第13回 岩波写真文庫縁起
京都市役所前の地下街「ゼスト」へ野菜を買いに行ったあと、寺町通りにある古本屋に立ち寄った。いわゆる町家風情ではなく、石で築いた重厚感ある佇まい。昭和初期の建物か。これまで素通りしてきたのはあまりにも厳かな雰囲気のせい。生半可な読書家は二の脚を踏んでしまう。しかし、気になるといえばずっと気になっていた店で、チラリと入り口前のトラックを覗いてみれば、文庫本の上に無造作に置かれている小冊子に目が留まった。どうやらここは宗教関連、とりわけ仏教に特化しているよう。そのB6版には「信貴山縁起絵巻」と書いてある。岩波写真文庫というシリーズの中の一冊のようだ。1953年11月25日に発行された第2刷。その名の通り、写真がたくさんで、文字は少なめ。もともとは100円だったが、今は900円也。野菜より遥かに高額だったが、これも一つの縁とみなしてレジへ持って行った。 帰宅後、このシリーズを調べてみれば、1950年から58年にかけて全286巻が出版されたという。当時なじみの薄かったと思われる「シャボテン」「「スキー」「南氷洋の捕鯨」があれば、「尾瀬」「ソヴェト連邦」(ソビエトではない)「死都ボンベイ」という地理的なものも。あるいは「一年生―ある小学教師の記録」「パリの素顔」「小さい新聞社」「ねずみの生活」などドキュメントらしきものまでバラエティーに富んでいる。当時はかなり人気を博したのだろう。太平洋戦争終結直後からまだ日が浅く、復興が軌道に乗る前だったと思われるが、なかなかどうして国民の知的好奇心は旺盛だったようだ。 初めてその存在を知った「岩波写真文庫」という魅惑的なシリーズもさることながら「信貴山縁起絵巻」に惹かれた理由は他でもない。奈良屈指の大寺院、信貴山(=朝護孫子寺)に行くべきか行かぬべきか、この数日間、ずっと思案していたのだ。やけにタイムリーではないか。その昔、24歳の頃だったか、すっからかんになって府中競馬場からヨタヨタ歩いていると、大学時代にホの字だった女の子が前方から歩いてきたときは本当に目を疑った。彼女には間違いなく後光が差していた。人生最悪の瞬間に訪れたかすかな希望。偶然という名の奇跡。おおよそのところ、競馬場に足を踏み入れる輩は見えない力を信じやすい。お金がない、女もない、夢もない(ないことはないけど、あまりにも遠すぎて見えない)、住まいは風呂なしトイレなしの5畳一間(中野駅から徒歩15分、家賃3万円)、おまけに当時、角刈りでちょっとコワモテだった男がその後、いっぱしに家庭を持ち、一人娘を大学まで進学させることができたのもすべてあの逢瀬があってこそだ。 そんな経緯があるから、タイムリーに映る運命、現実を出来る限り受け入れるようにしてきた。善は急げ、見る前に跳べ、それが我が人生だ。しかしこれで4ヶ月連続の奈良訪問。どれだけ奈良が好きなのか、好きならいっそのこと住んじゃえば、との内なる声が聞こえてくるが、それはこの先の宿題として残し、ひとまず旅の準備を始めることにした。 実は『信貴山縁起絵巻』だけではなく、これこそ秀逸な出来ばえだった『日本の社寺建築』も併せて購入していた。〝はじめに〟の中で「日本の社寺建築の様式の移り変わりと、さまざまな社殿の特徴と機能、建築の構造や細部の名称についての手引書、概説書として編集した」と自負たっぷりに述べられている。四天王寺、法隆寺、薬師寺、東大寺は大きく扱い、それぞれの伽藍を簡易な図と写真を使い、違いが明瞭に分かるようにデザインされた紙面は非常に見やすい。特異な伽藍形式の万福寺や建長寺を始め、僕がこの1年で訪れた多くの寺が掲載されているのも嬉しい。各寺の鐘楼、門、石塔、多宝塔、五重塔、あるいは本堂の構造や瓦、屋根、妻飾、窓、堂内部の配置などの細かな違いやその意味が手際よく記されてある。もちろん、神社の解説も忘れていない。