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第13回 卑弥呼と台与、そして伊勢神宮

 さて、北部九州においては鏡などの宝器は王の所有物であるとの認識があったようで、王が亡くなると伝世されずに墓に埋納されました。それは伊都国の世々(代々)のそれぞれの王墓から大量の宝器が出土することでわかります。例えば、紀元前1世紀頃の三雲南小路王墓(みくも みなみしょうじおおぼ)1号甕棺(かめかん)からは銅鏡が35面、管玉多数、ガラス製勾玉3個、銅矛2本、銅剣1本、ガラス製璧(へき)8枚などが納められていました。また、1号甕棺の隣りの2号甕棺からは銅鏡22面、ガラス製勾玉12個、ヒスイ製勾玉1個、ガラス製璧片1個が納められていました。さらに、1世紀の井原鑓溝王墓(いはらやりみぞ おうぼ)からは銅鏡20枚、鉄刀1本が納められていました。平原遺跡から出土した大量の宝器も、伝世されることなくすべてが埋納されたと考えられます。

 平原遺跡の銅鏡はほとんどがかなり細かく割れています。銅は金属としては強度が弱くて割れやすいのですが、土圧で割れたのなら復元に苦労するほどバラバラになることはありませんから、やはり割ってから埋納したのでしょう。鏡を割った理由は想像するしかありませんが、私は次のように考えています。

 天照大御神は人災または日食や自然災害という天災の責任をとって自決したため、高齢ではあるものの老衰死ではありませんでした。天照大御神の分身である八咫鏡は、完形のまま埋納するのではなく割って埋納することにより災いを封じ込めて、二代目天照大御神(台与)による新生の世を希求したのではないでしょうか。現代でも素焼きの皿を高い所から投げて割る「かわらけ投げ」をする寺社があります。この風習は完形の皿を割ることで厄を落として身を清めるためだと言われています。

 このことを頼りにして、卑弥呼の墓を考えたついでに台与の墓も考えようとしました。ところが、台与にしても万幡豊秋津師比売命(よろずはた とよあきづしひめのみこと)にしても、何歳まで生きたのかわからず、何年に亡くなったのかも記されていないのです。台与が250年頃に13歳で邪馬台国を引き継いだことだけしかわからないのです。卑弥呼が亡くなった250年頃には前方後円墳はまだ全国どこにも造られていませんでしたが、300年になる少し前に北部九州などで造られ始めたと考えられます。このため、台与の享年が50歳代でも60歳代でも、墓の形式は造られ始めたばかりの前方後円墳である可能性があります。しかし、ここで前方後円墳の起源について深堀りすると、3世紀後半の邪馬台国の重大な出来事を後回しにすることになってしまうので、前方後円墳の起源や台与の墓については後回しにします。

 このように宇佐神宮の比売大神は由緒不明の神なのですが、とてもあがめられていました。例えば8世紀の宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)では、天皇家の血筋ではない僧侶の道鏡を天皇にしていいかどうかの神託を受けるために、大和朝廷は既に創建されていた伊勢神宮ではなく、奈良から遠い宇佐神宮に和気清麻呂(わけのきよまろ)を派遣しました。宇佐神宮からは「日嗣は必ず皇緒を立てよ」との神託があり、皇統は守られ道鏡は左遷されました。大和朝廷には、比売大神は伊勢神宮の天照大御神に匹敵する神威のある神である、あるいは伊勢神宮より先に創建された神社であるという認識があったのでしょう。記紀には「高天原は筑紫」とはっきりと記しており、大和朝廷の故郷は宇佐神宮のある北部九州であるという認識があったのです。

 比売大神は天照大御神に匹敵する祭神であり、一柱のはずなので、私は宗像三神ではなく万幡豊秋津師比売命であると考えています。なにせ万幡豊秋津師比売命は宇佐神宮の鎮座する豊の国の女王であり、二代目天照大御神なのです。日本書紀の一書の編纂者は、天の岩屋戸から出てきたのは一代目天照大御神自身であると伝承どおりに考えて、二代目天照大御神であるという発想を持っていなかったために、天照大御神に匹敵する女神としては宗像三神しか思い浮かばなかったのでしょう。

 宇佐神宮には比売大神という不思議がありましたが、三重県の伊勢神宮にはもっと多くの不思議があります。例えば、伊勢神宮は初めから伊勢に創建されたわけではなく、適地を求めて奈良や滋賀、岐阜、三重の各地を14か所も転々とさまよった末に現在地に鎮座しました。途中の14か所と比べて伊勢はどこが優れていたのかは不明で、鎮座した年代も不明です。伊勢神宮という名前も、神宮が先なのか地名が先なのか不明です。いそ(磯)、いせ(伊勢)、いさな(磯魚)、いざり(漁)は、母音交替した同源の単語であると言われています。このことから、天照大御神の出身地である磯に面した早良平野の伊邪(いざ)国を由来として伊勢(いせ)神宮と称し、その地を伊勢の国と呼んだと私は推定しています。

 不思議なことはまだまだあり、伊勢神宮に現在も引き継がれている風習から、天照大御神と卑弥呼との共通点が浮かび上がります。伊勢神宮では海女が伊勢湾に潜って採った鰒(あわび)が天照大御神の好物として食卓に捧げられています。一方、魏志倭人伝には「末盧国では潜水して鰒を採取している」と記されていて、鰒を岩から剥がす道具である「あわび起こし」が、末盧国(唐津市)の菜畑(なばたけ)遺跡の他、壱岐国の原の辻(はるのつじ)遺跡とカラカミ遺跡で発掘されています。玄界灘に潜って採った鰒は間違いなく卑弥呼の食卓にのぼったことでしょう。

