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第4回 小アジア・イオニア地方へ

 ソクラテス、プラトンの哲学はギリシア人本来の哲学ではない。ピュタゴラスによってギリシアに持ち込まれたオリエント由来の異邦の原理(主観性原理)によってなった哲学であり、主観性の志向性は超越的志向性であるがゆえに理念的世界を出現させ、青年たちの喝采を博することとなったが、結局アテナイはソクラテスを殺さねばならなかったのである。それはイタリアのマグナ・グラエキアの諸都市がピュタゴラス派を徹底的に排除しなければならなかったのと同様である。それではギリシア人本来の哲学とは何か、またそれはどこにあったのか。それはイオニア地方のそれをおいて外にないであろう。ギリシア本来の哲学を知るためにはとにかくイオニアに行かねばならない。そのような想いに駆られてピレウス港(アテナイの外港)の旅行社に駆け込み、ちょうど出航直前であったクレタ島行の船を提案された。「あの埠頭に停泊しているビッグ・ボートだ」と指差され、それに飛び乗ったのである。

 クレタ島はミノア文化の遺跡、クノッソス宮殿の遺構で知られるところである。そこからアリアドネをつれてナクソウ島に逃れたテセウスの故事が思い出され、クレタ島から北上し、エーゲ海の島々をめぐった上でトルコに上陸するのも一案かと思い、旅行社に駆け込んだが、残念ながらそれは実現しなかった。要するに船がないのである。夏場と冬場ではエーゲ海の様相は一変していて、夏場のエーゲ海は大小無数の船が行きかう極めて密な海域であるが、冬場は(その時は1月であった)近隣の島に渡るにも一週間先まで船がないと告げられるような状況なのである。その代案として、ちょうどクレタ島からロードス島に飛ぶ飛行機があり、座席も一名分空いているので、ロードスに飛べばと女性職員から提案され、それに同意した。その場で空港に連絡をとり、車で空港まで送ってくれた。飛行機はすでにプロペラが始動し、飛び立たんばかりになっていたが、それに飛び乗り、ロードス島に渡ったという次第である。

 ロードスはヨハネ騎士団の城塞が残るところである。騎士団長の館など、立派な城館に圧倒される。しかし結局十字軍の遠征は失敗したのである。一度は聖地エルサレムの占領に成功したようであるが、そこから押し返され、ロードス島に後退した。しかしそこにも踏み止まれず、トルコ軍の猛攻の前にマルタ島に退避した。バレッタに荘厳なカテドラールを残しながらもさらにそこからも駆逐されたようである。しかし、私見になるが、この戦いはまだ終わっていない。ある時ロンドンの街角を歩いていて、「ヨハネ騎士団本部」と銘打った建物に出会った。君たちはまだ戦っているのかという印象であった。

 ロードス島からはトルコの沿岸は目と鼻の先である。ここまでくれば小アジアへの上陸はなったも同然と高を括っていたが、意外にもそうでなかった。旅行社でトルコ行の船を問うたところ、「ない!」というのである。「あっても二週間先だ!」と。この答えには驚き、かつ失望した。肩を落として旅行社を後にしようとしたところ、後ろから旅行社の主人が追いかけてきて、「ないこともないんだ。明日の朝8時に港の向こう側の桟橋に行ってみろ」と告げられた。主人のヒソヒソ口調に半信半疑であったが、とにかく次の朝その桟橋に行ってみた。しかし船らしきものはない。騙されたかと思いつつ、ふと桟橋の下を見たところ、そこに赤茶けた鉄板の平底船らしきものが浮かんでいた。木材か鋼材を運ぶ船なのであろう。まさかこれではなかろうなと思いながらも、そこにいた男に「トルコに行く船か」と問うたところ、男は無言でうなずき、首を傾けて乗るように促した。これは密航船ではないのかと不安になったが、しかし他に手段がない以上、止むを得ないと覚悟を決めて乗り込んだ。しばらく鉄板の上に座って待っていたところ、さらに驚いたことに、そこに大型の観光バスがやってきて、三十数名の人間がドドドと乗り込んできたのである。それは台湾からのツアー客であった。旅行業者というのは密航船まで使ってツアーを組むのかと驚いた次第である。いずれにせよこの経験はギリシアとトルコの関係が今もってなお厳しいものであることをわたしにあらためて認識させた。

