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第15回 山陰へ(1)

 僕にはふるさとがない。生まれは千葉県市川市。小学5年生になると、父の転勤に伴い、横浜へお引越し。大学卒業後は東京周辺を転々としていた。いまや親族で市川市に住む人はいない(はず)。帰還すべき、帰還できる地はない。そもそも令和のニッポン、正月やお盆には田舎に帰郷し、親戚一同が顔を揃えるというシーンは少なくなったろう。だから、ふるさとがないことになんの引け目も屈託もないが、それでもあえてふるさとのような場所を挙げれば、北海道の八雲だ。祖母、米子(よねこ)おばあちゃんの生まれの地である。毎年ではなかったものの、数年に一度はおばあちゃんに連れられて海を渡り、彼女の弟が住む八雲で夏のひとときを過ごした。

 おじちゃんの家は仏壇のためだけの一間があったし、1階もさることながら2階にもたくさんの部屋があった。いざとなったら二ケタの人を泊めてしまえるだろう。その昔は、自宅からすぐそばの八雲駅前に大きな商店を構えていたという。父の代から続く地元の名士。玄関前には人懐っこい柴犬が必ず待ち構えており、久々の対面でもキャンキャンと寄ってきてくれて嬉しかった覚えがある。これまで僕は一度も動物を飼ったことがなく、どう触れ合えば良いのか、どうすれば喜ぶのか、人間と非常に近しい関係の犬ですら分からない。あのワン公との接触がなければ、僕は一生、人間以外の動物とじゃれ合うことなんてなかったろう。

 北の地とはいえ夏場はかなり気温が上昇するため、ほんの数週間だけは海水浴を楽しめる。砂浜に穴を掘って、波が来るのを待ち構える。ザブンと押し寄せ、そして引くと、そこにはたくさんの小さなエビが残される。即興的な生け簀だ。穴が崩れかけてきたら、また掘って、形を整えて、ほのかに赤く透き通った生き物を眺め続ける。東京湾では絶対に叶うまい。函館山に太陽が隠れるまで、何度も繰り返した。どうやら僕の甲殻類好きはこの頃に始まったのかもしれない。

 すでに運休となって久しい寝台特急「北斗星」や青函連絡船も得難い体験であった。シンと寝静まった夜中、ふと起きて小さな窓から人気のない駅を眺めて怖い気持ちになったり、意外と高い波に足もとをふらつかせながら船内をぐるぐると歩き回ったり…僕の旅好きは、楽しい楽しい八雲旅行が発端となっているのだろう、きっと。

 その八雲は、尾張徳川家17代当主の徳川慶勝が晩年、当地の開拓を担うべく移住した際、素戔嗚尊が読んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」にインスピレーションを受けて名付けたという。安寧たる理想郷建設を願ったのだ。1886年に八雲神社が正式に認められ、翌年に熱田皇大神の分霊を同神社に遷宮。祭神は熱田大神、天照大神、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命…当然のごとく熱田神宮にならっているが、出雲を中心とした日本海文化圏の最北端とも言うべき地理的事情もあろう、遊楽部川の畔に立った慶勝は海と小山に囲まれた風景に既視感を覚え、「八雲立つ…」と思わず口走ってしまったのではないか。夏だから当たり前なのかもしれないが、八雲の大きな空を見上げれば、いつだってこんもりとした雲が浮かんでいた。