各ページの写真の配置が絶妙であり、コンパクトながら中身の濃さは相当だ。編集者の技量の高さが窺い知れる。これが制作されてから70年以上も経っているだけに新たなる知見により変更すべき箇所もあるだろうが、少なくとも僕は訪れた寺社をより包括的に理解した気分になったし、もう1度行かなければとの意を強くした次第である。そういうわけで、あっと言う間に、朝護孫子寺を巡る旅のプランが完成された。 四天王寺(天王寺駅) ↓ JR大和路線(快速20分) 朝護孫子寺(王寺駅) ↓ JR大和路線(快速4分) 法隆寺(法隆寺駅) いまだ未踏の地、四天王寺にも行きたい。『日本の社寺建築』に触発されたのだ。さらに、朝護孫子寺は法隆寺と目と鼻の先にあることも分かった。それなら法隆寺にも足を延ばそう。もっとも、四天王寺は大阪で、他は奈良。であるなら、どれほど面倒な経路になるかと思いきや、すべて大和路線で繋がれているではないか。まったくロスのない導線を描ける。いやしかし、よくよく考えてみれば、この3寺すべて1400年以上前に建立された日本最古級の寺院である。難波から東への進出を図ったヤマト民族が最初に通った道は、現在の大和路線にほぼ重なるもので、信貴山と明神山の間を流れる大和川が作った平坦な道があったからこそ、その後の奈良盆地の発展も可能だったのだろう。そんな重要ライン沿いに出来立てホヤホヤの日本仏教の拠点が次々と打ち立てられたのも合点がいく。それゆえ聖徳太子にゆかり深い3寺まとめての訪問は歴史的に正しく、かつ合理的。一日で京都の我が家に戻ってくる手もあったが、さすがに強行軍になるので近鉄奈良駅近くの宿を予約した。 三条駅から天満橋駅を経由して四天王寺前夕陽ヶ丘駅へ。京都で例えるなら大徳寺辺りの風情か。この南北を貫く谷町線沿いにたくさんの寺院が連なっている。その中心的存在が四天王寺。物部守屋と蘇我馬子の合戦の際、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢不利の打開策として自ら四天王像を彫り、「この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立し、この世すべての人々を救済する」と誓願し、推古天皇元年(593年)に創建された、というのが当寺の縁起だ。かつての寺域は33000坪だったそうだが(どれだけの広さなのか見当も付かない)、いまは甲子園球場の約3倍。それでも市街地のど真ん中、今もってその威厳は絶大だ。日本仏法最初の官寺という画期だけでなく、政治外交上の中枢地のみならず美術工芸産業などの文化発祥の地でもあったというのだから、1945年の大阪空襲により、境内のほとんどすべてが灰燼に帰してしまったのは残念でならない。いまや創建当時の四天王寺と変わらないのは伽藍配置だけ。南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ方式は「日本の寺社建築」が教えるように、我が国の仏教寺院初期のもの。他では愛知県の岡崎市にある北野廃寺がそうだというが、どうやら今現在、この方式の寺は皆無に近いようだ。 調べれば調べるほど貴重な寺だということが分かるが、比較的最近の建築のせいか、伽藍や五重塔などは首里城の朱色を想起させ、全体的に作り物めいていると感じるのは僕だけか。いや、バックパッカーなどの観光客の休憩所と化している点が神聖さをないがしろにしているとも。金堂の本尊、救世観音=如意輪観音は右手を頬に当てる半跏像が定番であり、中宮寺の本尊のように右手を頬に当てる「思惟像」が多いものだが、四天王寺の本尊は右手を正面に向けている。このときは少々の違和感を覚えた程度だったが、調べてみればやっぱり。日本には寺社が数多あるが、それぞれ個性があるものだ。当たり前の話だが。 天王寺駅から王寺駅へ。快速に乗れば2つ目だ。