 吹きさらしの航行ではあったが、幸い天気も良く、また海も穏やかだったので、航海そのものは快適であった。ロードスの港を出てしばらくした洋上でツアーのリーダ格の男が見知らぬひとりの男の存在に気づいたようで、「何人か」と問うてきた。「日本人だ」と答えると、「ここに日本人がいるぞ!」とツアーの一同に呼びかけ、「日本人だ!」、「日本人だ!」と大騒ぎになった。なぜ騒ぎになるのかよく分からなかったが、とりあえずスターにでもなったかのように一同に向かった手を振った。やがて船は中間点を越えたのであろうか、トルコ国旗を掲げた。そして入国税なるものを徴収された。そのようにしてようやくその日の昼頃トルコ南東部の保養地マルマリスに到着し、小アジア(トルコ)への上陸を果たしたのである。

 まずはホッとしてマルマリスのレストランで昼食を取った。向こうの座席で家族らしき数人がやはり食事していた。その中のひとりの青年がさかんにこちらを見ている。やがて彼が近づいてきて何か協力できることはないかと問うてきた。ギリシアの遺跡を訪ねながらイスタンブールまで行きたいのでレンタカーを借りたいと思っていると答えたところ、分かったとレンタカー会社のオフィスに連れて行ってくれた。「ヨーロッパ・レンタカー」という立派な看板を掲げたオフィスではあったが、車がない。二三日の内には用意するからとにかく明日もう一度来てくれとのことであった。次の朝再度レンタカー会社を訪ねると確かに一台の車が用意されていた。トロノスという車、四輪車ではあったが、何か昔のオールド世代には懐かしいダイハツのミゼットのような車で、これでイスタンブールまで行くのかと少々不安になったが、しかし他に選択肢がなかったので借りることにした。とにかく事実そのいくらアクセルを踏んでも時速50キロ以上は出ない軽の車で小アジア・イオニア地方の諸遺跡を巡り、ほぼ一週間を費やしてイスタンブールにたどり着いたのである。

 ところで先ほどの青年、レンタカー会社を紹介し、またマルマリスにホテルを取ってくれた親切な青年であるが、兵役で明日から軍隊に入るので別れに家族と食事していたのだとのことであった。トルコ国境付近で頻発する紛争のニュースを聞く度に、あの青年は無事であろうかと、青年の理想に燃えた顔がいつも思い出される。

 アテナイを出て多少の紆余曲折はあったが、とにかく小アジア・イオニア地方に取りつき、このようにしてその地方一帯のギリシアの諸遺跡を巡る旅の起点に立つことができたのである。


クサカベクレス

1946 年京都府生まれ。別名、日下部吉信。立命館大学名誉教授。1969 年立命館大学文学部哲学科卒。75 年同大学院文学研究科博士課程満期退学。87-88 年、96-97 年ケルン大学トマス研究所客員研究員。2006-07 年オックスフォード大学オリエル・カレッジ客員研究員。著書に『ギリシア哲学と主観性――初期ギリシア哲学研究』(法政大学出版、2005)、『初期ギリシア哲学講義・8 講(シリーズ・ギリシア哲学講義1)』(晃洋書房、2012)、『ギリシア哲学30講 人類の原初の思索から――「存在の故郷」を求めて』上下(明石書店、2018-19)、編訳書に『初期ギリシア自然哲学者断片集』①②③(訳、ちくま学芸文庫 2000-01)など。現在、「アリストテレス『形而上学』講読」講座を開講中(主催:タイムヒル)。

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