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第6回 ハイデガーとバウムガルテン(3)

前々回と前回の二度にわたって、アメリカ人哲学者ベレル・ラングの著書『ハイデガーの沈黙』の巻末に付録として収録されている、エドゥアルト・バウムガルテンのインタビューの内容を紹介してきた。「ハイデガーをめぐるエドゥアルト・バウムガルテンとの対話」と題されたこのインタビューは、ラングの友人であるデヴィッド・ルーバンが1976年に三日にわたってバウムガルテンと話した内容を後日、ルーバンがまとめたものである[1]

インタビューでバウムガルテンは、ハイデガーと自分が決裂する原因となった三つの出来事について語っており、それらはすでに紹介した。これらの出来事に特徴的なのは、バウムガルテンが自分の師ハイデガーに対していちいち嘲弄するような態度を取っているということだ。しかもバウムガルテンはそれをインタビューで嬉々として語っている。ハイデガーがバウムガルテンを嫌うのも当然だという気がする。

ただし育ちのよいバウムガルテンからすると、田舎育ちでカトリックの奨学生上がりのハイデガーのふるまいはどうにも野暮ったく見えて仕方がなかったのだろう。バウムガルテンの態度は、当時の大学界における教養知識人たちがハイデガーをどのように捉えていたのかを何ほどか反映していると見ることもできよう。

バウムガルテンはハイデガーから破門されたのち、時代の有力者を見定めて、その人物に取り入る特異な才能を駆使して学界で巧みに生き延びていく。やがて彼はナチスの御用学者として有名なアルフレート・ボイムラーの庇護を受けるようになり、最終的にはケーニヒスベルク大学の正教授にまで出世する。こうした事実にもかかわらず、今日ではバウムガルテンはもっぱらハイデガーによる悪意の被害者としてのみ捉えられており、彼のナチ体制下での「成功」がまったく問題にされないのは実に皮肉な話である。

戦後、バウムガルテン所見を取り上げてハイデガーを窮地に陥れたヤスパースも、バウムガルテンのナチスへの露骨な迎合を問題視するそぶりはまったく見せていない。ヤスパースも一般にそう思われているほど高潔で公明正大な人物であったわけではない。こうしてバウムガルテンを所見によって追い落とそうとしたハイデガーは、戦後はその所見を理由として追い落とされることになった。まさに因果はめぐるといったところだろうか。

ところでルーバンのインタビューでは、ヤスパースがバウムガルテン所見の件でハイデガーを告発した出来事について興味深い後日談が語られている。それによると、バウムガルテンはヤスパースが自分に関する所見を無許可で利用したことに対して怒り、彼に抗議の手紙を書いたという。かつて敵はドイツ国内にいたが、今は外国から敵が来ているのであり、そうした状況下ではハイデガーはむしろ守られるべき同胞であるというのがその抗議の理由だった(p.109)。

このことを知ったハイデガーはバウムガルテンに和解を求める手紙を送ってきた。その手紙でハイデガーはバウムガルテンに面会を請うていた。フランス軍の将軍に働きかけてくれることを自分に期待していたのだろう、というのがバウムガルテンの読みであった。バウムガルテンは面会を断った(p.109)。

その次の手紙でハイデガーは、自分が今や思索においてはるか遠くに到達したこと、バウムガルテンが「外部で」成功することを望んでいることなどを述べていた。この「外部で」ということをバウムガルテンは「大学の外部で」という意味だと解釈した。バウムガルテンから見ると、これは皮肉なことだった。というのも、実際はバウムガルテンが教職を再開できた一方で、ハイデガーはそうならなかったからである(p.109)。

ルーバンはインタビュー記録の終りの方で、バウムガルテンがハイデガーという人物をどのように評価していたかについて報告している。ハイデガーがバウムガルテンを追い落とすような所見を書いたことは、一見するとハイデガーがナチスの信奉者だったことを示しているように見える。しかしバウムガルテンはそうは解釈しなかった。彼の見るところ、ハイデガーは政治的、ないしはイデオロギー的な情熱というよりは、「人格的な矮小さ(personal pettiness)」に突き動かされた人間でしかなかった。それは並の虚栄心以上のものであり、哲学的栄光への希求といったものだった。

