第11回 飛鳥巡り~中沢新一『アースダイバー 神社編』を携えて
スンダランド大陸が海に沈み込み、行き場を失った海洋民は南中国揚子江河口付近で稲作文化を開いた。中国南部、さらにはタイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムの山中で生活する苗族(みゃおぞく)と同様、専制的な国家=漢民族に同化吸収されることを嫌って、再び移動を開始した〝海のゾミア〟が博多湾岸、糸島半島に流れ着いたのが今から2900年前。瀬戸内海を突き進む一団があれば、日本海ルートで、あるいは太平洋ルートで東へ向かう。伊勢湾を抜けた辺りから、新石器文化を発達させた狩猟民の勢力に押し返され、弥生化のムーヴメントにブレーキが掛かり出すが、ひとまず海のゾミアたる弥生人は「山の処(やまのと)」であるヤマトに村を作り(唐古遺跡など)、湖水に近い湿地帯に田んぼを開いて稲の栽培を始めた。しかし、ここにも先住民=縄文人がすでに住まいを構えていたのは言うまでもなく、果たして彼らは共生の道を歩めるのかどうか…。三輪山のオオモノヌシは決して声を荒げることなく、柔らかな眼差しで見守っていたのである。 今日の地質学と考古学が教えるように、縄文時代前期から古墳時代まで、人々は山腹のなだらかな傾斜地を好んで住んだ。それが「ナラ」。ナラス(動詞)、ナラシ(副詞)のナラだと柳田国男は喝破した。ふと見上げればそこにある、ほとんど完璧な円錐形の形をした、まさに「神奈備」たる三輪山が縄文人の聖地となったのは自然の流れ。このような聖なる山の「室(むろ)」には宇宙的なエネルギーの象徴である大蛇が棲んでいる。三輪山の古い呼び名、「御室山(みむろやま)」の「ムロ」。実際、三輪山の山中にはおびただしいほどの岩石=磐座(いわくら)が露出している。磐座とは、大地から立ち上がってくる自然力の、露頭の場所。三輪山に潜む霊力が磐座を通路にして、この世にあらわれる。縄文人はこの三輪山がオオモノヌシの住処と考えた。オオ(偉大な)モノ(人間を超えた霊力)ヌシ(主宰者)。大蛇は雷と結びつき、大地に雨をもたらす存在であり、そしてまた「草薙剣」の神話が語るように酒(=若い女性)をこよなく愛する神であった。 ――――― 先月の奈良訪問で行きそびれた、いわば宿題として残った「飛鳥巡り」を今すぐにでも敢行したい。「吉野の春」はかけがえのない時間だったが、なにかこう、とても大切な場所を通り過ぎてしまったのではないかという不安の念に駆られたのだ、帰宅するやいなや。明日香村の真ん中辺り、飛鳥寺から徒歩1分のところに良さげな宿があることを見つけ、すぐさま予約。善は急げだ。一ヶ月も経たないうちに押し入れからリュックサックを取り出し、中沢新一の『アースダイバー 神社編』(講談社、2021年。以下、『アースダイバー』と略)を押し込み、橿原神宮前行きの近鉄線に乗り込んだ。 今回も1泊2日。一応の予定は、1日目は飛鳥を自転車巡り、2日目は三輪山登拝。我が国最古の神社として知られている三輪明神大神(おおみわ)神社は本殿がなく、山そのものが御神体。神社の社殿が成立する以前の原初の神祀りを今に伝えている。日本民族にとって最重要とも言うべき場所であることを『アースダイバー』を読んで初めて知った。僕はまだまだウブな日本人。これから訪れる4つの古墳も知らないに等しい。妻曰く、古墳時代終末期(7世紀末~8世紀初め)を代表する有名な古墳のようだが…。駅前のレンタサイクル店で緑色の自転車を借り、まずは高松塚古墳へ走った。 「けっこう、きつい坂があるぞお。電動じゃなくて本当にいいのかい?」とサイクル店のおっちゃんが脅かしていたが、それは決して大げさな話ではないことにすぐに了解した。駅周辺こそ平地だが、奈良盆地は京都盆地と違って、窪みの中であっても起伏がたくさん、小山がたくさん。よって、坂だらけ。往々にして古墳は小高いところにあるので必然的に息が切れ、汗をにじませての到着となる。高松塚古墳は石室内に極彩色の壁画=四神が描かれている。我が国には「装飾古墳」がほとんどで、このような「壁画古墳」は高松塚とキトラだけ。