 ―――――

 岡山駅に到着する直前、やや緊張を帯びた口調で車内放送が流れてきた。「前日の豪雨の影響で、出雲市駅までのやくも号は今現在、運行を中止させていただいています。再開予定は15時以降となっております。繰り返しお伝えします…」。ああ、なんてことだ。このたびの山陰旅行、すんでのところで雨雲と遭遇しなかったことに昨晩、安どの息を付いていたのだが、翌日の運行に影響を及ぼすほどの降水量だったことに頭が回らなかった。いや、量の問題でないのかもしれない。いましがたパソコンを開いてみたら、知り合いの編集者から「僕も出雲へは岡山から特急やくもで行きました。揺れますのでお弁当お茶の飲食は気をつけて。出雲からの帰りは、電車が鹿と接触して遅延しました」との不穏な?メールが届いていたのだ。なるほど、瀬戸内海と日本海を繋ぐやくも号は一筋縄ではいかないのだ。魔物が住んでいると言ったら鹿やカミナリさんは怒るだろうか。とかく、この地は自然に満ち満ちている。改札口を出るや、一目散でみどりの窓口へ駆け付け、その15時台の列車の切符を確保できた。ただし、すでに指定席は完売、デッキでの立ち乗りとなるという。まあ、それは我慢するしかない。しかし、二つの問題が発生した。この旅で出雲大社に次ぐ楽しみにしていた足立美術館への訪問を諦めざるを得なくなったこと。そして15時までの3時間余り、いかにして有意義に過ごすかということ。くよくよするのは後回し。今出来ることを今しよう。

 岡山といえばシャインマスカットであり、ワイン好きな僕としてはワイナリーに寄ってみたい気持ちは少なからずあったが、3時間以内に戻ってこれるようなところにブドウ畑などあるわけがなく、岡山駅から1キロほど西にある岡山城、岡山後楽園が妥当な観光スポットだと判断した。iPhoneのマップによるとバスという手段が時間的にも金銭的にも最も手堅いようだったが、僕は路面電車に惹かれた。バスは見るからに大混雑だったのに、路面電車はというと、乗車場が分かりにくく、運行便数も少ないためか、乗車率は50%といったところ。岡山駅から3つ目の「城下」でほとんどの乗客が降りてしまったが、僕は次の「県庁通り」で下車。時刻は正午過ぎ。本日の朝ご飯は少々早めに取ったのでお腹がグーグー鳴っている。バスに乗車するやネットで調べたら「太田」というラーメン屋がヒットしたのだ。

 まずは、面構えがいい。人も店も見た目は大事。どれだけの行列ができていると心配していたが、ちょうど波が引いたところだったか。すぐさま入店できた。どうやらツキは上向いているよう。厨房を覗くと、男一人で作業をしている。まだ30手前だろう。その表情にはあどけなさを残しているが、念入りに湯切りし、具材を盛り付け、そして出来上がったと思いきや、器ごとにレンゲでスープをすくい、口に含んで味の微調整をしている。ときおり、ほんの少しだけ湯を投入する。半開きした口元が逆に一心不乱さを物語る。もっとも、手間を掛けつつも手際は決して悪くない。着席してから、ものの5、6分で着丼。一見は素朴な醤油ラーメンだが、凝縮された鶏の旨味が五臓六腑に染み渡る。何の変哲もないように映る葱も異様に旨い。とても細く、かつ短く切っているので口に運びやすく、食感も不思議といい。切り方一つでこうも違うのか。違うのである。敢えて老舗一歩手前で踏みとどまり、常に革新を怠らない気迫を感じさせる店であった。

 「太田」からはてくてく歩いてお濠まで行ってみる。徐々に天守閣の様子がはっきりとしてくる。

▲岡山城

 形は若松城のそれに似ているような気がするが、それは素人の意見。僕は彦根城しか登ったことがない。大阪城もそうだったようだが、黒塗りの下見板で覆われた天守閣は非常に珍しいよう。烏城(うじょう=「う」はカラスの意)と呼ばれているのも頷ける話だが、1597年の築城時には城内のあちこちに金箔瓦が用いられていただけに金烏城と呼ばれていたという話もある。明治維新後まで奇跡的に大きな損傷を免れていたが、1945年の岡山大空襲でB-29爆撃機が投下した焼夷弾により焼失。これは無念。その21年後に再建され、令和3~4年にかけても改修工事を行ったことで、今現在のような清潔感ある見栄えとなっている。

