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第2回 クロトン

 シケリア島からメッシーナ海峡を渡り、再びイタリア本土南部の先端部レッジョ・ディ・カラブリアに上陸したのは夕方の5時過ぎであった。当地で一泊する選択肢もあったが、なぜか焦燥感に駆られて列車に飛び乗り、次の遺跡クロトンに向かったのである。

 確かにカラブリア地方(イタリア半島の長靴の底の部分)は美しいところであった。青い海、白い砂浜、緑のハイマツ帯と、人家などほとんど見られない風景にしばし心安らぐ思いであったが、しかし列車はコトコトと遅く、クロトーネの駅に着いたのは深夜の1時過ぎであった。しかも駅舎は街からかなり離れたところにあるらしく、あたりの状況は駅の裸電球の街灯の照明のみでいまひとつ判然としなかったが、とにかく街に向かう道と信じて、一本の道を歩き始めた。街灯もほとんどなく、またそれほど広くない道であったが、少し歩いたところに明かりの灯った一軒の家があった。それはパン屋さんであった。パン屋さんは夜働いているのだとそのときはじめて知った次第である。通り過ぎようとしたとき中からひとりの男が声をかけてきた。「どこへ行くのか」と聞かれたと思い、「クロトーネ」と答えたところ、とにかく入ってこいと手招きされた。ローマの将軍スッラのような残忍そうな面相の男で一瞬ためらったが、拒む気力もなかった。ここで少し待てという仕草で椅子をすすめられ、焼き立てのパンと牛乳を出してくれた。少し待つと中からもう一人の男が現れ(その男もあまり人相はよくなかった)、さあこれから行くぞと車に乗せられた。この旅もこれで終わりかと内心覚悟したが、クロトーネの街まで無事送り届けてくれたのである。そして一軒の宿屋をたたき起こして(宿屋の主人がブツブツいいながら出てきた)、この男を泊めてやれとばかりに投宿させてくれたのである。夜中孤独に歩く旅の男を見過ごしにできなかった心優しい男たちだったのである。内心疑った自分を恥じた次第である。

 古代都市クロトンの遺跡はクロトーネの街から7キロほど西に行った海岸が少し突き出た半島状の岩礁の上にあり、ために海による浸食は免れたようで、街の形状はくっきりと残っていた。あまり大きな遺跡とも立派な遺構ともいえない佇みで、ここが古代都市クロトンであることを主張するかのように円柱が一本立っていた。

 クロトンは、したがって古代遺跡としてはどちらかといえば小さめの平凡な遺跡であるが、ところがここが「存在と主観性」(ハイデガー)という西洋2500年の形而上学に通底する二大原理の戦いの最初の現場となったところなのである。プラトンの表現を借りていえば、「存在をめぐる巨人闘争」がはじめて生起した、その現場がここクロトンなのである。そしてこの戦いを惹き起こした「主観性」という異邦の原理をギリシア世界にはじめて持ち込んだ男こそ、ピュタゴラスなのである。 

 クロトンでは後世「ピュタゴラス教団」と呼ばれるようになった宗教結社がピュタゴラスによって創設され、運営されていた。教団の目的はただひとつ、輪廻の輪から魂を解放することであった。そしてそのために彼らは財産を共有した厳格な集団生活を自らに課し、厳しいエルゴン(業)を実践したのである。エルゴンのひとつには五年間の沈黙というのもあった。また音楽と数学にも熱心に取り組んだ。輪廻の輪から魂を解放するためにはまず何よりも魂を浄化しなければならない。その浄化の手段として音楽と数学が実践されたわけである。

 これは典型的な主観性の哲学である。己の魂の解放を問題とするということは、何よりも己(自己、主観性)を第一とすることである。ところで主観性は、ハイデガーによれば、「前に立てる」原理であり、すべてのものを己の前に立つ対象と化さずにいない。言い換えれば、その志向性は自ずと理念界を志向する超越的志向性とならずにいないのである。ピュタゴラス派において数が実体であり、原理であるとされたゆえんである(アリストテレス)。ここに近代世界にまでつづく主観性の立ち上がりと、その浸透および徹底化の発端があったのである。

