第13回 ハイデガーは本当に性格が悪いのか?(1)
最近、SNSを見ていたら、ハイデガーの性格が悪いとか、人間として器が小さいとかという書き込みが目に飛び込んできた。ハイデガーの人柄に対するこのような非難はこれまでつねに繰り返されてきた。またこうした批判は昨日今日始まったものではなく、彼の存命中から、彼がナチスに加担したことへの非難と絡めて行われてきた。 本連載第4回から第6回で、ハイデガーがかつての弟子バウムガルテンについて否定的な所見を書いて追い落とそうとした一件について詳しく論じた。ヤスパースが最初にこれを取り上げてハイデガーを非難したのだが、その後、この一件はハイデガーの人格の劣悪さを示す象徴的な事例として扱われるようになった。ハイデガーはバウムガルテンの所見をゲッティンゲン大学のナチ教員団の依頼で起草したのだが、彼はそこでバウムガルテンがユダヤ人と親しい関係をもつことを指摘し、そのことによってナチズムへの不適合性をにおわせた。ナチスの権力奪取の尻馬に乗ってユダヤ人との関係を示唆することで弟子の学問的キャリアを奪おうとするそのやり口が、とりわけ陰湿で悪質だと見なされたのである。 こうしてハイデガーはその思想においては偉大であるにしても、人間性は卑小で劣悪であるというイメージが今や多くの人びとに共有されている。ハイデガー研究者でさえ、彼のことを悪く言わない人はほとんどいないぐらいである。 冒頭で述べたように、このハイデガーの人格の問題が最近、ふたたび蒸し返された。これはハイデガーの師エトムント・フッサールが日本の雑誌『改造』に寄稿した論文の邦訳が本年5月に刊行され、その「訳者解説」でハイデガーのこの論文に対する「陰口」が紹介されたことがきっかけであった。この陰口はカール・レーヴィット宛ての書簡(1922年11月22日付け)で述べられているものだが、「訳者解説」に引用されている当該箇所をそのまま以下に引いてみよう。 お年寄り〔=フッサール〕は日本のある雑誌に載せる論文を何編か書いています。リッカートが夏にそれを取り決めました。表題は「革新」!お年寄りが言うには、まったく「精神科学的で社会倫理学的」だそうです。ドイツでもそれを年報で公表したがっています。想像力をどんなに自由に働かせてもあなたには思いつけないような、すさまじい代物です。最悪の事態を避けるために、そういったものはドイツでは印刷できないだろう――あまりに初歩的だから、と夫人に言いました。[1] これについて訳者は「ハイデガーの口の悪さがどうしても目についてしまう」とコメントしている。そしてこの『改造』論文の訳者解説を目にした若干の人びとが、SNSにハイデガーの性格の悪さについて書き込んだ。これが私の目に留まったのである。 フッサールはハイデガーにフライブルク大学の助手のポストを与え、またその後、自分が占めていた正教授ポストを譲ってくれた大恩人である。また『存在と時間』もマールブルク大学の正教授のポストに就くためにどうしても業績が必要なときに、フッサールが主宰する『現象学および現象学的哲学のための年報』に特別の便宜を図ってもらい掲載されたものだ。こうした恩人を陰で“der Alte”、「お年寄り」、「老いぼれ」呼ばわりしている。これはやはり陰険な性格を示していると取られても仕方がないのではないか。 ハイデガーが1920年代の早い時期からフッサールを陰で酷評していることは、私も以前から気になっていた。1989年に刊行された『ハイデガー=ヤスパース往復書簡 1920-1963』所収の、1923年7月14日付けのヤスパース宛て書簡でも、ハイデガーはフッサールを次のように口をきわめてののしっている。 あなたも御存じのように、フッサールはベルリンへの招聘を受けました。フッサールは、正教授職を永遠の至福と混同する私講師よりも、もっと惨憺たる状態の振舞い方をしています。何が起こっているのかは、靄に包まれていて見抜かれていず――まず何よりも自分はドイツの大学者だと思っています。――フッサールは全くしまりがなくなり破綻しています――およそフッサールがかつて「脂の乗りきった」ことがあったとしてです。――しかしそれは私には最近いよいよ疑わしくなりました。――フッサールは学内を出たり入ったりぶらぶらしていて、くだらないことを言っているだけです。それはもう哀れな感じを催すほどです。フッサールは、「現象学の創立者」であるという使命感だけで生きていますが、誰もそれが何であるかを知らないのです。――一学期でもここにいた者は、何が起きているかを知っています。――フッサールは、人々が自分に付いてこないのを予感し始めています。