第13回 卑弥呼と台与、そして伊勢神宮
247~248年に卑弥呼が亡くなると、第7回で書いたとおり径百余歩(約150メートル)の塚を築いて葬りました。邪馬台国奈良説では纒向にある箸墓を卑弥呼の塚としていますが、今まで古墳を造る文化がまったく無かった奈良に、いきなり全長280メートルもある完成形の前方後円墳が出現することはあり得ないでしょう。数十年前までの考古学の常識では、前方後円墳は3世紀中頃にはまだ全国どこにも出現していなかったと考えられていたのです。ところが、箸墓を卑弥呼の墓にしたい名声のある考古学者たちにより、古墳周辺から出土する土器の編年を調整することによって、前方後円墳の発生年代の繰り上げが行われたのです。この繰り上げは第8回に書いた旧石器捏造事件を思い起こさせます。ともに仮説であるはずの自説が最優先されているのです。 不確定要素の多い考古学では、新しい説が古い説より真実に近いとは限りません。第7回に書いたとおり、元橿原考古学研究所の関川尚功(ひさよし)氏は箸墓を4世紀中頃の築造と推定しており、数十年前の常識を取り戻す動きも出て来ているのです。日本書紀には、箸墓は第七代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまと ととひ ももそひめのみこと)の墓であると明記されており、「箸墓は、昼は人が造り、夜は神が造る。大坂山の石を運んで造る。すなわち山より墓に至るまで人民が相継いで手越しに伝えて石を運ぶ」と、築造過程まで具体的に描写されています。大坂山は奈良と大阪の境にある二上山(ふたかみやま、にじょうさん)のことで、近年の研究により本当に箸墓には二上山の石が使われていることが判明しました。この事実は普通なら、箸墓を倭迹迹日百襲姫命の墓とする日本書紀の信頼度が増す方向に作用すると思うのですが、記紀をゴミ箱に捨ててしまった学者達の心には響かないようです。常日頃から裏取りを尊重しているマスコミの方々には、名声のある考古学者たちの大本営発表だけを鵜吞みにせずに報道に当たっていただきたいと切望します。 卑弥呼の墓は、邪馬台国北部九州説では第7回に書いたとおり糸島市の平原(ひらばる)遺跡の14×12メートルの方形周溝墓が最有力です。平原遺跡の副葬品としては、後漢式鏡を含む銅鏡が何と40面もあり弥生時代としては全国の最大数を誇ります。しかも国内最大の直径を持つ内行花文鏡が5面も含まれています。5面の内行花文鏡の直径は「約46.5センチ」あり中国大陸にもない国産銅鏡で、三種の神器のひとつである八咫鏡(やたのかがみ)と見られます。咫(あた)は長さの単位で1咫は約18.5センチなので、八咫は約18.5×8=148センチになります。これを円周と考えて3.14で割ると、直径は約148÷3.14=約47センチとなり、平原遺跡の内行花文鏡とほぼ一致します。その他の副葬品として、鉄製の素環頭太刀(そかんとうたち)1本や、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの多数の玉類もあり、三種の神器が揃っています。素環頭太刀とは持ち手の柄頭(つかがしら)の部分が模様の無い円環(素環頭)になっている鉄剣のことで、邪馬台国時代の北部九州から出土します。古墳時代になると各地の古墳からも素環頭太刀が出土するようになります。 さて、北部九州においては鏡などの宝器は王の所有物であるとの認識があったようで、王が亡くなると伝世されずに墓に埋納されました。それは伊都国の世々(代々)のそれぞれの王墓から大量の宝器が出土することでわかります。