 S字状に蛇行する旭川を境に、南側に岡山城、北側に岡山後楽園が位置している。月見橋を渡り、かの地へ。

▲月見橋からお濠を望む

 よくよく地図を眺めてみれば、川の中に庭園をこしらえた格好であり、川で囲まれていながらも、その中に小川が流れ、池が三つ浮かんでいる形態は何とも面白い。マトリョーシカボックスさながらに、池の中の島にまた小さな池があったりして…。水戸の偕楽園、金沢の兼六園とともに「日本三名園」と呼ばれるほどなのだから一度くらいは足を運んでしかるべきだし、なんといっても入場門の目の前まで来ているのだ。しかし、この日も残暑が厳しかった。時間もそれほど残されていない。しばし逡巡していると、タイミング良く?周回バスがやってきたので、自然と足はそちらのほうへ向いた。

 さあ、いざ米子である。「おばあちゃん、よねこって、よなごと同じなの?」「違うねえ」「よなごには行ったことはあるの?」「ないねえ」「一度も?」「ないねえ」。生前、怒った顔をついぞ一度も見たことがなかったが、知らないことを聞くとやけにそっけなかった。津田塾大学卒業の才媛。誰に対しても分け隔てなく接するおおらかな性格だったが、「八雲はねえ、田舎だったのよ。私は函館に住みたかったわ」と繰り返し語っていたように、なにげにハイカラでプライドが高かった大正女である。

 列車は定刻通り、出発。よねこならぬ、よなごで一仕事があるのだ。この期に及んでまさか米子に足を運ぶときがくるとは思わなかった。積年の思いとは大げさだが、日本地図が僕の部屋の壁に飾られた頃から気にかけていた地。読み方は違えど、おばあちゃんの名前と同じなのだから。2ヶ月前、イベント会社の方が「もしかしたら虎石さん、米子に行ってくれることはないですかね?」と奇妙な日本語で依頼してきたときには耳を疑ったものだ。中国地方の地図を頭の中で描いてみれば、米子から出雲までそう遠くない。実のところ、出雲は次なる訪問先の筆頭だったのだ。これぞ渡りに船。瞬く間に、公私混同の山陰旅行のプランが出来上がった。

 僕はイベント前日に出掛け、妻は1日遅れで米子に入る。しかし僕は、岡山で足止めされたせいで足立美術館に立ち寄る時間がなくなった。これは痛い。横山大観のコレクションで名をはせているようだが、僕にとって興味深かったのは庭園のほう(岡山後楽園には寄らなかったくせに)。5万坪の広大な敷地に趣向の違う複数の庭園が建物の周りを囲っている。写真からして壮観。ぜひとも自分の眼で見てみたい。アメリカの専門誌では、毎年のように桂離宮などを抑えて「庭園日本一」に選出されているとか。交通の便がひたすら悪い、人里離れた山あいにある点は、つい先日、訪れたミホミュージアムと同じだ。甲賀の深き山に、ポツンと浮かぶ桃源郷――。展示品もさることながら建物の造形美は他に類を見ないもの。その特異な立地と、創設者の尋常ならない熱意と資金力は、足立美術館にも通じていよう。米子駅の一つ先の安来駅からバスで約20分かかるというが(しかも、運行便数が少ない)、仕事以上に実りのある体験になるのではないかと楽しみにしていたのである。

 やくも号は編集者が忠告していた通り、脱線してしまうのではないかと不安になるほどガタガタ激しく揺れる。僕と同じくデッキ旅行となった同輩…二十後半男性はひっきりなしに左右前後に足を動かしている。平衡感覚の訓練か、それともダンスの練習か。一方、60代前半女性は壁にピタッと張り付き、ジッとしている。疲れを最小限にとどめている。こちらは地元に住まう方だろう。僕はといえば、椅子としても使えるキャリーカートを連れてきて大正解。少々、お尻は痛くなったし、同じような景色に次第に飽きを覚えてきたが、持参してきた『出雲神話』(松前健著、講談社学術文庫)『出雲と大和』(村井康彦著、岩波新書)を熟読できたのは幸い。旅の途中の読書もいい。