――もちろんフッサールは、自分に付いてくるのがあまりに困難なのだ、と思っているのです。――だってむろんのこと、「倫理的なものの数学」(これがあきれたことに最新の成果なのです)なぞ、何人も理解するはずがないじゃありませんか――たとえ、フッサールが私よりもさらに先に進んでいるとしても、です。その私ことハイデガーについてフッサールは、今はこう言うのです。「実際ハイデガーももうすぐ自分で講義をしなければならなくなったのだ。だからハイデガーは、私の講義にも、出席することができなくなったのだ。出席できたなら、ハイデガーも、もっと進歩するだろうに」と。――。そんな人物が今やベルリンで世界を救おうと望んでいるのです。/(…)/ソクラテス的に哲学的思索をしようではありませんか。[2] この箇所では、フッサールがもはや哲学的水準を維持できていないにもかかわらず、自分こそが現象学の創始者なのだから自分に従うべきだという押し付けがましい態度を取っていることへの強い反発が示されている。これをハイデガーの陰口というのはたやすい。しかし今やすっかり時代遅れとなった哲学を振り回し、実質的には過去の栄光だけで禄を食んでいるようにしか見えない師の姿にあきれかえるハイデガーの気持ちも理解できる。このヤスパース宛ての書簡に示されているように、自分に対する異論を一切認めないフッサールの権威主義的な態度にハイデガーは辟易していた。ハイデガーが同書簡の末尾で、「ソクラテス的に哲学的思索をしたいものだ」と述べているのは、師フッサールの硬直した権威主義に対して、忌憚ない哲学的吟味を相互に行う関係を彼が求めていたことを示している。 ハイデガーはこのヤスパース宛ての書簡で、フッサールの「倫理的なものの数学」という「最新の成果」に言及している。これが何を指しているのかについて、私はこれまであまり深く追究しなかった。しかし今回の『改造』論文の翻訳の刊行により、この「倫理的なものの数学」が同論文で論じられていることを知ることができた。 その第一論文においてフッサールは実際、「自然の純粋数学が自然の理念について試み、主要部分に関しては成し遂げたことを、人間の理念について(そしてまた個人と共同体というアプリオリに切り離しえない理念の対について)成し遂げることを試みたような学問」を樹立する必要性を説いている。そして、それを「精神と人間性の数学」と言い換えている[3]。つまりフッサールは数学のようなアプリオリな学が人間についても可能だと主張している。ハイデガーが書簡で述べていた「倫理的なものの数学」は、こうした人間についてのアプリオリな学を指していたわけだ。 「倫理的なものの数学」はその名前だけを聞くと、何か奇異な感じがする。しかし実際は、倫理的存在としての人間の本質を捉える学を意味しており、見かけほど荒唐無稽なものではない。ただそうだとしても、ハイデガーは伝統的形而上学の意味での「本質」を捉えるというスタンスそのものが、人間の「実存」の把握にはふさわしくないと考えていた。つまりフッサールが自然存在と同様の仕方で、理論的対象化によって人間の本質を捉えようとしている時点で、すでに人間存在の真の所在を取り逃がしてしまっている、こうハイデガーは考えていた。 しかもフッサールによる人間の本質規定は、結局のところ、「理性的動物」という西洋における人間の伝統的な本質規定をなぞるものでしかなかった。フッサールは『改造』論文において、人間をつねに理性によって自己革新し、自分を「新しい人間」へと作り上げる存在として描き出している。彼によると、理性とはつねに「真なるもの」を洞察的にそれ自体で把握しようと努力するという性格をもつ。人間は理性によって洞察された価値・規範に照らして自己を反省し、「自我中心」に発する自由な能動性に基づいて自己を「革新」する存在として特徴づけられる。このように理性の自己統制によって全面的に基礎づけられた生をフッサールは「倫理的な生」として提示するのである。 こうしてフッサールは「真正の人間性」という生の形式を次のように特徴づけている。 理性的人間とは、むしろ、いつどこでも、自分の活動的な生の全体において自分の行いを統制し、正当化する者のことである。こうした統制と正当化を理性的人間が行うのは、その人間が原理的かつ全般的な自己規定を根拠にして、実践理性的なもの一般を純粋にその絶対的な実践的価値のために追い求め、それゆえ実践的に真なるもの、ないし実践的に善いものを自分のそのつどの実践的領域における最善のものとして整合的に力のかぎり洞察的に認識し、しかるのちに実現しようと努めるかぎりにおいてである。