もっとも、カビの発生に伴い、漆喰の劣化が進んだため、2007年、石室を取り出して解体修理をすることに。その仮設修理施設でしばし観察したのち、実際に古墳があった場所に行ってみると、奈良文化財研究所の職員が待ち受けていた。墳丘の周りを歩きながら、iPadでCG映像を見せながら解説してくれるという。よくよく聞けば、今日と明日だけの催しだとか。これはグッドタイミング。もともと丘だったところに穴を開けて作るのではなく、いったん平地にならしてから石室を作り、壁画を描き、そして土を積み重ねていったという。これほどまでの大量の土を運ぶ手間暇を考えると、その途方もなさに茫然としてしまうが、堅牢な石室を作るためには当たり前の方法なのか。もう1つ気になったのは墓の主役が分かっていないこと。現状では天武天皇の子供が有力な説というが、僕としては唐の絵画様式を採用しているように有力渡来人の墓ではないかと思うのだが、さて。 次のキトラ古墳はさらに南方。さらに丘の上。見晴らしはいいが、足を動かすのに精いっぱい。到着後は橿原神宮前駅構内で買ってきたタケノコおにぎりを食らう。これは美味い。ひょっとしたら、明日香村で取れたものか。竹藪をあちこちで見かけたしなあ…。ここの保存管理室への訪問も予約しておいたので、目下展示中の南壁(朱雀)を間近で見ることができた。体のラインはあくまで優美、顔つきは手塚治虫タッチのキュートなものだった。 「牽牛子塚(けんごしづか)古墳も見ておきたい。比較的最近、発見されたところ。斉明天皇のお墓との説だけど、おそらく違うでしょう」とは歴女の連れ。相変わらずあやふやな言説には容赦ないが、あとから気になって調べてみたら牽牛子とはアサガオの別称だった。もともと「あさがおつかこふん」と呼ばれていたのも頷ける。古代天皇家を象徴する八角形の墳丘であり(全国で5基だけ)、遠目からものっぴきならない雰囲気は感じ取れる。中にも入ってみたかったが、内部へと続く穴はピッチリと閉じられていた。 ここからは一気に西北方面に向かい、飛鳥寺へ。道すがらに天武天皇・持統天皇陵を見つけ、その小山を上ってみる。どうやら、ここの古墳も石室は八角形となっているよう。ぐるっとひと回りして、再び自転車に跨った。のどかな田園を走っていると、畑の真っただ中に寺院らしき屋根が見えてくる。あれが、もしや。近づくとやはり、そのもしやであった。ここは「真神の原(まかみのはら)」と呼ばれた飛鳥の中心地。かつては「一塔三金堂」という我が国では唯一の巨大伽藍が配置されていたようだが、いまや随分とこじんまりとした趣きである。もっとも、本堂の「飛鳥大仏」は現存する最古の仏像であり、ヒマワリの種のような形の目元といい、面長の端正な頬のラインといい、他のありとあらゆる仏像とは一線を画すもの。609年には完成されたというが、その後に補修された箇所が多いため国宝に指定され得ないのだとか。とはいえ、少なくともお顔はほとんど当時のままという話であり、大陸から上陸したばかりの仏教文化の粋を一瞬で感知できるのだから紛れもなく国の宝である。 今宵の宿はすぐそこ。しかし、太陽は真上近くで燦燦と輝いている。すでに気持ちは満腹状態だが、一日の店じまいとするにはまだ早い。南東方面へ10分ほどペダルを漕いでいると、石舞台古墳が見えてくる。が、「夢市茶屋」という土産&食事処を発見し、ひと休みすることにした。僕はいちごみるくとつるむらさきのジェラートという豪華かつ奇妙な組み合わせ。連れはぶどうシャーベット。たかがアイス、されどアイス。疲れは本当に半分以上吹っ飛んだ。シャーベットよりもジェラートのほうが冷たいため、なかなか溶けないことも初めて知った(知らないことだらけ)。いずれにせよ、もう大きなアップダウンはないし、いくらか気温が下がってきたのも有難い。 これまでの3つの古墳とは一味違う、石舞台のパワフルかつワイルドな古墳をしばし堪能し、数百メートルほど道を戻って橘寺へ。聖徳太子の生誕の地と知られているが、他の似たような事情を抱えた少なくない寺院と同じく、数奇な運命を辿ってきた。