月刊傍流堂

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第3回 聖地から聖地へ

 「なんだか、妙に体が疲れている感じで。今日は宿の周辺で過ごすことにします」

 これまで強行軍の旅路だった反動が出たのか。今朝の古宮くんは昨日とは打って変わって表情が冴えない。こんなときはしっかりと休むのが一番。かくいう僕もリシケシュで3日間もブラブラとしたおかげでエンジン全開としたのだ。一人きりで花の谷を堪能し、ガンガリアへ戻る最中、突然のごとく頭が割れんばかりに痛くなってきた。これは何だ。あ、あれだ、高山病だ。早く着きたい一心でしゃかりきに駆け上ってしまったのが運の尽き、愚かなる自分。ここは富士山よりも標高が高いのだ。何かの本に書いてあったではないか。「高山に登る際はゆっくりと」。これまで4000m級の山に登ったことがなかったからうっかりしていたが、ここは紛れもなくヒマラヤの一角であり、平地で生まれ、平地で生きてきた者とっては危険領域である。足早に向かいたいところを懸命に速度を落として下り、あまり時間を要さず薬屋を見付けることができたのは不幸中の幸いか。

 しかし、医者もどきの眉毛オヤジから手渡されたタブレットはいかにも規格外の大きさだ。これは人間の喉を通るものなのか。それともこれは半分にして飲むものなのか。親指と人差し指に力を込めて割ろうと試みるが、結構な厚さがあるので割れそうにない。そもそも、この塊は本当に頭痛を和らげる効果があるのか。いっそのこと薬なんて飲まずに寝てしまおうかと脳裏をよぎったが、明日もこんな状態では旅を続けられないと思い直し、ペットボトルの水を口に含んでグイっと飲み込んでみた。為せば成るもの。胃に落ちた。相変わらず元気のない古宮くんと共に、夜8時前には床についた。

 翌朝は良薬のおかげか、何気に爽快である。僕はタフな男なのか。一方、今日も口数の少ない古宮くんは風邪をひいたようである。ウイルスを運んできた犯人は言わずもがなだが、僕を誘ったのは他ならぬ彼。旅は道連れ世は情け。とりたてて罪悪感を抱くこともなく、「もう1泊します」と小さく答える古宮くんに別れを告げ、颯爽とヒンズー教の聖地へ向かった。

 ***

 「颯爽と」とは言ってみたものの、ヒマラヤは世界有数の山岳地帯であり、バドリナート、ケダルナート、ヤムノートリー、ガンゴドリーのガンジス4大聖地はバスだけで行くことは不可能で(たぶん)、最後は数時間の登山が必要だ。そして、この年はとりわけ頻繁に豪雨があったせいだろう、あちこちでがけ崩れが起きており、ときに道路が完全封鎖されていることも。そんなときは、一応は自分自身、猫一匹通れる隙間のないことを確認した上で渋々とバスを降り、獣道さながらの迂回路を1~2時間ほど歩き、向こう側の道路に再び出る。そこで、バスが待っている。あるいは、バスでは無理でも車1台が通れるケースならジープがどこからともなく登場し、乗客を何組かに分けて荒れ道を果敢に通り抜け、そうして向こう側のどこからか手配されてきたバスに乗り込む。いやしかし、これはとても不思議だ。こんな山の奥の奥でのイレギュラーなアクシデントなのに、実に手際良くリカバリーできている。観光客のために。いや、巡礼者のためにか。いずれにせよ、大雑把なところはとんでもなく大雑把だが、案外、臨機応変。多少の労力を要することがあっても待ちぼうけ、撤退はない。東洋の片隅をひた走る高速鉄道とは大違いである。

 最初の巡礼地バドリナートでは温泉に出くわした。これが沐浴というやつか。インドに来て初めての温かい水。ついでに洗濯もしてしまう。その後、町の一角に陣取って火を焚いている怪しいおっちゃんから声を掛けられる。どうやらサドゥーと呼ばれる修行者らしい。「お前も今日はここで寝なさい」。「いや、さすがに夜は寒いので」とオドオドしながら答えると、「馬鹿なことを言うものではない。ちゃんとシヴァの神様が付いている」と一喝される。いくらなんでもここは〝郷に入っては郷に従え〟を採用するのはまずいと思い、「明日の朝にまた来ます」と口から出まかせを言って逃げた。

 次なるケダルナートはバスの終点、ガウリカンドから徒歩で8時間かかるよう。ここが最大の難所だ。が、僕は4時間で登り切る。このあと頭痛に苛まれなかったのは高地生活に体が馴染んできたこともあるが、ケダルナートは標高3584mという比較的、標高が低いせいであるかもしれない。やっとの思いで最奥の地に到達したかと思いきや、宿の親父さんが「ここから1時間ほど登ったところに湖がある。そこからの眺めは格別じゃ」と自信たっぷりに言うからチャイとチャパティーを頂いたあと重い足を引きずって行ってみたら、これが大正解。ダイナミックなヒマラヤには心を打つものがあったが、峻厳な山の中腹にぽっかりとでっかい口が開き、そこから大量の水が、濁った水が勢いよく流れ出る風景にはまさに口があんぐり。これがガンガ(ガンジス河)の源。世界の始まりを見た気分。ちょっと面倒だと思っても行ってみるものである。インド人はウソつかない。

 ヤムノートリーの思い出はあまりない。やたらと空が青かっただけ。ただし、下山の途中、10歳かそこらの郵便配達員との追いかけっこは楽しかった。険しい山道とて彼とすれば我が庭であり、東洋の観光客なんてすぐにバテてしまうとタカをくくっていたろうが、ところがどっこい。1時間経っても2時間経っても付いてくる。ときおり僕を振り返り、なんなんだこいつ、といった驚くような眼差しを向ける。ついに、麓の小屋まで一緒にゴールイン。別れ際、彼の感服しきりの複雑な笑顔は痛快であった。