[4] ハイデガーがフッサールのこうした議論のどのような点を問題視していたかについて、『改造』論文の訳者は1925年夏学期講義『時間概念の歴史へのプロレゴメナ』におけるフッサール批判を参照することを促している。訳者によると、ハイデガーはそこで、フッサールが「日常の周囲世界で生きる「人」を扱いながら、人の生に「自己内省(inspectio sui)」によってアクセスしており、人を「理性的動物(animal rationale)」と定義する伝統に依拠している」ことを批判している[5]。上でも見たように、フッサールは『改造』論文においても人間を、自己内省を備えた理性的動物として特徴づけていた。したがって、講義におけるこうした批判は『改造』論文にも当てはまるだろう。 しかしそもそも、ハイデガーは人間を理性的動物と特徴づけることをなぜ批判するのだろうか。訳者はこの点についてはこれ以上、論じていない。そしてただ、ハイデガーのフッサール批判の有効性については今後、慎重に検討すべきだと述べるだけにとどまっている[6]。 そこでこの『時間概念の歴史へのプロレゴメナ』におけるフッサール批判をあらためて見てみることにしよう[7]。そうするとハイデガーはそこで、フッサールが意識を「自己内省」の対象とすることによって、意識をそれ固有の存在において捉えることができず、それを観察の対象という観点からのみ規定するにとどまっていると批判している。それでは「自己内省」というアプローチによっては取り逃がされてしまう意識固有の存在とはどのようなものだろうか。 まさにこの次元こそ、ハイデガーが「現存在(Dasein)」として主題化しようとしていた事柄である。つまり人間とは、自分とは異なる存在者の存在が生起する「場所」、すなわち「現」であること、このことが現存在という術語によって表現されている。人間はつねにすでに存在者の存在に晒されており、それに対する「気遣い」を余儀なくされている。こうした存在の生起、それへの気遣いという次元は、理性によって存在者を対象化することに先立って成立している。しかもそれらは理性による対象化によっては取り逃がされてしまうものである。つまり「世界」はそのものとしてすでに生起しており、人間はつねにすでにそこへと巻き込まれている。人間は理性的考察の態度を取る以前に、すでに世界のうちに投げ入れられ、そこに出来する存在者への応対を余儀なくされている。 ハイデガーが現象学を高く評価したのも、こうした「存在」、「世界」の原初的な立ち現れをそれとして主題化することを可能にする哲学的方法を現象学のうちに見出したからであった。その観点からすると、1913年に刊行された『イデーン』で打ち出されたような、世界を超越論的意識の相関者、構成物へと還元してしまう超越論的現象学への「転回」は、ハイデガーにとってはむしろ、現象学の本来の可能性からの後退を意味するものでしかなかった。実際、上に引いたヤスパース宛ての書簡には、現象学の積極的な意義をわざわざ消し去るような道へと現象学の創始者が迷い込んでいったことに対する失望が表明されている。 したがって、ハイデガーのフッサールに対する厳しい批評を単にハイデガーの悪しき性格の表れとしてのみ捉えるのは浅慮であり、事の本質を逸している。むしろそこには、古代ギリシア哲学におけるプラトンとアリストテレスの哲学的な対立に匹敵するような大きな存在論的な立場の相克――「存在をめぐる巨人の争い」――が露呈されていると見るべきである。 フッサールが『改造』論文で生の「革新」について語るとき、彼は第一次世界大戦後の生の刷新を求める時代の風潮を意識しつつ、自身の現象学的哲学の立場から応答を試みることを意図していた。大学生などの若い世代を中心とするこうした生の刷新を求める運動はニーチェやベルクソンの哲学に依拠しつつ、既存の学問やその根底にある「理性」に批判的な態度を取り、「生」の直接的体験へと立ち返ろうとする姿勢を共有していた。本連載の過去の回でも繰り返し論じてきたように、ハイデガーの「存在への問い」もそうした生の根本的な刷新を求める運動に堅固な哲学的基礎を与えようとする試みであった。 その観点からすると、生の革新を謳いながらも、結局は「理性」による自己統制という西洋の伝統的な理念を踏襲するフッサールはいかにも時代遅れで、古臭いものに見える。マックス・ヴェーバーのように自身の反時代性を自覚したうえで、あえて学問的理性を擁護するのであればまだしも、そうした緊張感もなく、古びた理性主義を何か新しいことのように提示しているのがハイデガーには守旧的な知的退行にしか見えず、我慢ならなかったのだろう。ハイデガーがフッサールを「お年寄り」呼ばわりしているのも、「新しいもの」と「古いもの」のあいだの世代間の対立の表れでもあった。 