列車は緩やかなカーブを描きながら東南方向へ走る。車窓からの眺めは一向に大きな変化がない。ずっと市街地が続く。ようやく山あいを走り始めたなと気付くや、突然のごとく王寺駅が現れる。朝護孫子寺は名前からして物々しいし、いかにも秘境というイメージだったが、どうやらそうでもないらしい。バスもそれなりにある。が、接続がうまくいかず(30分以上待たされる)、ここからはタクシーで向かうことにした。 「朝護孫子寺に行ってください」。何の気なしに運転手に告げると、「ちょ、ちょうご…って何ですかね?」と困惑した表情を見せる。朝護孫子寺はこの辺りでは唯一といっていいほどの名所のはず。どうして知らないことがあろうか。こちらも口ごもる。連れが機転を利かして「信貴山なんですけど」と運転手に改めて振ると、「ああ、しぎさんね」と安どの声を発してアクセルを踏んだ。 お寺には正式名があれば通称もある。東寺は教王護国寺、嵯峨釈迦堂は清凉寺、苔寺は西芳寺、そして我が家からすぐの六角堂は頂法寺が正式名だ。こういったことは知識として頭の中に入っていたが、地元の方々が正式名をまったく知らないケースもあるものなのだと初めて知った。ある意味、日々の暮らしと密接に繋がっているとも。愛着の深さ、地元の守り神との一心同体ぶりが窺える。朝のランニング帰りに六角堂に寄ると、毎日のように焼香をしに来ていると思しき年配者らに出くわす。彼らにとってここは頂法寺ではなく、あくまで「六角さん」なのだ。ちなみに、この「六角さん」には、かつて四天王寺を建立する際、適当な材木を求めて奈良盆地にやってきた聖徳太子が霊夢によって六角形の御堂を建てることになり、自らの護持仏「如意輪観音像」を安置したとの言い伝えがある。これが頂法寺縁起。そうであれば、くしくも聖徳太子にゆかり深い寺を回ることになった今回の旅のスタート地点は六角堂としようか。 タクシーは細い道をグングンと上がる。一気に山深さが増していく。やはり、ここは秘境なのかもしれない。降車して木々に覆われた道を歩いて行くと、信貴山のマスコットキャラクター「世界一福寅」=巨大な寅の張り子が我々を迎えてくれた。境内ではカメラは御法度だが、ここは寺院公認の撮影スポット。寅と虎のツーショットを妻に撮ってもらった。 さらに奥へ進んでいくと、馬に跨った聖徳太子像がお見えになる。物部守屋との戦いの際、信貴山で毘沙門天に戦勝を祈願し、その加護によって勝利を収めたとの言い伝えがあり(日本にはいったい、このような物語がいくつ存在するのであろうか…)、そしてまた毘沙門天が現れたのが寅の年、寅の日、寅の刻であったことから寅が縁起の良いものとされ、朝護孫子寺のシンボルとなったという。とはいえ、「信貴山縁起絵巻」には聖徳太子の名は一切、出てこない。 話は3部構成だ。 第1部は、信貴山に修行に来た信濃国の法師=命蓮(みょうれん)が神通力を行使して、鉢や倉を空中に飛ばして地元の人々を驚かせるという奇談。第2部は、病の床にあった醍醐天皇を命蓮が山中にいながら「剣の護法」で治癒に成功し、報酬を一切辞退したという美談。第3部は、命蓮の姉、尼公が弟を探しに信貴山にやってきて、ともに仏に仕える生活を送り、そののち、彼らの来ていた衣服の切れ端や倉の木片をお守りにした人々は皆、金持ちになったという成功談。 「信貴山縁起絵巻」の原本は奈良国立博物館に所蔵されており、1951年に国宝に指定されている。同じく平安期に制作された「源氏物語絵巻」「伴大納言絵巻」と併せて日本三大絵巻と称されるのが普通だが、これらに「鳥獣人物戯画」を加えて四大絵巻物とすることもあるようだ。岩波写真文庫版からもユニークな画風が窺い知れるが、一部では漫画文化のルーツとも言われている。信貴山偉大なり、である。 標高437mの信貴山は複数の塔頭や奥の院、信貴山城址や弁財天の滝などの名所、名跡が広域に点在しているが、本堂はその中心に置かれてあるわけではなく、ずっと奥のほう、西端に位置している。