第17回 ユクスキュルの環世界論は本当にハイデガーに影響を与えたのか?
SNSなどでハイデガーに関する書き込みを見ていると、ハイデガーが『存在と時間』で打ち出した「世界‐内‐存在」という概念が、生物学者ヤーコプ・フォン・ユクスキュル(1864-1944)の環世界論から着想を得ているというコメントがしばしば目に飛び込んでくる。この解釈の出元は木田元である。木田のハイデガー解説書は1990年代以降、多くの読者に読まれた。その余勢を駆って、木田は一般読者向けのエッセーなども多数、上梓するようになった。木田はそれらの著作のなかで、繰り返しハイデガーの思想に対するユクスキュルの影響について触れたため、この見方が人口に膾炙することになった。 たとえば自伝『闇屋になりそこねた哲学者』で木田は次のように述べている。 ハイデガーの講義録を読むと、具体的な材料に即してじつに平易に書かれています。ただ、ハイデガーも性格の悪い男ですから、本にするときは本当のネタは隠してしまいます。講義録では、「世界内存在」の概念はユクスキュルの環境世界理論とつなげて、じつによくわかるように解き明かしているのに、『存在と時間』では、ユクスキュルのユの字も出しません。その先駆者のフォン・ベーアという生物学者の名はちらっと出しているのですが。それを、講義録ではユクスキュルの名前をちゃんと出して、その環境世界理論に言及しているので、かなり小意地の悪いところはあります。[1] ハイデガーの「世界‐内‐存在」がユクスキュルの影響を受けていることは、ハイデガーは性格が悪いということと並んで、多くの人が言及する定番の見方となっている。しかも今見た引用では、この二つの定番的な議論が合体させられて、ハイデガーがユクスキュルの影響を受けながらもそのことを隠していることが、ハイデガーの性格の悪さと結び付けられている。しかしそもそも、ハイデガーの「世界‐内‐存在」がユクスキュルの環世界論からその着想を得たというのは本当であろうか。 この点を検討するために、まず木田自身がハイデガーとユクスキュルの関係についてどのように述べているかを確認しておくことにしよう。木田は『ハイデガーの思想』で、ユクスキュルの思想を次のように要約する。「動物にとっての〈環境〉とは、それぞれの種が感受し反応しうる有効な刺激の総体であり、それぞれの種の感覚器官や運動器官の違いに応じて、環境も種によって異なる。ダニにはダニの環境があり、ミツバチにはミツバチの環境があるのである。」[2] ユクスキュルの議論をこのように要約したあと、木田は動物がこのように環境にはめ込まれていることをハイデガーとも親交があった現象学者マックス・シェーラー(1874-1928)が「環境繋縛性」と呼んでいたことを紹介する。木田によると、シェーラーはそうした動物のあり方と対比して、人間の固有性を「人間だけはその時どきの環境に完全にとりこまれ縛りつけられることなく、そこから少し身を引き離し、(…)もっと広い〈世界〉に開かれている」といった仕方で特徴づけた。シェーラーはこうした人間の存在構造を「世界開在性」と名づけたのであった。 このように論じたうえで、木田は「ハイデガーも『存在と時間』において、明らかにシェーラーのこの概念の影響のもとに、人間のこうしたあり方を〈世界内存在〉という奇妙な概念で捉えている」と述べている[3]。この議論にしたがえば、ハイデガーの「世界‐内‐存在」という思想に直接的な影響を与えたのはシェーラーだということになる。元来、ユクスキュルの研究は動物の生態を扱うものであり、人間固有の存在がいかなるものであるかを主題的に論じていたわけではない。そうだとすれば、木田がシェーラーではなくユクスキュルの影響をことさらに強調するのは、木田の議論に即してもいささか的外れであるように思われる。 しかもハイデガー自身が『存在と時間』において、現存在の分析は生物学に基づいたものではないことをこの上なく明確に述べている。ハイデガーによると、生物学こそが現存在の分析を前提にし、そこからいわば引き算する仕方で生物の存在を捉えざるをえない[4]。木田はハイデガーが『存在と時間』ではユクスキュルへの依拠を隠しているが、講義でははっきり語っていると述べていた。たしかに『存在と時間』執筆中に行われた1925/26年冬学期講義『論理学 真理への問い』ではユクスキュルに対する言及も見られる。しかしそこでも生物学こそが現存在の分析を前提にしていることが述べられており、つまり『存在と時間』と同じことが語られているにすぎない[5]。 生物学が哲学に依存しているという点については、実はユクスキュル自身がそのことをはっきりと認めている。この場合、ユクスキュルが依拠しているのはカントの超越論的観念論である。彼は『理論生物学』の序論において、自身の狙いがカント哲学の生物学への拡張であることをきわめて明快に次のように述べている。 あらゆる現実性は主観的な現象である――このことは生物学についても重要で根拠となる認識でなければならない。