バウムガルテンはその傍証として、ハイデガーがある時期、マルクス主義的な文献と格闘していたことを挙げたという。これはバウムガルテンとハイデガーがまだ親しい関係を維持していた時期、つまり1930年、31年ころのことだろう。バウムガルテンの解釈では、それはその後の政治闘争でどの立場が勝利を収めようと「ドイツの哲学者」として君臨する地位に立とうとするハイデガーの意欲の現れであった(p.109)。

私はこのバウムガルテンの解釈は誤りだと思う。ハイデガーは自分がナチスを支持したのは、マルクス主義の脅威に対抗するためだったということをつねに強調していた。ハイデガーのマルクス主義との思想的対決はその後、1930年代後半に「コミュニズム」を西洋近代の「主体性の形而上学」の究極的な帰結と捉える立場として結実した(もっともこの時点では、ハイデガーはナチズムもコミュニズムと同じ形而上学的本質をもつと捉えていたのだが)。ハイデガーのマルクス主義文献との取り組みは、やはり真剣な思想的対決であったと見なすべきである。

もっともハイデガーがナチス体制のもとで「桂冠哲学者」を目指していたというのはそのとおりで、そこに何らかの虚栄心が働いていたことは否定できない。しかし根本において彼は自身の哲学によってナチスを指導しようとし、またそうした指導の可能性を認めたからこそナチスを支持したのである。そこにある種の思想的な情熱があったことは疑いえない。まさにそうした思想的情熱によって彼はナチスに加担し、自滅してしまったのだ。

ハイデガーの行動が「人格的な矮小さ」だけに規定されていたのであれば、ナチ体制下であろうと、またナチスが崩壊した戦後であろうと、もっと器用に時代に適応できたはずだ。しかしハイデガーは自分の思想に殉じて、戦前も戦後も冷や飯を食わされている。むしろバウムガルテンこそ、これまで見てきたように、人格的に矮小とまでは言わないにせよ、およそ思想的情熱といったものとは無縁であるがゆえに、その時々の有力者を見定め、彼らに節操なく取り入ることで世渡りするような人物であった。バウムガルテンは自分自身の尺度でハイデガーを捉えているにすぎないのだ。

実際、このバウムガルテンの時流迎合の能力は異様なまでに高い。彼の毛並みのよさや文化的洗練、すぐれた知性といったもののすべてが時代への適応という一点に集中して活用され、それがまたことごとく成功を収めているのである。

そもそもマックス・ヴェーバーの自由主義的な知識人サークルのなかで育ち、アメリカに留学してプラグマティズムをいち早くドイツに輸入するような人物が、ハイデガーのもとで教授資格を取ろうとするのは傍から見るとしっくりこない。ハイデガーはハイデルベルクの新カント派的な学風を軽蔑しており、また彼のプラグマティズムに対する低評価は言うまでもない。それゆえバウムガルテンがアメリカからの帰国後、ハイデガーに接近するのは変則的であるように思われる。しかもハイデガーには多くの弟子がいたであろうに、そうしたバウムガルテンを自分の哲学講座の助手候補として受け入れているのである。

バウムガルテンは当時、一世を風靡していたハイデガーをドイツの哲学界における最大の実力者と見定めて、彼に近づいたのだろう。幼少のころからハイデルベルクの知識人に囲まれて育ったバウムガルテンにとって著名な学者に臆することなく接することはお手のもので、自分に対して好感をもたせることも難なくできたのであろう。またハイデガーはハイデガーで、ハイデルベルクの知識人サークルに出自をもつ若者が自分に接近してきたことは、彼の虚栄心を満たす出来事であったのだろう。

その時々の有力者に取り入るバウムガルテンの傑出した才能は、ハイデガーと決別したあとの立ち回りにおいても遺憾なく発揮された。

20世紀のドイツ思想史を研究するハンス・ヨアキム・ダームスは、「第三帝国におけるプラグマティズム ハイデガーとバウムガルテン事件」という論文[2]で、バウムガルテンがハイデガーに破門されたのち、ナチスの学術政策において重きをなしていたボイムラーにどのように取り入り、出世の階段を駆け上がっていったのかについて詳しく報告している。