まずは最初に参拝したいと思ったが、塔頭の成福院が先になってしまった。お賽銭を納めてご挨拶。ここの融通殿には如意融通尊が祀られている。「融通がつく」や「融通がきいた」の融通だ。きっと、ちょっと無理なお願いも聞いてくれるのだろう。山の中腹を真っすぐに西へ進むと、本堂が見えてくる。舞台へ立ってみるや、ここに本堂を建てた理由が分かった。大和平野を一望できるのだ。遥か、伊勢の方から上ってくる太陽を目撃できる。堂内に入り、本尊の毘沙門天王と対面…のはずだったが、内陣があまりにも薄暗く、カーテンのようなものが上部を覆っていたため確認できず。その代わり、奥にズラリと並んでいる二十八使者像はしかと目に焼き付けた。 本来は山頂付近にある城址や奥の院にも行ってみたかったが、さすがに連れの脚力では1時間以上は優に掛かりそうだったし、この日は30度以上の暑さだったので僕一人だけでも相当へばってしまいそうだ。春に訪れた吉野の脳天神社どころの騒ぎではないだろう。季節のいい頃に、再びやってこよう。帰りは成福院の東側にある王蔵院に寄ってみた。ここには融通殿ならぬ融通堂があった。その隣には浴油堂というおどろおどろしい名の堂も。我々人間にではなく、聖天様の御神体に油をかけて祈祷する密教の秘法を行う場所。寺務所に座っていた、やけに声のいい僧侶に声を掛けられ、12年に1度の法会の際に発布された「八臂弁財天御守」を熱心に勧めてくるので購入することにした。1500円也。 信貴山参拝がどれだけの時間を要するか見当が付かず、また交通事情も不明な点があったため、事前におにぎりを調達していた。バスに乗る前に食べておきたいと思案していたところ、寅の張り子を過ぎたところに休憩所のようなものがあった。少し大きめの寺社の入り口辺りにあるような(ときに出入口の上部に百人一首の絵が飾られてある)板張りの小屋。汗をぬぐいながら頬張り始めると、山の上のほうからお経が聞こえてきた。この前、長谷寺へ訪れたときに遭遇したような複数人の僧侶たちによる声明。しかし、清々しい響きだった長谷寺とは違い、ダミ声の攻撃的な発声だ。お世辞にも心地よいものではなかったが、邪悪なものを追い払うには適当とも言える押しの強さがある。長谷寺も朝護孫子寺も真言宗だが、やはり仏教は多面的である。 法隆寺へはバスが一番。法隆寺駅からでは徒歩30分近く掛かってしまう。法隆寺前で下車し、100mほど来た道を戻って「奈良祥樂」へ。ここはオシャレな和菓子屋さん。10人あまりが入れる広さだが、店内でお茶をすることも可能。夏場はカキ氷が登場する。僕はゆずとすだちを使用した爽やかなカキ氷を頼んだ。連れの抹茶カキ氷が運ばれてくる前に食べ切ってしまうほど食べやすいカキ氷だった。削った氷が小さいせいか、あまり冷たさを感じない。だからパクパクと口へ運んでしまう。しかして、最も衝撃だったのは抹茶カキ氷に付いていた団子だ。運んでくる最中に1つ落っことしてしまったので遅くなったという。お詫びのしるしにと、通常3つのところを5つもの団子が乗っかっている。涼しいところで長期滞在できる理由ができた上、僕は想定外の団子にありつけられたのだから嬉しさしかない。もっちりとした感触。べらぼうに美味い。さすがは和菓子屋である。そもそもの社寺参拝は門前菓子=餅や饅頭を食するのが正しい。 南大門へ続く広々とした参道には記憶がある。しかし、そこから先の記憶はとんとない。これまで2度、訪れたことがあるはずだが、この喪失ぶりは不思議なくらいに完璧だ。南大門を潜れば、そこは綺麗に整えられた石畳。前方に目をやると、中門と左側の五重塔の屋根が重なり合っている(ように見える)。他の寺社もそうだろうが、法隆寺はとりわけ配置へのこだわりが強いと感じられるのは僕だけか。中門では例のごとく、2対の仁王像がお出迎え。