 クロトンの人たちもピュタゴラス哲学に魅了され、当初はピュタゴラス派に自らの国政を委託したようである。理念的志向性とそこから生まれる秩序性に彼らも惹かれたのであろう。しかしやがて反動が起こることとなる。なぜか、「自己」(主観性)の立ち上がりには社会に対する「そむき」があるのである(和辻)。ポリスは基本的に存在の共同体である。そこでは各人は「人間」というよりは、それぞれが役割を担う間柄的存在でしかない。その中にあって己の魂の救済を第一に置くということは、言い換えれば「己個人」を第一位に位置づけるということは、共同体に対する反逆以外の何ものでもないのである。これをクロトンの人々は許さなかった。この時の反動は苛烈で、ピュタゴラス派の人々のすべてを、その集会所共々、焼き滅ぼしたほどであった。「彼ら(クロトンの人々)のそれらの人々(ピュタゴラスの徒)に対する陰謀は、ピュタゴラスの徒がミロンの家で会議を持ち、国事について協議していたとき、その家に火をつけ、アルキュポスとリュシスを除いたその場の人々のすべてを焼き殺すというまでにいたったのである。この二人はまだ若く、かつ強健であったので、何とかその場を脱出することができた」とイアンブリコスは報告している(イアンブリコス『ピュタゴラス伝』)。

 この反動はクロトンにとどまらず、当時マグナ・グラエキア(大ギリシア)と呼ばれていたイタリア地方一帯の諸都市に及び、各地のピュタゴラス派の集会所が焼き討ちにされ、数え切れぬほどの人々が殺害されたそうである(ポリュビオス『歴史』参照)。つまりギリシアの人々はピュタゴラスが持ち込んだ異邦の原理(主観性原理)を全否定し、それをギリシア世界から完全に駆逐したわけである。晩年ピュタゴラスはメタポンティオンに逃れ、その地で没したといわれている。

 このようにしてピュタゴラス派は滅び、その原理もまたギリシアから駆逐された。否、駆逐されたはずであった。しかし実際には完全に駆逐され切るということはなく、それはやがてギリシア中央部に移植され、ソクラテス・プラトン哲学によって継承されるところとなった。ソクラテス・プラトン哲学によって「主観性」がギリシア中央部に鎮座することとなったのである。そして、こともあろうに、存在(ピュシス)を封じ込める壮麗な形而上学として立ち上がったのである。そしてここから二千数百年に及ぶあの西洋形而上学の歴史がはじまったのである。言い換えれば、「存在と主観性」という二大原理の対立と抗争の歴史がはじまったのである。その帰結が近・現代世界である。その起点となった場所、それがこのクロトンという小さな遺跡なのである。


クサカベクレス

1946 年京都府生まれ。別名、日下部吉信。立命館大学名誉教授。1969 年立命館大学文学部哲学科卒。75 年同大学院文学研究科博士課程満期退学。87-88 年、96-97 年ケルン大学トマス研究所客員研究員。2006-07 年オックスフォード大学オリエル・カレッジ客員研究員。著書に『ギリシア哲学と主観性――初期ギリシア哲学研究』(法政大学出版、2005)、『初期ギリシア哲学講義・8 講(シリーズ・ギリシア哲学講義1)』(晃洋書房、2012)、『ギリシア哲学30講 人類の原初の思索から――「存在の故郷」を求めて』上下(明石書店、2018-19)、編訳書に『初期ギリシア自然哲学者断片集』①②③(訳、ちくま学芸文庫 2000-01)など。現在、「アリストテレス『形而上学』講読」講座を開講中(主催:タイムヒル)。

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