フッサールの論考がどれほどの哲学的意義をもつかについては、人によって意見がわかれるだろう。しかし正直言って、私はハイデガーが『改造』論文のドイツでの刊行を思いとどまらせようとしたのは、師に対する配慮としてそれほど不当なことだったとは思えない。このようなものをドイツで刊行しても、当時の若者たちにはまったく相手にされなかったのはたしかだろう。下手をすると、フッサールの哲学者としての評判を傷つけることにもなりかねない、ここまでハイデガーは心配したのだろう。ただフッサールにそのことを指摘しても、彼が聞く耳をもたないことは明らかであった。それゆえフッサール夫人の力を借りてドイツでの刊行を何とか思いとどまらせようとしたのである。その際、内容が「あまりに初歩的だから」という婉曲な表現で説得を試みていることにも、相手を傷つけまいとする配慮が読み取れる。このように捉えると、上掲のレーヴィット宛ての手紙にはハイデガーの性格の悪さどころか、むしろ師に対する細やかな気遣いが示されているようにも見えてくるが、どうだろうか。 実際、『改造』論文の内容は、あの偉大なフッサールが書いた論文だという先入見を外して読んでみると、およそ哲学的とは言いがたい記述の平板さに驚かされる。ハイデガーが酷評するのもむべなるかなという気がする。『改造』論文は五篇の論文からなるが、そのうち『改造』に実際に掲載されたのは第一論文から第三論文までであり、第四論文と第五論文は日の目を見なかった。フッサール自身の証言によると、第四論文までは実際に改造社に送られたという。しかし第四論文は『改造』には掲載されなかった。訳者は第四論文が改造社に届いていなかった可能性を示唆している[8]。 ただあえて想像をたくましくすれば、第四論文は改造社には届いていたが、改造社の側の判断であえて掲載をしなかったのではないだろうか。とにかくそう推測したくなるぐらい、『改造』論文は全編、退屈極まりない内容なのである。日本であれ、ドイツであれ、当時の読者がこのようなものを求めていたとはとても思えない。この論文を見る限り、何らかの時事性をそなえもつ哲学的論文の執筆者として、フッサールが不適任であったことは否めない。第四論文が改造社の手元にあろうとなかろうと、同社がフッサールの論文の刊行を継続する熱意を失っていたというのが、同論文の刊行が尻すぼみに終わったことの根本的な理由であろう。 [1] エトムント・フッサール『『改造』論文集成 革新の現象学と倫理学』植村玄輝・鈴木崇志・八重樫徹・吉川孝訳、講談社学術文庫、2025年、341頁。なお訳者は書簡の当該部分を、マルティン・ハイデガー/カール・レーヴィット『ハイデガー=レーヴィット往復書簡 1919-1973』後藤嘉也・小松恵一訳、法政大学出版局、2019年、104頁以下から引用している。 [2] ヴァルター・ビーメル/ハンス・ザーナー編『ハイデッガー=ヤスパース往復書簡 1920-1963』渡邊二郎訳、名古屋大学出版会、1994年、48頁以下。引用にあたっては「ハイデッガー」を「ハイデガー」にするなど適宜、字句を改めた。 [3] フッサール『『改造』論文集成』、16頁以下。 [4] フッサール『『改造』論文集成』、71頁以下。 [5] フッサール『『改造』論文集成』、372頁。 [6] フッサール『『改造』論文集成』、372頁。 [7] 講義『時間概念の歴史へのプロレゴメナ』におけるフッサール批判については、拙著『存在と共同 ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007年)、第1章第8節「フッサール現象学との対決」で分析しているので、詳細についてはそちらを参照されたい。 [8] フッサール『『改造』論文集成』、349頁以下。 轟 孝夫 経歴 1968年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。
現在、防衛大学校人文社会科学群人間文化学科教授。
専門はハイデガー哲学、現象学、近代日本哲学。
著書に『存在と共同—ハイデガー哲学の構造と展開』(法政大学出版局、2007)、『ハイデガー『存在と時間』入門』(講談社現代新書、2017)、『ハイデガーの超‐政治—ナチズムとの対決/存在・技術・国家への問い』(明石書店、2020)、『ハイデガーの哲学—『存在と時間』から後期の思索まで』(講談社現代新書、2023)などがある。
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