 大学時代、一緒に北海道を回っていた吉田君から列車内で怒られた。過ぎゆく車窓の風景はそっちのけで読書をしていた僕に「せっかく旅に出たのなら、異国の地の観察に専念すべきではないか」と。しかし、僕の言い分としては「旅先でしかできない読書もある」。結局、押し付けがましい一方で旅程など何でもかんでも人任せの吉田君とは旅の途中で喧嘩別れとなり(どちらかといえば、僕が故意的に彼のもとを去った)、その数週間後、「夏目漱石の『こころ』をようやく理解できました」との絶縁状が送られてきた。果たして僕は、彼に対して裏切り行為を働いたのであろうか。当時は忸怩たる思いも少なからずあったが、とどのつまりは相性の問題であり、日常と非日常は決して同じモードではないこと。そもそも旅は一人がいい。今は妻との二人旅が基本だが。

 米子駅は夕陽に包まれていた。おおよそ1日掛かりの移動となってしまったが、まずは無事に目的地に着いてひと安心である。ホテルに荷物を置くや、すぐさま外に出た。ラーメンだけではお腹が減って仕方がない。何より久々にのどぐろを食べたい。あれはコロナ前だったか、新潟駅南口からほど近い料亭でいただいた塩焼きは忘れがたいもの。この日本海のスターにありつくべく、品の良い居酒屋を探したらホテル近くの二つの店がヒットした。が、ともに満席、すげなく追い返された。まだ6時前なのに。駅周辺は居酒屋がひしめいており、さすがにこれだけあればと軽く考えていたが、ネットで点数の高い店はやはり人気だ。町に活気があるのは良いことだが、僕は一人、歩道で立ち往生である。そうであればと、己の感覚を研ぎ澄ませ、辺りを見回し、その中で最も面構えのいい店の暖簾をくぐったところ、「はい、お一人様ですね、大丈夫ですよ」と愛想のいい女性が僕を店内へと促した。

 いやらしいことに、着席してネットを調べてみたら、前出2店よりも点数が高かった。さきほど調べたときは『桜丸』という店はヒットしなかったのだ。スマホをろくに使いこなせない人は安易に利用してはいけない。迂闊に信じては道を間違える。昼間の『太田』はまさにクリーンヒットだったが、あれはまぐれ当たり。ネットは現代人にとって有意義な情報ツールかもしれないが、そこで教えてくれるのはあくまで事実の断面、側面に過ぎない。ひょんなところから現れた『桜丸』、ゴボウを甘く煮たお通し、イカの刺身、のどぐろ、さらには大山地鶏すべて高水準だったように、初めから自分の感覚を信じて探していれば、もっと早く絶品料理にありつけたのだ。当たり馬券も新聞には決して記されていない。競馬をこよなく愛した文豪、菊池寛も言っている。「情報信ずべし、しかもまた信ずべからず」だ。

 ―――――

 翌朝はまずまずの目覚め。昨日は基本的に移動日だったので肉体的ダメージはほとんどなかったが、予期せぬ出来事に見舞われたし、見知らぬ土地を少しばかりうろうろしたことで頭のほうは疲れたか。ベッドに入ったらすぐに眠りについたようだ。駅前からバスに乗り込み、美保湾と中海を分かつ弓ヶ浜半島を北上する。美保湾側はまさに弓のような曲線で、日本最大級の砂州だという。もっとも、バスの車窓からはいわゆる一つの郊外が広がっているだけ。せめてもの救いだったのは中海方面の山々がとても鮮やかだったこと。あれは十神山か。雨上がりは世界を美しくする。色合いがほんの少し違う木々が、一本一本くっきりと見える。こちらの視力が向上したのかと勘違いしてしまう。