もともとここは〝橘の宮〟こと欽明天皇の別宮があった場所で、606年、孫の太子が法要を行った際、大きな蓮が庭に降り積もり、南の山に千の仏頭が現れ光明を放ち、太子の冠から日月星の光が輝き始めた。この不可思議な事象に驚いた推古天皇が、当地に寺を建てるよう命じたという。それが橘樹寺(たちばなのきてら)。当時は66棟の堂舎が立ち並んでいたが、のちに幾たびも火災に遭い、江戸時代に残存していた増舎は一棟だけ。現在の堂は1864年に再建したもので、江戸中期には法相宗から天台宗となり、比叡山延暦寺の直末となった。宗派の変更、すなわち改宗は現在の檀家には決して珍しくないことだろうが、菩提寺が突如、教義や儀礼が変わってしまったらそれこそ由々しき事態ではないか。もっとも、檀家制度は1612年に禁教令が布告されてから出来たものなので、それ以前は容易に可能だったのかもしれない。橘寺は飛鳥寺より遥かに敷地は広く、お堂も多いわりに、訪れる人は少ないだけにゆったりとした時間を過ごしたい人にはうってつけだろう。 さすがに日も暮れてきたので宿に直行したい気持ちがあったが、連れが「万葉文化館に行きたい」と突如、言い出した。まあ、帰り道沿いにあるし、閉館までは30分くらいある。あまり気乗りはしなかったが、重い足を引きずって行って見ると、驚き仰天。豪奢かつ巨大な建物で、その余りある敷地(と法外な資金)を思う存分生かして万葉世界を表現している。エンターテインメント性も十分。人の姿はまばらだったし、本来は時間を掛けてじっくりと楽しみたかったが、今日のところはサラッと回るだけにとどめた。またの機会に。とはいえ、またの機会はあるのかどうか…。 国の登録有形文化財となっている「ブランシエラヴィラ明日香」もある意味、豪奢なしつらえだった。築後150年を超える古民家を改装した宿とはいえ、いざ屋内に入ってみると、さながら高級ホテル。大きな湯船なのにあっと言う間にお湯がたまったし、布団はとんでもなくフワフワ。明日の三輪山について思いめぐらしていると、いつしか眠りに落ちていたのである。 ―――― 縄文人は自分をオオモノヌシの一部と考えていた。それゆえ、三輪山を自分から分離された祭祀の対象にはしなかった。ところが、稲のモノカルチャーをおこなう弥生人は「利潤」という自然からはみ出した「過剰」を抱えることで、自分を自然から分離された存在と認識し始めていた。それゆえ、三輪山とそこに住まうオオモノヌシは祀りの対象となり、三輪山の麓にたくさんの祭祀場を設けたのである。数千年の違いはあれど、縄文人も弥生人も、ともにスンダランド方面からの移住者。神奈備に霊性を感じること。そういった山には聖なる大蛇の棲む室(ムロ)があり、大蛇はその室から立ち上がる一方で、雷は天空から室に落ちてくる。よって、大蛇と雷は一体である。共通する思考は少なくなかった。そもそもアナロジーを感知する能力が高かった古代人。それぞれ互いの文化が良く似た深層パターンを持つことに気付いた。彼らは穏やかに共生の道を歩み、西日本を中心として日本列島の各地で、「縄文=弥生ハイブリッド型」の神道がつくられていったのである。 縄文人の生活がヤマトで始まって数千年、弥生人が到着して数百年がたった三世紀初め、北部九州から東への進出を続けていた王権勢力が山麓に拠点を築き始めた。彼らも神奈備たる三輪山に魅了されたのである。政治上の根拠だけでなく、宗教上の根拠(=強力な大地の神に承認され、支えられること)がなければ事の成就は不可能。とはいえ、ヤマトの新王権には、重要な祭具として「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう」が用いられていた。普段、山の中の暗い世界に住んでいるオオモノヌシとは逆に、鏡は世界を明るくする(≒太陽)呪具。一旦は先住民を圧倒し、三輪山の祭祀権を奪ったヤマト王権だったが、モノの道理として、オオモノヌシはお怒りになられた。疫病が蔓延し、多くの山麓民が次々と死に絶えたのである。窮地に陥ったヤマト王権はオオモノヌシの子であるオオタタネコ(大田田根子)を、酒を盛る須恵器をつくる集落に見つけ、彼女にかつての酒を媒介とした祭祀を行わせると、疫病は沈静化し、稲は豊作となった。 ――――― 山の向こうから太陽が昇るよりも早く、小鳥たちの合唱…好き勝手な合唱が始まった。これは寝ていられない。予定よりも早起きしたことで、宿から歩いて数分のところにある飛鳥坐(あすかにいます)神社まで行ってみた。日本三大奇祭の一つ「おんだ祭」が毎年2月に開催されていること、アマテラス大神が伊勢の地に鎮座されるまでに一時祀られていたことから「元伊勢」とも呼ばれていることも初耳。それでも、地元の人々に大切にされている雰囲気は十分に感じ取れた。驚いたのは訪れた翌日の夕方のニュース。この神社に伝わる青銅の鏡(直径1、2メートル)が国内に残る古い鏡の中で最も大きいことが判明されたという。せっかく現地まで行ったのだから目の前で見てみたかった(今は公開されているようである)。 朝食後は飛鳥坐神社の南方にある岡寺まで一人、自転車を飛ばした。ここも上り坂がきつかった。参道入口付近で自転車を停め、そこからはなだらかな坂道を上っていく。山あいの、谷間の奥に鎮座していた。堂内は清潔感に溢れ、まるで長谷寺のよう。日本最大の塑像(土でできた仏像)である本堂の如意輪観音は息苦しくなるほどの圧迫感。この日は特別拝観中で、正面左側から間近で観察できたのは幸いだった。髪を束ねたものか、頭上の小さな冠も印象的だったが、大きく分厚い手のひらがまぶたに焼き付いて離れなかった。 すでに気温は20度以上。岡寺までの往復だけでも汗まみれとなった。妻は部屋で涼し気な表情で待っていたが、宿で休んでばかりいられない。汗が引くやいなや、旅支度をサクッと整え、橿原神宮前へ。レンタサイクル店に自転車を返して三輪駅へ向かった。 ゆるやかな裾野の落ち着いた佇まい。初めて見る三輪山は実に親しげだ。広々とした参道を進み、糺の森を彷彿させる林を通り抜けると、想像以上に立派な拝殿が見えてくる。これが大神(おおみわ)神社。ご挨拶をして、やや北側にある狭井(さい)神社(標高80m)へ。ここで三輪山登拝への申し込み。写真撮影及び飲食の禁止(但し水分補給は可)、緊急時対応などの説明を受け、「三輪山参拝証」と書かれた襷を首にかけ、最後に入山前に祓串(御幣)でお祓いをして、いざ神体山へ。 斜面の角度や地盤の強弱などから丸太と石を使い分けて作られているせいか、登拝道は案外、歩きやすい。前日の降雨でやはりと言うべきか、ところどころぬかるみが激しく、ときに足を滑らすときもあったが、全体的に登拝者に優しい。とはいえ、斜面は急で、まるで蛇かと思わすようなくねくねとした根が張り巡らされている。緊張がたえない。 山腹の中津磐座(標高364.5m)を過ぎると、あちこちに大きな岩が見えてくる。やはりどうりでここは神の棲む山だ。遠くから見た女性的な印象とはまるで違い、男性的と言わざるを得ないほどの荒々しさ。前日の疲れが残っている連れは麓に残してきて良かった。登山に慣れている僕は1時間程度で終えることができたが、時折すれ違う人の中には高齢な方や山道を歩き慣れていないような人も多く、そのゆっくりとした足の運びなら2時間以上は掛かることだろう。 椎や樫の樹林を越えると、手のひらをパチンと叩いている音が聞こえてきた。ああ、もうすぐだ。山頂近くに高宮(こうのみや)神社(標高446.7m)がひっそりと佇んでいた。ここはまさしく日本の聖地。およそ十万年前、人類の心に革命的な変化(=流動的知性の発露)が訪れ、洞窟の奥に知性が発動する場、すなわち聖地が生まれた。その後、エルサレムの「岩のドーム」がまさにそうだが、聖地は大岩へと移行し、日本のそれは森の中。いつだって聖地は人目に付かないところ。その聖地は宗教の発生を準備し、宗教を生んだ社会の仕組みが変わると、聖地に集う神々の性格や思想も変わる。社会、宗教、思想は変化、進化していくが、聖地の(=知性の)構造は不変である。 ――――― 平安時代の末から「神仏習合」という新しい宗教思想のブームが真言宗の学僧らによってわき起こり、伊勢神宮外宮と三輪神社が、そのブームの二大中心地となった。真言宗のおおもとはインドで発達した「密教」。