 100年前に出版された木下謙次郎の伝説のベストセラーを、河田容英(かわだやすひで)氏が訳した『現代語訳 美味求真』(傍流堂:2025年)には、江戸幕末時代に全国の諸大名が将軍家に献上した各地の美食食材の一覧が載っています。その中に壱岐の鮑(あわび)と、(伊勢)志摩の鳥羽藩の腹鮑子塩辛(はらあわびこ しおから:鮑の内臓の塩辛)とが載っており、鰒(鮑)の伝統は伊勢でも北部九州でも連綿と引き継がれてきていることがわかります。

 そして伊勢神宮の祭神を良く調べてみると、台与が万幡豊秋津師比売命であることも推定できます。伊勢神宮内宮(ないくう)の主祭神はもちろん正殿(しょうでん)に鎮座する天照大御神ですが、正殿の中には相殿(あいどの)が設けられていて、天手力男神(あめの たぢからのおのかみ)と万幡豊秋津師比売命が祭神となっているからです。天手力男神は天の石屋戸から天照大御神を引き出した神なので内宮の祭神となる理由は誰でも納得できると思います。しかし万幡豊秋津師比売命は、記紀の記述では天之忍穂耳命の妻に過ぎないので、天之忍穂耳命を差し置いて内宮の祭神になっているのは理屈に合いません。ところが、万幡「豊」秋津師比売命は台与であり、復活した二代目天照大御神であると考えれば、天手力男神と相まって、これほど伊勢神宮内宮の祭神に相応しい神々はいないのです。さらに、豊の国である福岡県久山町にある天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐう)の祭神も天照大御神と天手力男神と万幡豊秋津師比売命の組み合わせで、伊勢神宮内宮とまったく同じです。天照皇大神宮は「九州のお伊勢さま」と呼ばれており、豊の国に相応しい神宮だと思います。

 一方、伊勢神宮の外宮(げくう)の主祭神は豊受大御神(とようけのおおみかみ)で、内宮の天照大御神などへ食事を提供する神です。名前に「豊」が付きますが、相殿の天手力男神や万幡豊秋津師比売命へも食事を提供しているため、台与とは別人(別神)でしょう。

 伊勢神宮では冬至の前後に宇治橋の鳥居の真ん中から昇る「ご来光」を仰ぎ見る風習があります。これは247年に皆既したまま没してしまった太陽が、翌朝にキラキラと復活した時の歓喜を追体験して、日の出に感謝する風習のように思えます。また、伊勢神宮の内宮(ないくう)境内ではニワトリが放し飼いにされていますが、これは248年の皆既日食が終わる頃に高らかに鳴いたニワトリの功績を顕彰している(笑)のかも知れません。先に紹介した木下謙次郎の『現代語訳 美味求真』には「日本では鶏が太陽神の象徴とされ、伊勢神宮の神苑に現在も放し飼いにされている(中略)。また、わが国の神社の正面に建てられる鳥居は、『和名抄』に「鶏巣(けいす)なり」とあり、鶏の止まり木として古くから神聖視されていたことがわかる。」と載っています。

 さらに、伊勢神宮の内宮と外宮(げくう)では神馬(しんめ)を2頭ずつ飼っています。これは天照大御神が自決するきっかけとなった斑駒(ぶちこま)落としに由来があるのかも知れません。ただし、魏志倭人伝には「倭には牛、馬、虎、豹(ヒョウ)、羊、鵲(カササギ)はいない」と記されていて、確実に邪馬台国時代であると言える馬の骨も出土していないので、邪馬台国に斑駒がいたとしたら、帯方郡との往来で少数が持ち込まれたのかも知れません。ちなみに現在、神馬を飼っている神社は伊勢神宮だけではありませんが、馬を飼うのは大変なので、代わりに馬の絵を描いて奉納する「絵馬」が誕生しました。

 また、カササギは現在おもに北部九州で繁殖していて、私は吉野ヶ里遺跡の環濠の内側で遊ぶ2羽のカササギを見たことがあります。魏志倭人伝に「倭国にはカササギがいる」と記されていれば邪馬台国問題はとっくの昔に解決していたはずですが、残念ながら「倭国にはカササギはいない」と記されています。カササギはカラスの仲間で「カチカチ」という鳴き声から「勝ちガラス」とも言われ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に持ち帰ったという説もあり、邪馬台国時代には本当にカササギはいなかったようです。

 さて、張政は女王になった台与へも狗奴国に勝つよう激励しているので、狗奴国との戦争は終結していません。しかしこの激励を受けた直後に、台与は魏の国への朝貢を復活させ、その際に張政を帯方郡へ帰還させています。張政を帰還させたのは狗奴国との戦争に勝って張政の目的が達成されたからです。戦勝国の邪馬台国は朝貢を復活できるほどに政情が安定し、その後、各方面に邪馬台国の領土を広げていくことになるのです。しかし、魏志倭人伝に「邪馬台国は狗奴国に勝った」と明記されていないので勝敗は分からないと言う人もいて、どれだけひねくれた考えの持ち主なのかと私は呆れています。

 次回からは、台与による魏の国への朝貢で突然終わってしまう魏志倭人伝の続きとして、邪馬台国はその後どうなったかについて探っていくことにします。


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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