ダームスはこの論文の冒頭で、そもそもプラグマティズムがドイツにおいてもっとも盛んに紹介されたのが、ワイマール共和国や戦後のドイツ連邦共和国の時代ではなく、大方の予想に反して第三帝国の時代であったことを指摘する(段落1, 2)。第三帝国におけるプラグマティズム紹介の立役者がバウムガルテンだった。彼はアメリカのデモクラシーに根ざした哲学として一見するとナチズムとは相性が悪いように見えるプラグマティズムを第三帝国においてどのように売り込んだのだろうか。この点についてのダームスの説明を以下でかいつまんで紹介したい。

1938年に刊行されたバウムガルテンの著書『アメリカ的共同体の精神的基礎』の第2巻「プラグマティズム:R.W.エマーソン、W.ジェームス、ジョン・デューイ」は、ドイツではじめて本格的にプラグマティズムを紹介した書物だった(ちなみに第1巻は1936年に刊行され、プラグマティストの精神的な先駆者としてベンジャミン・フランクリンを取り上げたものであった)。ダームスによると、バウムガルテンはプラグマティズムをナチスにとって受け入れ可能なものとするために、ここである独特の「選択」を行った。

同書においてバウムガルテンは異例なことに、一般にプラグマティズムの祖と見なされているチャールズ・サンダース・パースについてまったく論じていない。その代わりに、通常はプラグマティズムの思想家としては扱われないラルフ・ウォルド・エマーソンに焦点を当てている(段落50以下)。

エマーソンは一般的には19世紀アメリカにおいて「超絶主義」を唱えた思想家として知られている。バウムガルテンはパースを差し置いて、このエマーソンをプラグマティズムの先駆者として位置づけている。ダームスによると、このことの背景にはエマーソンがニーチェに大きな影響を与えた思想家だという認識があった。ニーチェといえば、ボイムラー、さらにはその上司としてナチスの文化政策を統括していたアルフレート・ローゼンベルクがナチズムの思想的な先駆者と位置づけた哲学者である。そのニーチェにエマーソンが大きな影響を与えたという仮説をバウムガルテンは1933年の時点で抱いていた。そして1937/38年冬学期にはニーチェ資料館で実際にそのことを確認し、その成果をボイムラーが主宰する雑誌で発表した(段落52)。

このようにバウムガルテンはエマーソンをプラグマティズムの始祖と見なすことで、エマーソンから影響を受けたニーチェをプラグマティズムの系譜に位置づけた。そしてこのことによって、プラグマティズムがナチズムにとって重要な思想的源泉であることを示そうとしたのである。ダームスによると、バウムガルテンは上掲書のある注において「ニーチェの生と思想の遺産から、ドイツ的な『プラグマティズム』を目覚めさせようとするボイムラーの明快な決意」を称えている(段落65)。このような箇所からも、ニーチェをプラグマティズムの思想的系譜に位置づけて、ナチズムをもプラグマティズムの一種と捉えるバウムガルテンの解釈路線を読み取ることができる。

ダームスはプラグマティズムを第三帝国において受容可能にするためのバウムガルテンの「選択」として、今述べたエマーソンへの注目のほかに指摘しているのが、プラグマティズムにおけるデモクラシー論の「再解釈」である。つまりバウムガルテンはデューイなどに典型的に見られるデモクラシーの積極的評価とその哲学的な基礎づけを、ナチスの体制と矛盾しない仕方で解釈することを試みるのである(段落62)。

ダームスの論文によると、バウムガルテンはナチス体制を「真の(国民投票的)指導者デモクラシー」と特徴づけている。そのうえで彼はドイツがワイマール体制の外から押し付けられたデモクラシーから脱却し、今述べたようなナチス型のデモクラシーへと移行することによって、ドイツはデューイが説いているようなデモクラシーにむしろ近づいていると主張した。デューイの「デモクラシーは奇人もしくは天才もしくは英雄もしくは神意を帯びた指導者とは関係がない」という有名な言葉も、バウムガルテンの解釈によれば、「共同体に疎遠で無責任な指導者」を否定しているだけにすぎず、協力者を国家のすみずみまで探し求め、そうした人々を覚醒させる指導者を否定したものではない(段落70)。