例えば、紀元前1世紀頃の三雲南小路王墓(みくも みなみしょうじおおぼ)1号甕棺(かめかん)からは銅鏡が35面、管玉多数、ガラス製勾玉3個、銅矛2本、銅剣1本、ガラス製璧(へき)8枚などが納められていました。また、1号甕棺の隣りの2号甕棺からは銅鏡22面、ガラス製勾玉12個、ヒスイ製勾玉1個、ガラス製璧片1個が納められていました。さらに、1世紀の井原鑓溝王墓(いはらやりみぞ おうぼ)からは銅鏡20枚、鉄刀1本が納められていました。平原遺跡から出土した大量の宝器も、伝世されることなくすべてが埋納されたと考えられます。 平原遺跡の銅鏡はほとんどがかなり細かく割れています。銅は金属としては強度が弱くて割れやすいのですが、土圧で割れたのなら復元に苦労するほどバラバラになることはありませんから、やはり割ってから埋納したのでしょう。鏡を割った理由は想像するしかありませんが、私は次のように考えています。 天照大御神は人災または日食や自然災害という天災の責任をとって自決したため、高齢ではあるものの老衰死ではありませんでした。天照大御神の分身である八咫鏡は、完形のまま埋納するのではなく割って埋納することにより災いを封じ込めて、二代目天照大御神(台与)による新生の世を希求したのではないでしょうか。現代でも素焼きの皿を高い所から投げて割る「かわらけ投げ」をする寺社があります。この風習は完形の皿を割ることで厄を落として身を清めるためだと言われています。 次に、なぜ一代目天照大御神(卑弥呼)は、高天原(邪馬台国)のあった筑紫平野ではなく、伊都国の平原遺跡に葬られたのでしょうか。それは帯方郡から倭国に来た張政一行に墓を見せるためでしょう。張政一行は筑紫平野の邪馬台国ではなく伊都国に数年間駐留していました。魏志倭人伝に「伊都国は郡使が往来する時に常に留まる場所である」と明記されています。張政は黄幢と檄文により狗奴国との戦争に勝利するように邪馬台国を鼓舞して支援しています。そんな最中に自決した卑弥呼の墓はどのようなものになり、王位は順調に継承されるのかという点に、張政の関心はあったと思います。実際に魏志倭人伝には「卑弥呼が亡くなると径百余歩の塚を築いて葬った」としっかりと記録されました。また、天照大御神の生誕地である早良平野(伊邪国)はすぐ東隣りで、出身地への里帰りの意味もあったと思います。母の伊邪那美命も出身地の出雲の比婆山に葬られましたし、大和朝廷時代になってからも天皇や豪族の妻は出身地に葬られる例が多数見られ、この風習は長期に渡り継承されています。 邪馬台国の都は台与時代に遠賀川流域一帯の台与国(投馬国、豊の国)へと遷った可能性を第8回で紹介しました。台与の父親の高御産巣日神は高木神社の主祭神であり、高木神社は朝倉盆地周辺に15座、遠賀川上流域を中心とした豊の国に14座が鎮座していることと、福岡市西区には2世紀の王宮である吉武高木遺跡があることは、第10回で紹介しました。つまり、高木神は早良平野の神であった時代もあり、朝倉盆地の邪馬台国時代には娘の台与を後継者として立てた神であり、後に豊の国への遷都を実行した神であると思います。このように、高御産巣日神は長期に渡って活躍しているので、世襲されていく神名でしょう。 このことを頼りにして、卑弥呼の墓を考えたついでに台与の墓も考えようとしました。ところが、台与にしても万幡豊秋津師比売命(よろずはた とよあきづしひめのみこと)にしても、何歳まで生きたのかわからず、何年に亡くなったのかも記されていないのです。台与が250年頃に13歳で邪馬台国を引き継いだことだけしかわからないのです。卑弥呼が亡くなった250年頃には前方後円墳はまだ全国どこにも造られていませんでしたが、300年になる少し前に北部九州などで造られ始めたと考えられます。