 米子水鳥公園を過ぎ、中海に浮かぶ大根島が現れ、米子空港の少し手前で左に曲がると、横浜のみなとみらいを彷彿させる近未来的な建物が見えてくる。これがウインズ米子である。2階の「大山ラウンジ」は全面がガラス張りとなっており、こちらは北海道は洞爺湖のウィンザーホテルかのよう。羊蹄山は望めないが、大山は望める。場外馬券場とは聞こえは悪いが、ここも紛れもなく米子一級の観光スポットである。イベントホールも相当な広さ。少なく見積もっても300人くらいは入れそうだ。ここで、お笑いコンビ、カミナリさんと予想大会。ボケ役の体の大きな方はつい先日、アキレス腱断裂の憂き目にあい、車椅子での参加だったが、彼らとしてはそれをネタとして笑いを取れるのだからまったく無駄なアクシデントではなかったろう。一方の僕はこの1年半、会話といえばほとんど妻だけ。流暢にお喋りができるのかと心配していたが、彼らに引けを取らないほど口を動かしていたよう。トークはスポーツの一種。鍛錬あれば誰でも多少の向上は可能であり、鍛錬を怠れば誰でも劣化する。そして鍛錬あっても加齢による衰えは免れない。近いうちに僕も人前に出られなくなるだろう。おそらく来年辺りが潮時となるのではないか。

 予定通り16時30分にイベントが終了し、入り口前に、足立美術館経由で米子入りした妻と、そして友人の吉岡さんが待っていた。彼は住まいのある山口県から自家用車で3時間半もかけてやってきたという。半年ぶりの再会だろうか。なにか積もる話でもあるのかと訝しんだが、たんにイベントを見に来ただけのよう。日頃、東京と山口を行き来し、精力的に仕事をこなしているだけに、たまには息抜きが必要なのだろう。彼にとってはそれが競馬なのだろう。有難い話である。いや、本当に有難かったのは、ここから彼の運転で今宵の宿『皆生游月』まで送ってくれたこと。適当な交通手段が見当たらず、実は困っていたのだ。まさに渡りに船。お礼にと、ウインズで主催者からいただいたタオルとマグカップを渡し、近々の再会を約束して別れた次第である。

 夕食まで少し時間があったので砂浜まで下りた。まだ海水浴をしている人たちがいる。テトラポットに囲まれているとはいえ、なかなか波は高い。丹後と同じく、遥か向こうに見える島根半島の険しい景観も波が、日本海が作ったのだ。太平洋は青のイメージだが、こちらは緑のイメージ。光の屈折によるものか、それとも海底の違いか。今日も容赦なく僕らを照射した太陽は、徐々に衰勢しながら出雲の地に吸い寄せられていく。久々に緊張、高揚した僕の心も落ち着きを取り戻していく。「足立美術館はどうだった?」「うん、良かったわよ。お庭はすごく広くてやはり立派。あれほどのものは他にはないでしょうねえ」。ああ、やはりそうか。僕には縁がなかったが、せめて彼女だけでも首尾よく堪能できて良かった。  このあとは和洋折衷のコース料理を堪能し、ほろ酔い加減で部屋に戻り、改めてそれぞれの旅路を報告し合っているさなか、彼女がバッグから米子駅や安来駅、さらには美術館で仕入れた観光パンフレットを取り出してテーブルに広げ始めた。京都で購入した山陰のガイドブックには2、3箇所しか紹介されていなかったが、米子周辺には意外とたくさんの観光スポットがあるよう。ただし、明日は出雲。現実的に立ち寄る時間はないだけに漫然と眺めていたら、その中の一つ、やけに大きなリーフレットに目が留まった。折り畳んであった緑っぽい紙を広げてみる。えっ、これはもしや…山陰の秘境、山陰の知られざる名刹ではないか。足立美術館もそうだが、僕は行くべき場所にちっとも行けていないのではないか。しばし愕然としながら、戸惑う妻の顔を見つめ続けた。 


虎石 晃

1974年1月8日生まれ。東京都立大学卒業後は塾講師、雑誌編集を経てデイリースポーツ、東京スポーツで競馬記者を勤める。テレビ東京系列「ウイニング競馬」で15年、解説を担当。著書2冊を刊行。2024年春、四半世紀、取材に通った美浦トレーニングセンターに別れを告げ、思索巡りの拠点を京都に。趣味は読書とランニング。

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