第3回 存在と詩
前回は、ちょっと話が脱線してしまった。 第1回を書いたあと、次は主観性の哲学ではない(と僕が思っている)西田哲学について「存在と主観性」に関連づけながら書いてみようと思っていたのですが、その前に、クサカベクレスに「西田哲学とギリシア」という論考があったことを思い出して再読してみたところ、以前読んだときの印象とは異なり、西田哲学を主観性の哲学であると断じておられることに改めて気づかされました。しかし、本当にそうなのだろうか。そう言い切れるものなのだろうか。すんなりとは納得できないように思われたのですが、ともあれ、これに反論するにも、批判的に応答するにも、勉強しなおさないと、中途半端なものになってしまうと思われたので、西田哲学について書くのは後回しにすることにしたのでした。というより、後回しにせざるを得なかったと言ったほうが正しいでしょう。今の知識と理解では、とても人様に読んでいただけるものは書けないですから(汗)。 ――――― 第1回で紹介した、毎週土曜日に(現在も)開かれているクサカベクレスのオンライン講座は、初期ギリシア哲学について扱っている。クサカベクレスの主張は、ギリシア哲学の本体はソクラテス、プラトンではなく、むしろそれ以前の哲学にあったとするものであるが、こうした哲学史観は、いわゆる本流、主流ではない、傍流的な見解である。少なくとも学説として主流とはみなされていないし、異端と言ってもいいかもしれない。大方の哲学史は、ソクラテス・プラトンから哲学(西洋哲学)がはじまったというような書き方さえしていて、20世紀に活躍したイギリスの哲学者ホワイトヘッドに、「ヨーロッパの哲学の伝統はプラトンへの一連の脚注に過ぎない」という言葉があるくらいである(『過程と実在』)。 ごくごく大雑把に、クサカベクレスの哲学史観の大枠を述べてみると、ギリシア哲学というのは、もともとは「存在」あるいは「自然(ピュシス)」の哲学であった。そこにピュタゴラス――「三平方の定理」のピュタゴラスである――によって「主観性」がギリシア世界に移植され、ギリシア哲学に混乱がもたらされた(このピュタゴラスの思想を発展させて、理念的世界を出現させたのがソクラテスであり、プラトンである)。そして、ここにおいて「存在」と「主観性」といった2つの原理が並び立つようになったのであるが、両者は本質的に異なる原理であり、調和しない。この対立構造(原理と原理のぶつかり合い)が、その後現在に至るまでの西洋哲学全体を、あるいは西洋形而上学全体を支配している、というものである(もっと範囲を拡大して、この対立構造は現代の世界全体のあり方を規定している、とも言えるかもしれない。近年では、いたるところで、存在はずっと主観性に押されっぱなしである。あちこちで存在が窒息しそうになっている!) この対立構造は、もちろんヘレニズムとヘブライズムの関係であるということもできるし、面白いのは、縄文文化と弥生文化の関係になぞらえることもできるということである。おおまかな対応関係は、縄文文化が「存在」であるのに対し、弥生文化は「主観性」である(このようにすっぱり割り切れるものでもないと思いますが、おおまかに言って、です。梅原日本学でもそのような主張がなされていると思います)。 「存在の哲学」ということについて、これもごく大雑把に説明すると、「存在」あるいは「自然(ピュシス)」そのものをとらえ、それとともにある哲学、あるいはそれそのものとなってそれを見る哲学である。一方、「主観性の哲学」とは、存在そのものを見るのではなく、存在そのものからは離れて、主観(性)によってこれを対象化し(=前に立て)、我々人間の理性に理解(把握)可能なものにしようとする哲学である(こう書くと、現在隆盛を極めているAIは、明らかに主観性の哲学の延長線上にあるものだなあ、と思う。つまり、AIは当然ながら存在そのものではないし、存在を対象としてしか取り扱うことができないし、まして存在そのものとなってそれを見ることはできないものであるから。そして、こう書くと、直観的には、やはり西田哲学は主観性の哲学とは異なる思想であるように僕には思われる)。 クサカベクレスの哲学史観は、存在vs主観性という対立軸をもって西洋哲学全体を俯瞰するもので、従来の哲学史と異なり大変刺激的であるのだが、僕にとっては、現代社会のさまざまな問題を考えるうえでも、とても参考になる「物事の見方」でもある。クサカベクレスは、古代ギリシア世界について述べているようで、実は現代について論じているのである(ネオ高等遊民「何すごクサカベクレス」[1]参照)。先ほど書いたAIについてもそうだし、SNS上で日々繰り広げられる言い争いの類を目にするたびに、主観性が前面に出てきているなあ(存在はまったく埋もれてしまっているなあ)、と、クサカベクレスの説にますます納得する今日このごろ、である[2]。 ――――― というわけで、前置きが長くなってしまったが、第2回は西田哲学について書くのは断念というか先延ばしにして、賑やかしに連載のスペースを埋めるなら別のことを書くしかないと思っていたとき、ふと、ずっと前(かれこれ20数年前)に、タレスの「万物の根源(アルケー)は水である」という命題をモチーフとして長い詩を書いたことがあるのを思い出した(ずっと忘却の彼方にある話だったのに、なぜ突然思い出したのだろう?)。 第2回の記述に即して言えば、それは明確に「書こうとして書いた」詩であり、作為性が感じられる作品であるとは思われるものの、「万物の根源は水である」というフレーズから想起・喚起されるイメージを言わば即興的に次々と展開していったもので、ある意味でユーモラスな体裁をとりつつ(可笑しみをともないつつ)、ある種の生に対する「もがき」のようなものを表現した詩になっている――と、今振り返ってみれば、そんなふうに評し得る作品だったかもしれない。前回書いたように、僕は、詩は存在の核心に触れる方法の一つになりえるかもしれないと考えているので、その自作の詩やタレスの自然哲学を題材にして、存在と詩についての話ができないだろうかと目論んだのである。 しかし、である。悲しいことに、思い当たる場所をすべて探しても、僕はその詩が書き留められた(印字された)紙にたどりつくことができなかった。数回の引っ越しでどこか思いもよらない場所に紛れてしまったか、紛失してしまったのかもしれない。捨ててしまったか…。でも、思い出したからには、連載の中で紹介するかしないかはともかく、もう一度この目で確かめてみたかったなあ。書こうとして書いた詩ではあるけれど、あの詩をもう一度書けと言われても、現在の僕には一行も書くことはできないだろう(実際に試してみたが無駄だった)。それは、書いたそのときにしか書けなかった詩であったと思う(再現不可能性)。 ただ、その代わりに、数編の、昔書いた詩を引っぱりだすことができた。そのいくつかを読み返しているうちにするすると前回の文章が書けた。書けてしまった(ちなみに、第2回には固有名詞が出てきていない)。当初の思惑とは異なるものになってしまったが、自分にとって詩あるいは詩を書くということはどういう意味を持っていたのかを考える中で、詩を通して存在または世界の核心に触れようとしていた可能性に行き着いたのだった。前回の記事は、それゆえ広い意味で、存在と主観性をめぐる随想に含めてもいいだろうと判断した、というわけだったのです。 ――――― 引っ張りだしてきた詩の中から、一つを選んで読んでみたいと思います。あまり詳しく覚えていないのですが、ずいぶん前に小中高の受験教材をつくるという仕事をしていたことがあって、そのころ書いたものだと思います。それでは今回はこの辺で。また次回お会いしましょう。 卵で生まれる [1] 何すごクサカベクレス――哲学YouTuberネオ高等遊民はなぜ『ギリシア哲学30講』の独自性を絶賛するのか https://book.asahi.com/jinbun/article/14415040 [2] 2025年5月31日の講座では、自然(≒存在)と主体(≒主観性)の融合・統合といったテーマについても語られ、クサカベクレスによれば、結局のところそれは不可能であるとのことであった。第一にそれは、原理と原理の対立なのであり、そうであるならば原理に統合も融合もありえないからであり、第二に、自然(ピュシス)は、ハイデガーのいうところの「存在」(Sein)であって「存在者」(das Seiende)ではなく、したがって対象となりえない原理であり、両原理を対象と対象を結びつけるような仕方で統合することは不可能だからである、との理由であった。同じテーマに対して、たとえば西田幾多郎だったらどのように取り組むだろうかということを考えてみることは、けっして無意味なことではないだろう(現時点での感想として。統合もありえる? 統合は無理でもうまく折り合いをつけられる? など)。 柴村登治(傍流堂代表)
恋人への手紙に追伸と書いて
ためつすがめつ敬具までの文字を読んだあと
半ば強制的に向かわされているかのように
自ら向かっているその地で
爬虫類は卵で生まれることを
選ばせる問題や
魚類はどうしていちどにたくさんの卵を
産むのか考えさせる問題を
つくったりしていて
二つ目の問題には
魚類は水中で外敵をはじめいろいろな危険にさらされるから
少しでも子どもを残すことができるようにするため
というような解答をつけるのだった
そんな魚類にしか答えられないような問題を
だれか魚類にインタヴューでもしたのだろうか
そして魚類はオフレコですけどねと
聞き手本位の質問に答えでもしたのだろうか
魚類として産卵してみなければ
本当のところはだれにもわからないのに
追伸として
どうしてわざわざもういちど愛の告白を
したためなければならなかったのかとか
そんな魚類にしか答えられないような問題を
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