プラグマティズムをナチズムと結びつけるバウムガルテンのアクロバティックな努力は、見事に功を奏した。ボイムラーはバウムガルテンを若手哲学者として取り立て、彼に上述のような研究成果を発表する機会をつねに与えた。そしてバウムガルテンは1941年には、ケーニヒスベルク大学哲学講座の正教授――かつてのカントのポスト――に就任するのである。

プラグマティズムというナチズムとはどう見ても水と油のように見えるアメリカ産の思想をナチス向けに加工するバウムガルテンの手際の鮮やかさには感嘆しないではいられない。彼のすぐれた知性はどのような体制の下であろうと、ただちにそれに適応する方途を見いだすことができる、そういった知性なのだ。そこにはある特定の思想への献身という意味での思想的情熱などは一切、見られない。むしろ彼の情熱はつねに与えられた状況に最大限に適応し、自身にとって有利な居場所を確保することだけに向けられていた。

バウムガルテンはハイデルベルクのリベラルな知識人サークルのなかで育ち、アメリカに留学してプラグマティズムを学びながらも、帰国後はワイマール時代の保守革命的な思潮を体現するハイデガーに師事した。そしてナチスが政権を獲得すると、彼はただちにナチズムに転向を図るのである。ナチへの接近はハイデガーの所見によっていったんは阻止された。しかしバウムガルテンはそうした妨害をものともせず、ボイムラーに取り入り、ナチ体制下で見事な出世を遂げていく。戦後は戦後で非ナチ化の処分で失墜したハイデガーを尻目に、自分はフランス軍政府の高官へのコネを利用して非ナチ化の審査を免れた。そして今度はマックス・ヴェーバーの研究者として大学界で生き延びていくのである。

バウムガルテンにインタビューしたルーバンは、彼の「開放性、けれんみのなさ、ひょうひょうとした態度」に強い印象を受けたという。バウムガルテンは自分とナチスとの関わりについても、あっけらかんと何も隠し立てせず語ったという。インタビューの際、ルーバンにはマックス・ヴェーバー研究者のミヒャエル・ズカーレも同伴していた。ズカーレはルーバンに対してのちに、ドイツでは「最上級のナチ」と格付けられた人間はそのことを誰にも語らないし、ましてアメリカのユダヤ人に語ることなど絶対にないと述べたという(p.109)。(ルーバンはユダヤ人だったようだ。)つまり自分がナチであった過去を包み隠さず話すバウムガルテンの率直さはそれだけ異例だったということだ。

この率直さはバウムガルテンの美徳と捉えることもできるだろう。しかし他方でそれは、彼の関心がただひたすら自分の知性を使って所与の状況にもっとも巧みに適応することだけに向けられており、それ以外に彼を制約するものは何もなかったことを示している。彼にとっては思想や哲学も、そのつど状況において有利な位置を得るための道具でしかなかった。あらゆるものをおのれの権力の伸長のために利用する知性こそ、ハイデガーの見るところ、「存在」による拘束を欠くがゆえに自由に真理を設定する近代的な主観性の行きつく果てであった。ハイデガーはバウムガルテンのうちにそのような知性を感じ取り、それゆえ彼を許しがたい存在と見なしたのである。


[1] David Luban, A Conversation about Heidegger with Eduard Baumgarten, in: Berel Lang, Heidegger’s Silence, London, 1996. 文中のカッコ内に記載されたページ数は、同書の参照箇所を示している。

[2] Hans-Joachim Dahms, Pragmatism in the Third Reich: Heidegger and the Baumgarten Case, in: European Journal of Pragmatism and American Philosophy  XI-1, 2019. 本稿では以下のWeb版を参照した。https://journals.openedition.org/ejpap/1524 このWeb版には各段落に番号が付されている。以下、本論文からの参照箇所は段落番号をカッコ内に記すことにする。


轟 孝夫 経歴

1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。

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