主観から独立した原因を全世界、探し回ってもまったく無駄であって、われわれはつねに主観によって構築された対象に行き当たるのである。/対象は現象であり、それらは主観によって構築されているという認識によって、われわれは由緒ある確保された領域に踏み入っている。それはカントが唯一無二の仕方で用意して、あらゆる自然科学の体系を担っているものである。カントは対象に対して人間主観を対置し、根本原理を見つけ出した。この根本原理にしたがってわれわれの心が対象を構築するのである。/生物学の課題はカントの研究の成果を次の二つの方向に拡張することである。1.われわれの身体の役割、とりわけ感覚器官と中枢神経システムも含めての役割を考慮に入れること、2.他の主観(動物)の対象への関係を研究すること。[6] この言にしたがえば、環世界論はカント的な超越論的主観を動物に読み込んだものだということになる。実際、ユクスキュルの環世界論を見てみると、それは全面的に主観‐客観図式に依拠して組み立てられている。彼は環世界を主観と客観の循環的な相互作用として説明している。ある客観が担う知覚標識が主観を刺激すると、その刺激は主観のある作用を触発する。その作用は客観に作用標識を与え、それが新たな知覚標識を生み出し、それが主観を刺激する。こうした主観と客観の循環的な相互作用をユクスキュルは「機能環」と呼んでいる[7]。 実はこうした主観‐客観図式こそ、ハイデガーが現存在の分析によって克服しようとしていたその当のものであった。ハイデガーは人間の存在を「世界‐内‐存在」と規定することで、人間が主観を介して客観へと関わる存在者ではなく、直接的に世界そのものに晒し出されていることを強調しようとした。つまりこの規定は当初から人間を主観や意識として捉えることから距離を取ったものだった。そうである以上、主観性の哲学に基づいたユクスキュルの生物理論もハイデガーにとっては原理上、そこから何か哲学的示唆を得られるようなものではありえないだろう。 しかしハイデガーが『存在と時間』で語っていた「世界」がユクスキュルの環世界のようなものではないとすれば、つまり主観の相違に応じた物事のさまざまな現象を問題にしているのではないとすれば、それはいったい何を意味するのだろうか。 この点を検討するため、ハイデガーが『存在と時間』で「世界」という事象にどのようにアプローチしているかを簡単におさらいしてみたい[8]。彼はそこで日常において出会われる存在者、すなわち「道具」を例にとって考察を展開している。ハイデガーはわれわれがそうした道具に出会うとき、われわれは道具「のもとに」いることを強調する。つまりわれわれは道具についての意識や観念のもとにいるわけではなく、端的に道具そのもの「のもとに存在する(Sein-bei)」のである。 ハイデガーはこのことを確認したうえで、そうした道具が単独で存在しているわけではないことに注意を促す。ここでは彼の議論を詳しく追うことはしないが、彼が『存在と時間』で、道具とそれに応じた現存在の実践の連関全体を「世界」として描き出していることはよく知られているだろう。彼は道具が必ずある特定の世界を背景にして存在していることを指摘する。つまり道具が存在するということは、道具がそこにおいてこそ意味をもつ固有の世界がそこに開かれているということと不可分なのである。たとえばハンマーがそこにあるということは、そこが靴職人の仕事場だということである。 ここで注意しなければならないのは、このようにハンマーの存在と不可分の仕方で立ち現れている仕事場の世界は、職人の主観的意識の構成物といったものではないということだ。むしろその世界は職人の主観を越えて、疑うまでもなく実在するものとして職人自身のあり方をつねにすでに規定してしまっている。われわれはさしあたり主観的意識のもとにいて、そこから客観的世界へと越え出ていくわけではない。そうではなく、むしろ最初から今述べたような世界のうちに投げ出され、そのうちにおのれを見出す存在であることが、現存在が「世界‐内‐存在」であることの意味である。 今も見たように、ハイデガーは『存在と時間』では道具を手がかりにして、その存在が世界と不可分であることを示すことによって世界にアプローチしている。しかしその存在において世界を前提するという点では、道具ではない存在者も道具と変わりがない。たとえば動物などの生物についても存在論的な考察を行えば、その存在においてある固有の環境を前提にしていることが示されるだろう。 以上のことからもわかるように、ハイデガーの世界論は人間であれ、動物であれ、何らかの主観が世界をそれぞれ異なった仕方で解釈し、そうした意味でそれぞれ異なった世界をもつといったような主観性の哲学に立脚したものではない。むしろあらゆる存在者がその存在において世界を前提にし、すなわちそれらはある固有の世界のうちではじめてそれ自身として存在しうるという洞察に根ざしている。