助けてもらうのも普通になってきます。そうすると、ちょっとしたことでも助けを頼みたくなります。 たとえば郵便配達の手続きなどがそうです。これもコンビニと同じで、多少通じなくてもともかくお金を払いさえすれば受け付けてくれますから、1人でも全然できます。ただ、コンビニと違うのは、宛先を書いたりするのが、かなり面倒なんです(タイ語なので)。 私が宛先を書くのは小学校低学年の子供が書くようなもので、時間もかかれば間違いも多く、ろくに読めない字になります。明らかに大人のタイ人に書いてもらったほうが楽なので、お願いしてしまう。つまり、1人じゃ困ることを頼むのは仕方ないにしても、1人でもできるけど単に面倒なことまで頼むようになる。これが「甘え」ですね。 以上のように、わからないという状態にかこつけて、私はだいぶいろんな人に甘えるような生活をしてきました。一般的には甘えというと望ましくない性格で、自立することが望ましいとされますよね。 しかし、自分ひとりで生きていくことなどできないですし、あまりにも他人に頼らないのも極端です。適度に自立しつつ、適度に甘えるということが、いわゆる「中庸」(アリストテレス)の性格です。私の生き方は、日本でやったらちょっと甘えすぎですが、タイだったら意外とちょうどいいのかもしれません。「中庸」は時と場合によって異なりますから。もしタイでも甘えすぎだったら、そのうちまわりのタイ人に疎んじられ、遠ざけられてしまうでしょう。 ですから、私はこんなふうに思っています。「お前は一人では生きられない。どうしても誰かに助けてもらいながら生活する必要がある。そのためには周りの人とうまくやらねばならない」と。生活上の心がけみたいなものですね。甘えつつも相手に負担をかけず、しっかり長続きできる関係を築いていこうということです。 ただ、所詮は心がけにすぎないのであって、実際はまったくできていません。甘えたおしてしまっています。こんな倫理的な信条など、できるわけがないのです。じゃあよっぽど私は人間関係に恵まれないのかといったらそうでもなくて、なぜかみんなよくしてくれます。タイは微笑みの国と言われますが、実質微笑んでいるのは外国人であり何にもできない私のほうで、タイ人こそがいろいろやってくれる側なのです。 まとめです。以上のように、いろんな人に甘えてるな~という生活を自覚しつつ、それを本当に直そうとする気がない私なのですが、それが許されてしまうのが、タイです。 こういう環境にいると伸び伸びできるし、なにかチャレンジしようかなと思う気持ちも湧いてきます。できないことをまわりの人に助けてもらっているという事情もあって、自分にできることをやることになります。何もしないのでは、さすがに誰も助けてくれませんからね。 日本に住んでいたらまわりの人とうまくやるためには、自分がやりたくないことをやることが多いでしょう。しかし、私はタイにきて、自分がやりたいことをやるのがまわりの人とうまくやるために必要なことになりました。これは大変望ましい環境であると思います。 ここから導かれる結論は、自分の欠点を自覚し、それでも受け入れてくれるような場所に身を置くことが大切なことであり、幸せなことであるということです。欠点を直そうとして直せる人なら、どんな環境でも生きていけます。こういう人はエラいです。また、今いる環境から脱け出せない状況にある人なら、自分の欠点は直さないといけません。こういう人はツラいです。 したがって、偉くなくても幸せに楽しく生きるには、自分の欠点を自覚しつつ、それが欠点だと思われない環境で生きることだと思います。私の場合はそれがタイでした。みなさまも自分と環境との相性をもう一度考えてみてください。 ネオ高等遊民 日本初の哲学YouTuber。タイ在住。著書『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書』(2024)。「わからないのがふつう」という環境で暮らす
わからないで過ごすことで性格は変化し、甘えが出る
適度に甘え、適度に自立する「中庸」を心がけるも実際には全く無理
まとめ:自分の欠点を自覚し、それを直さないでもOKな環境で生きる
YouTubeチャンネル「ネオ高等遊民:哲学マスター」:https://www.youtube.com/@neomin
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