このため、台与の享年が50歳代でも60歳代でも、墓の形式は造られ始めたばかりの前方後円墳である可能性があります。しかし、ここで前方後円墳の起源について深堀りすると、3世紀後半の邪馬台国の重大な出来事を後回しにすることになってしまうので、前方後円墳の起源や台与の墓については後回しにします。 さて、豊の国である大分県宇佐市の宇佐神宮の主祭神は比売大神(ひめおおかみ)で、後世に第十五代応神天皇(安本美典氏の年代推定では410年頃の天皇)と、応神天皇の母の神功皇后(じんぐうこうごう)が祭神に加わりました。 宇佐神宮の比売大神は記紀などには記されていない由緒不明の神です。しかし宇佐神宮では、比売大神を宗像三神(むなかたさんしん)としています。その根拠は日本書紀の一書(あるふみ)に「日神が生ませた三女神は葦原中国(あしはらの なかつくに)の宇佐島に天降りさせ、後に海の北の道にいる」と記されているからだと思いますが、三柱の神を一柱に一括りにして祀っている神社は日本全国でここしかありません。宗像三神を祀る宗像神社でさえ沖津宮、中津宮、辺津宮の三つの社殿にそれぞれ一柱づつ祀っています。しかも、日本書紀の本文ではなく一書にしか記されていない別伝であり、その別伝でも宇佐島に天降りさせたとありますが、宇佐神宮に祀ったとは記されていません。 このように宇佐神宮の比売大神は由緒不明の神なのですが、とてもあがめられていました。例えば8世紀の宇佐八幡宮神託事件(道鏡事件)では、天皇家の血筋ではない僧侶の道鏡を天皇にしていいかどうかの神託を受けるために、大和朝廷は既に創建されていた伊勢神宮ではなく、奈良から遠い宇佐神宮に和気清麻呂(わけのきよまろ)を派遣しました。宇佐神宮からは「日嗣は必ず皇緒を立てよ」との神託があり、皇統は守られ道鏡は左遷されました。大和朝廷には、比売大神は伊勢神宮の天照大御神に匹敵する神威のある神である、あるいは伊勢神宮より先に創建された神社であるという認識があったのでしょう。記紀には「高天原は筑紫」とはっきりと記しており、大和朝廷の故郷は宇佐神宮のある北部九州であるという認識があったのです。 比売大神は天照大御神に匹敵する祭神であり、一柱のはずなので、私は宗像三神ではなく万幡豊秋津師比売命であると考えています。なにせ万幡豊秋津師比売命は宇佐神宮の鎮座する豊の国の女王であり、二代目天照大御神なのです。日本書紀の一書の編纂者は、天の岩屋戸から出てきたのは一代目天照大御神自身であると伝承どおりに考えて、二代目天照大御神であるという発想を持っていなかったために、天照大御神に匹敵する女神としては宗像三神しか思い浮かばなかったのでしょう。 宇佐神宮には比売大神という不思議がありましたが、三重県の伊勢神宮にはもっと多くの不思議があります。例えば、伊勢神宮は初めから伊勢に創建されたわけではなく、適地を求めて奈良や滋賀、岐阜、三重の各地を14か所も転々とさまよった末に現在地に鎮座しました。途中の14か所と比べて伊勢はどこが優れていたのかは不明で、鎮座した年代も不明です。伊勢神宮という名前も、神宮が先なのか地名が先なのか不明です。いそ(磯)、いせ(伊勢)、いさな(磯魚)、いざり(漁)は、母音交替した同源の単語であると言われています。このことから、天照大御神の出身地である磯に面した早良平野の伊邪(いざ)国を由来として伊勢(いせ)神宮と称し、その地を伊勢の国と呼んだと私は推定しています。 不思議なことはまだまだあり、伊勢神宮に現在も引き継がれている風習から、天照大御神と卑弥呼との共通点が浮かび上がります。伊勢神宮では海女が伊勢湾に潜って採った鰒(あわび)が天照大御神の好物として食卓に捧げられています。