このように世界を存在者の存在構造そのものに属するものと見なすハイデガーの立場は、それ自身が世界を主観的表象の単なる相関物に解消するようなカント的/ユクルキュル的な世界論に反対する意図をもって主張されているのである。 もっとも『存在と時間』の世界論はその言語的表現という点から見ると、世界を主観的表象と捉えるようなユクスキュル的な世界論との差別化が十分にできていない。むしろ同書では、世界の「了解」や「企投」といった言い方がなされるため、世界を主観的意識による構成物と見なすような解釈がむしろ助長されることになった。ハイデガーは『存在と時間』刊行後ほどなくして、こうした叙述の根本的な問題を意識するようになった。彼の思索におけるその後の努力は、自身の哲学的立場を主観的観念論と明確に差別化することに向けられる。ここで詳しく論じることはできないが、難解で秘教的だとされる彼の後期哲学の語り口もそうした努力の結果として生み出されたものである[9]。 私は今回、木田説を吟味するためにユクスキュルの著作にはじめて目を通したが、その環世界論が近代の主観‐客観図式に全面的に立脚していることに意表を突かれた。ハイデガー哲学との親近性が語られる以上、まさかここまであからさまに主観‐客観図式に依拠しているとは予想していなかったからだ。生物の生態を主観と客観とのあいだの相互作用からなる機能環として捉えるユクスキュルの環世界論は、ハイデガーの世界論というよりは、むしろのちに数学者ノルベルト・ウィーナー(1894-1964)が提唱するサイバネティックスのフィードバックと呼ばれる過程にはるかに近いもののように思われた。実際、ユクスキュルの環世界論はサイバネティックスを先取りしたものと評価されることも多い[10]。 まさにこのサイバネティックスこそ、ハイデガーが1960年代以降、その「技術への問い」において西洋の「主観性の形而上学」の完成形態と見なすようになったものである[11]。こうしたことにも、ハイデガーの「世界‐内‐存在」とユクスキュルの環世界論がその哲学的基礎においてまったく異なるものであることがはっきりと示されている。ハイデガーがユクスキュルの影響を否定するのも当然である。それにもかかわらず、木田はハイデガーがユクスキュルからの影響を隠していると非難する。しかも木田はこのことをもってハイデガーの性格が悪いと断じているのだから、たちが悪いことこの上ない。巷の「ハイデガーは性格が悪い」という評価がこの程度の浅慮に基づいてなされていることは、もっと広く世に知られてしかるべきであろう。 [1] 木田元『闇屋になりそこねた哲学者』晶文社、2003年、137頁。 [2] 木田元『ハイデガーの思想』岩波新書、1993年、83頁以下。 [3] 同書、84頁以下。 [4] Martin Heidegger, Sein und Zeit, Tübingen, 2006, S. 58. [5] Martin Heidegger, Logik: Die Frage nach der Wahrheit, Gesamtausgabe, Bd.21, Frankfurt am Main, 1976, S. 215f. [6] Jakob von Uexküll, Theoretische Biologie, zweite gänzlich neu bearbeitete Auflage, Berlin, 1928, S.2f. [7] ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界』日高敏隆、羽田節子訳、岩波文庫、2005年、20頁以下。 [8] Vgl., Martin Heidegger, Sein und Zeit, S. 63ff. [9] 拙著『ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで』講談社現代新書、2023年、第5章参照。 [10] ユクスキュルの環世界論とサイバネティックス理論との類似性については、たとえば以下の論文で指摘されている。秋澤雅男「ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの環境世界論再考」『立命館経済学』第43巻、第5号、1994年。 [11] 拙著『ハイデガーの哲学』、446頁以下。 轟 孝夫 経歴 1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)、『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)、『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。
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