密教では、インドの新石器型宗教であるヒンドゥー教の土着の神々を仏教の中に取り込んで(=曼荼羅の中に集合させて)、ヒンドゥー教という民族宗教を、もう一段高い宗教に飛躍させようという試みが行われた。このような新旧の宗教を統合させる運動はアジア全域を巻き込み、日本列島では三輪神社の「三輪流神道」がそれを担うことになる。 ここで登場したのが慶円(きょうえん)という真言系の山岳修験増。鎌倉時代の初期、雨乞いの祈祷で有名だった室生寺での修行で、大地の「室」に住まう龍蛇神との交流を図ると、龍蛇信仰を核とする神仏習合の新しい教えを生み出すべく、三輪神社へ向かった。そこで三輪明神は慶円に密教の灌頂を求め、一方、慶円は三輪明神から神道の霊妙の教えを伝授してくれるよう求めた。これが「互為(こうい)灌頂」。室生から三輪山へ、地底を走る龍蛇神の地脈が、このような飛躍(=仏教の秘法と神道の神秘とが、互いを贈与交換し合うことで一つに合体)を可能とした。 三輪神社の信仰世界の、もう一人の傑物が、西大寺の真言律増、叡尊(えいぞん)。慶円によって神仏習合化を遂げていた三輪神社に並々ならない関心を抱いた。目下の未曾有の国難(=元寇)は、仏教が代表する文化的な「思想」と、列島の「大地」に生息する神々の自然世界が乖離してしまっているからではないか。ヤマト大王家の先祖神アマテラス大神は三輪山のオオモノヌシとの折り合いが悪く、伊勢地方へ脱出行を図って以来、三輪と伊勢との間には、深い断絶が生まれていたのだ。それが国難の原因。危機感に突き動かされた叡尊はとり憑かれたように伊勢神宮への参宮を繰り返し、仏教と神々の世界を結合させる強力な、一層強力な論理を探し求めた。 叡尊は、慶円の「三輪流神道」に、その鍵があると見抜いた。太陽の霊威たるアマテラス大神と大日如来の本質は同体であり、大日如来の霊威が現実界にあらわれるとき、天上にはアマテラス大神となり、地上に降臨するときには、三輪山の大明明神と伊勢内宮の皇大神となる。このような理路が成立するためには、鏡と蛇の奥に潜んでいる「太陽」の存在が不可欠。叡尊は、この「太陽」を巡る神話思考によって、伊勢神宮と三輪山を一つに繋ごうとした。彼一流の理論体系はしかし、俄かに制作された机上の空論ではない。これより遥か以前から、倭人の賢者たちは、伊勢と三輪山が「現実の太陽」によっても一つに結ばれている事実を知っていた。北緯34度32分のラインにそって、淡路島の舟木遺跡を出発した東西線上には、三輪神社、長谷寺、室生寺など、三輪流神道に馴染み深い聖地が次々と並び、それはついには伊勢神宮に辿り着く。現実の聖地の配置は、叡尊の思考に遥かに先駆けて、太陽による伊勢と三輪の同体を表現していた。これはいったい、何を意味しているのか。そもそも蛇と太陽の繋がりは? ここから『アースダイバー』はクライマックスに突入するのである。 ――――― 帰りの道は一層、テンポ良く、まるで天狗になったかのように、ヒョイヒョイと下っていった。しかし道中、やけに軽かった体は、狭井神社へ戻る頃にはずっしりと重く感じるように。大きな倦怠感。調子に乗って小走りをしたバチが当たったのか。いや、連れを出来るだけ待たせぬよう頑張り過ぎただけだろう。大神神社の参道近くで食したそうめんは最高に美味しかった。これが有名な「三輪そうめん」。一方、そうめんが苦手な妻は柿の葉寿司を。くすくすと笑いながら口に運んでいる。「あなた、顔も手も真っ赤よ。昨日から外に出ずっぱりだからねえ」。「まあ、仕方ないよ。さながら太陽の子だな」。 (写真はすべて筆者提供) 虎石 晃 1974年1月8日生まれ。東京都立大学卒業後は塾講師、雑誌編集を経てデイリースポーツ、東京スポーツで競馬記者を勤める。テレビ東京系列「ウイニング競馬」で15年、解説を担当。著書2冊を刊行。2024年春、四半世紀、取材に通った美浦トレーニングセンターに別れを告げ、思索巡りの拠点を京都に。趣味は読書とランニング。



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