 ガンゴドリーへの中継地、ウッタルカシでの二日間が我がウッタラカンド行のハイライトだったとも。夜の7時半という遅い時間での到着がより一層、心をときめかせたのかもしれない。まともに電気が通っていないゆえ日が暮れ始めると、途端に恐ろしい雰囲気に包まれるのが常だが、一つ手前の山を越えているときから、この町の明かりはしかと確認できたし、いざ着いてみると、仰天するほどネオンが眩しい。なにやらインド音楽も谷間一帯に鳴り響いている。ささやかなメインストリートでは幾つもの屋台が。聞けば映画館も2つあるよう。聖の中にも俗は必要ということか。インドらしからぬ焼きそば、カットフルーツの盛り合わせ!も絶品だったし、何より、ヒンズー教徒らに囲まれた際、助け舟を出してくれたチョビ髭の運転手との再会が嬉しかった。毎日のようにウッタラカンドを駆け巡っているのであろう。都合のいいことに、明朝5時にガンゴドリーへ向かうという。当然のごとく、早起きして彼のバスに乗り込み、巧みなドライブテクニックのたまものだろう、通常より早い5時間で最終聖地に到着した。

 ガンゴドリーで1泊して翌朝、緩やかな山道を3時間ほど歩き、もう一つの秘境の地、ゴームクへ。ここで再度の、そして最後となるガンガの源を心ゆくまで眺めた。これで終わり――。

 ***

 いや、まだ旅は終わらない。インドは広い。帰りのフライトまで1週間の猶予があったし、もう一か所、絶対に行っておきたいところがあった。ハリドワールから深夜特急に乗ってベナレスへ。インド最大の聖地であり、僕がここ数日、拝んできたガンガが流れている町。しかし、ベナレスはなんとも遠かった。セカンドクラスの車内ではまともに座る場所を確保できず(座席の頭上にある荷物置き場で寝ころんでいた)、およそ20時間、一睡もできずじまい。疲労困憊での到着であったが、いざ眠気まなこで散策してみれば、これまで訪れたところと比べれば遥かに洗練されていた。平凡に映る店構えであっても、ビジュアルに優れ、繊細な味わいのカレーを出してくれるし、宿主との値段交渉も厄介というか、ハイグレードな物言いを要求される。こちらも否応なしに駆け引きがうまくなる。この日の夕方、土砂降りに見舞われ、町全体が膝近くまで水浸しになったが、翌朝には何事もなかったかのようにせわしなく人が、リクシャーが行き交う。ここは紛れもなく都会だと確信する一方で、聖地たるゆえんも垣間見える、見えてしまう。ガンガ近くの火葬場で、人間の足やら手やらが、ぽろぽろと落ちていくシーンは一生、忘れ得まい。好奇心にかられてこんな門外漢が立ち会っていいものかと疑念を抱いたが、そのまま灰になるまで見続けた。とはいえ、ベナレスからバスに揺られて30分ほどのところにあるサールナートで出会ったダージリン出身の青年の姿がより一層、深く胸に刻み込まれたのである。

 ここ仏陀が初めて説法を行った地での滞在は日月山法輪寺。先日のカレー屋で出会った旅人から一文無しでも宿泊できるとの話を聞いて訪れたのはいかにも罰当たりだが、正真正銘の貧乏旅なのでご容赦を。唯一の宿泊規律は朝晩の勤行に参加すること。目をつぶり、手を合わせ、ナムミョウホウレンゲキョウを繰り返し唱えれば、簡素ながら一台のベッドと二食が与えられる。とはいっても、この勤行は決してつまらないものではなかった。静寂な境内に鳴り響く太鼓の音はとてつもなく太く、体の奥までズンと食い込む。これが日蓮宗との初めての出会いであった。

 日中は近くの寺院や遺跡を巡り、その合間には清らかな風を体に受けつつ、菩提樹の下で読書に耽る。至るところに自然の休憩所がある。歩いては止まって、ページをめくり、また場所を変え…ベナレスとは一転した静寂な地での時間を存分に愉しんだ。夜は塩味のチャーハンと野菜スープ。とても美味しい、美味しく感じる。翌朝はおかゆ。

 その後、部屋でのんびりしていると、一人のお手伝いさんがやってきて、日本語を教えてくれと訴えてくる。まったき真摯な眼で。インドの東端からそれ相応の覚悟を持ってサールナートまでやってきたに違いない。それともたんなる口減らしか。その姿を見れば食い扶持すらままならないことは明瞭に分かる。対して、親に学費すべてを出してもらっている我が身を振り返れば心苦しく思うがしかし、読書をしている姿をたびたび目撃していたのだろう、ネパール人の若き僧侶たちも僕に対する視線に何かしら敬意が込められていたが、生半可な東洋人は熱心な勉強家に映ったよう。もっとも、タダで寝泊まりさせていただいている身であり、少しでも力添えできればと、会話辞典を共に見ながら、なるべく綺麗な発音で復唱するに努めた。

 ***

 あれから四半世紀も経った今ではもう、インドでの日々を思い出すことはない。しかし、彼らとの出会いの記録はしかと身に沁み込まれているはずだし、これからの人生で再び発現してくるような気がしてならない。


虎石 晃

1974年1月8日生まれ。東京都立大学卒業後は塾講師、雑誌編集を経てデイリースポーツ、東京スポーツで競馬記者を勤める。テレビ東京系列「ウイニング競馬」で15年、解説を担当。著書2冊を刊行。2024年春、四半世紀、取材に通った美浦トレーニングセンターに別れを告げ、思索巡りの拠点を京都に。趣味は読書とランニング。

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