一方、魏志倭人伝には「末盧国では潜水して鰒を採取している」と記されていて、鰒を岩から剥がす道具である「あわび起こし」が、末盧国(唐津市)の菜畑(なばたけ)遺跡の他、壱岐国の原の辻(はるのつじ)遺跡とカラカミ遺跡で発掘されています。玄界灘に潜って採った鰒は間違いなく卑弥呼の食卓にのぼったことでしょう。 100年前に出版された木下謙次郎の伝説のベストセラーを、河田容英(かわだやすひで)氏が訳した『現代語訳 美味求真』(傍流堂:2025年)には、江戸幕末時代に全国の諸大名が将軍家に献上した各地の美食食材の一覧が載っています。その中に壱岐の鮑(あわび)と、(伊勢)志摩の鳥羽藩の腹鮑子塩辛(はらあわびこ しおから:鮑の内臓の塩辛)とが載っており、鰒(鮑)の伝統は伊勢でも北部九州でも連綿と引き継がれてきていることがわかります。 そして伊勢神宮の祭神を良く調べてみると、台与が万幡豊秋津師比売命であることも推定できます。伊勢神宮内宮(ないくう)の主祭神はもちろん正殿(しょうでん)に鎮座する天照大御神ですが、正殿の中には相殿(あいどの)が設けられていて、天手力男神(あめの たぢからのおのかみ)と万幡豊秋津師比売命が祭神となっているからです。天手力男神は天の石屋戸から天照大御神を引き出した神なので内宮の祭神となる理由は誰でも納得できると思います。しかし万幡豊秋津師比売命は、記紀の記述では天之忍穂耳命の妻に過ぎないので、天之忍穂耳命を差し置いて内宮の祭神になっているのは理屈に合いません。ところが、万幡「豊」秋津師比売命は台与であり、復活した二代目天照大御神であると考えれば、天手力男神と相まって、これほど伊勢神宮内宮の祭神に相応しい神々はいないのです。さらに、豊の国である福岡県久山町にある天照皇大神宮(てんしょうこうたいじんぐう)の祭神も天照大御神と天手力男神と万幡豊秋津師比売命の組み合わせで、伊勢神宮内宮とまったく同じです。天照皇大神宮は「九州のお伊勢さま」と呼ばれており、豊の国に相応しい神宮だと思います。 一方、伊勢神宮の外宮(げくう)の主祭神は豊受大御神(とようけのおおみかみ)で、内宮の天照大御神などへ食事を提供する神です。名前に「豊」が付きますが、相殿の天手力男神や万幡豊秋津師比売命へも食事を提供しているため、台与とは別人(別神)でしょう。 伊勢神宮では冬至の前後に宇治橋の鳥居の真ん中から昇る「ご来光」を仰ぎ見る風習があります。これは247年に皆既したまま没してしまった太陽が、翌朝にキラキラと復活した時の歓喜を追体験して、日の出に感謝する風習のように思えます。また、伊勢神宮の内宮(ないくう)境内ではニワトリが放し飼いにされていますが、これは248年の皆既日食が終わる頃に高らかに鳴いたニワトリの功績を顕彰している(笑)のかも知れません。先に紹介した木下謙次郎の『現代語訳 美味求真』には「日本では鶏が太陽神の象徴とされ、伊勢神宮の神苑に現在も放し飼いにされている(中略)。また、わが国の神社の正面に建てられる鳥居は、『和名抄』に「鶏巣(けいす)なり」とあり、鶏の止まり木として古くから神聖視されていたことがわかる。」と載っています。 さらに、伊勢神宮の内宮と外宮(げくう)では神馬(しんめ)を2頭ずつ飼っています。これは天照大御神が自決するきっかけとなった斑駒(ぶちこま)落としに由来があるのかも知れません。ただし、魏志倭人伝には「倭には牛、馬、虎、豹(ヒョウ)、羊、鵲(カササギ)はいない」と記されていて、確実に邪馬台国時代であると言える馬の骨も出土していないので、邪馬台国に斑駒がいたとしたら、帯方郡との往来で少数が持ち込まれたのかも知れません。ちなみに現在、神馬を飼っている神社は伊勢神宮だけではありませんが、馬を飼うのは大変なので、代わりに馬の絵を描いて奉納する「絵馬」が誕生しました。 