筋肉の盛り上がり加減は絶妙だし、体のバランスも素晴らしい。何より、他の仁王像と一線を画しているのは顔の角度。過剰なほどの見下ろし。彼らに対面する者は自分の小ささを感じずにはいられない。ああ、恐ろしや。おそらく僕はここで、彼らに記憶装置を止められてしまっているのだろう。 西院伽藍に入る。法隆寺式という名の伽藍様式。「飛鳥末期に多い形式で、塔と金堂とを左右に並べ、左右対称ではない。この配置はまだ大陸では発見されていないから、日本で創案されたものであろう」(『日本の社寺建築』、3ページ)。四天王寺式も薬師寺式も東大寺式もすべて左右対称なのだから、法隆寺建立の際は喧々諤々の議論が飛び交ったのではないか。いずれにせよ、この特異な方式を採用した制作者の意図には深いものがあったのは間違いあるまい。ちなみに、「平安時代からは山地に寺院を建立することが多くなったので、建物の配置は不規則なものが増えた」とのこと。 大講堂で薬師三尊像に参拝したあとは金堂へ。金堂とはいえ、照明は出来る限り抑えられており、中は薄暗い。ここの釈迦三尊像が本尊。中央の釈迦如来は飛鳥時代ならではの面長だ。格好いいけど、いかにも雲の上の存在のような飛鳥寺の釈迦如来と違って、こちらは人間味がある。西側には五重塔。1400年もの間立ち続けてきたというが、今後も変わらぬ存在感を放ち続けることであろう。 次は「大宝蔵院」という名の宝物館。ここの記憶もない。しかして、その分、喜びも驚きもひとしおだった。大学時代、ひょんなところから出入りをするようになったサークルは映画サークルでもないのにメンバーは往々にして映画好き。時間は大量に余っていたため、彼らに連れられて都内の映画館へ足繁く通った。そうして年間100本以上の映画を見るようになり、ある時から上映1分もしないうちにその映画の本質というか監督の技量を察知してしまうようになった(つもりになった)。そんな記憶がある。ルノワールはいいし、キアロスタミもいい。成瀬や小津はことさらいい。京都への移住後は100近くの寺を巡ってきたので仏像への鑑識眼も向上したであろうか。法隆寺の宝物館はとびっきりにいい。前半の金銅仏、六観音、塑像は唯一無二性があろう。もちろん、これらは前後の時代を貫く系譜のうちに存在するものであり、そうであれば似たようなものもたくさんあろう。しかし、ここに展示されている面々は当時としては第一級の、確かな技量と志しのある彫り師が作ったことが明瞭に分かる。一方、かの有名な百済観音像のつつましい優美さときたら。もっとも、「国立博物館の超国宝展で見た感じとは違うわね」と妻が残念そうに言っていたように、むき出しの(=何も遮るものがない)ほうが観音像の息吹がもっと感じられるだろう。ガラス越しでは生々しさがひと息であった。 法隆寺駅までは焼けつくような暑さの中、長い長い道のり。それ相応の覚悟はしていたけど、二人ともへとへとだ。すると、駅近くの年季の入った商店街の軒先に、驚くほど均一な間隔で(50センチくらい?)ツバメの巣が作られてあった。そこから頭を外に出して十数羽の雛がギャーギャーと騒いでいる姿は壮観。ここはまさしくツバメの幼稚園。いまや家好きのゲーマーとなった一人娘はあの頃、いつも男の子と賑やかに遊んでいた。妻も同じことを思い出したのだろう。汗ばむ顔をこちらに向けてふっと微笑んだ。 虎石 晃 1974年1月8日生まれ。東京都立大学卒業後は塾講師、雑誌編集を経てデイリースポーツ、東京スポーツで競馬記者を勤める。テレビ東京系列「ウイニング競馬」で15年、解説を担当。著書2冊を刊行。2024年春、四半世紀、取材に通った美浦トレーニングセンターに別れを告げ、思索巡りの拠点を京都に。趣味は読書とランニング。



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