また、カササギは現在おもに北部九州で繁殖していて、私は吉野ヶ里遺跡の環濠の内側で遊ぶ2羽のカササギを見たことがあります。魏志倭人伝に「倭国にはカササギがいる」と記されていれば邪馬台国問題はとっくの昔に解決していたはずですが、残念ながら「倭国にはカササギはいない」と記されています。カササギはカラスの仲間で「カチカチ」という鳴き声から「勝ちガラス」とも言われ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に持ち帰ったという説もあり、邪馬台国時代には本当にカササギはいなかったようです。 神社つながりの余談ですが、東京都杉並区高円寺には全国で唯一の気象神社があります。気象神社の主祭神は高御産巣日神の御子である天思兼命(あめの おもいかねのみこと)で、天照大御神が天の石屋戸に隠れてしまった時に善後策を考えた知恵の神です。気象神社の祝詞(のりと)では「気象観測がうまく行われ、天気予報の適中に並々ならぬ神の御神威を授けたまえ。(中略)天気予報の完全適中を目的として六月一日の気象記念日を生日乃足日乃良日(いくひの たるひの よきひ)と選び定めて祝い祭る」と唱えられ、6月1日に例大祭が開かれているようです。気象記念日は、気象庁の前身である東京気象台が1875年(明治8年、2025年は150周年) 6月1日に、世界の十指に入るほど早期に設置されたことに由来します。しかし我が国は政教分離であるため、例大祭の日取りは気象神社による独自の判断です。気象神社の参拝者は、イベントがある日の晴天祈願や、合格率5%前後の気象予報士国家試験の合格祈願などで訪れるようです。奉納する絵馬は、昔の天気占いに使った(?)下駄の形をしていてシャレています。天思兼命は皆既日食の善後策も編み出した知恵の神なので御利益(ごりやく)があるかも知れません。 さて、高天原の奪取に失敗した須佐之男命は天の石屋戸事件の直後に高天原から出雲へ永久追放されます。高天原は出雲を島流し先として扱っており、このことからも出雲は格下であることがわかります。しかし、須佐之男命は荒ぶ神から一転して出雲を発展させる偉大な王に変身するのです。出雲では高天原の様な天変地異が起こらなかったのかも知れません。九州は西側に東シナ海が広がっているため暖湿気流による豪雨災害が起きやすいですが、出雲は日本海からの降雪があるものの災害は多くありません。高天原から追放された須佐之男命ですが、結果的には出雲への天降り(あまくだり)一番乗りと位置付けられ、その後も二番手、三番手と神々が出雲へ天降りして完全に屈服させようとします。 さて、張政は女王になった台与へも狗奴国に勝つよう激励しているので、狗奴国との戦争は終結していません。しかしこの激励を受けた直後に、台与は魏の国への朝貢を復活させ、その際に張政を帯方郡へ帰還させています。張政を帰還させたのは狗奴国との戦争に勝って張政の目的が達成されたからです。戦勝国の邪馬台国は朝貢を復活できるほどに政情が安定し、その後、各方面に邪馬台国の領土を広げていくことになるのです。しかし、魏志倭人伝に「邪馬台国は狗奴国に勝った」と明記されていないので勝敗は分からないと言う人もいて、どれだけひねくれた考えの持ち主なのかと私は呆れています。 次回からは、台与による魏の国への朝貢で突然終わってしまう魏志倭人伝の続きとして、邪馬台国はその後どうなったかについて探っていくことにします。 高橋 永寿(たかはし えいじゅ) 1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。
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