第7回 狗奴国との戦争と卑弥呼の死
今回は邪馬台国と狗奴国との戦争についてお話しします。 【 邪馬台国の南には狗奴国(くなこく)があり男子を王としている。官人に狗古智卑狗(くくちひこ)がいる。卑弥呼と狗奴国の男王の卑弥弓呼(ひみここ)は不和であり戦争が起こった。戦争の様子を帯方郡に伝えると、帯方郡から張政が倭国に来て黄幢(黄色い軍旗)と檄文により卑弥呼を指導し激励した。正始8年(247年)または翌年(248年)に卑弥呼が亡くなると径百余歩の塚を築いて葬った。卑弥呼の後継者に男王を立てたが国内が収まらず、卑弥呼の同族で13歳の台与(とよ)を女王に立てたら収まった。張政は台与を指導し激励した。台与は官人を魏へ派遣し使役人や勾玉、倭錦を献上し、その際に張政を帯方郡へ帰還させた。 】 邪馬台国の南には狗奴国があり、両国は折り合いが悪く、ついに戦争に発展します。邪馬台国は筑紫平野にあったと考えられるので、その南にある狗奴国は音韻から考えても熊本(球磨)が妥当だと思います。狗奴国の男王は卑弥弓呼で、官人は狗古智卑狗です。卑弥呼(ひみこ)と卑弥弓呼(ひみここ)は音韻が似過ぎていてとても不思議です。もしかすると、卑弥呼は姫御子(ひめみこ:皇女)で、卑弥弓呼は彦御子(ひこみこ:皇子)なのではないかとする解釈もありますが、共に女王、男王ではなく王位に就く前の御子なので少し難があります。 一方、「狗古智卑狗」は、安本美典氏『季刊邪馬台国145号』(梓書院)によれば万葉仮名の読み方で「くくちひこ」と読めて、古文献では「菊池」のことを「きくち」ではなく「くくち」と読ませているので、狗古智卑狗は菊池彦(くくちひこ)だったと考えられます。菊池彦ならば熊本の菊池平野に鞠智(現・菊池市)という古い地名があるので、これは狗奴国=熊本(球磨)説を補強することになります。 菊池市の西隣りにある山鹿市には環濠集落の方保田東原(かとうだ ひがしばる)遺跡があります。この遺跡は鉄器製造遺構をはじめ、鉄鏃や石包丁型鉄器(稲刈り農具)などが出土し、沖縄などで採れる水字貝(すいじがい)を模したと言われている魔除けの巴形銅器(ともえがた どうき)などが出土しています。第4回に記したとおり、鉄鏃が福岡県からは398個、熊本県からは339個出土しており、鉄鏃の県別出土数が1位と2位である両県の県境付近は、正に邪馬台国対狗奴国の主戦場だった可能性が高いのです。この遺跡の出土物は豊富ですが、銅鏡片とガラス玉や土製の勾玉は出土するものの鉄剣、銅剣が見られません。やはり、邪馬台国の出土物とは少し異質な感じがして、両国が友好関係にあったようには見えません。 邪馬台国がこの戦争の様子を帯方郡に伝えると、帯方郡の張政が黄幢(こうどう:黄色い軍旗)と檄文を携えて波涛を越えてやって来て邪馬台国を指導し激励します。黄幢は明治維新の戊辰戦争で言えば「錦の御旗」の役割を果たし、邪馬台国には魏の国が後ろ盾になっていることを誇示して狗奴国を威圧するとともに、邪馬台国を鼓舞する役割を果たしたと思います。 一方、奈良説では狗奴国を東海地方とする説明が多いのですが、東海地方は近畿地方の東にあります。またしても自説に合わせて南は東の誤りとして魏志倭人伝を改変することになってしまいます。しかし、誤っているのは奈良説を唱える学者の方ではないでしょうか。それに、近畿地方と東海地方は共に1メートルを超えるような大型銅鐸を威信財にしている同じ文化圏にあり、交易の様子も見られて不和であるようには見えません。ともに鉄の入手ができないため、鉄鏃ではなく石鏃や銅鏃を使っている後進地域同士です。 * * * 狗奴国との戦争中に、247年または248年に突如として卑弥呼は死んでしまいます。あまりにも唐突な記事なので、卑弥呼は戦死したとか、卑弥呼の霊力が衰えたことにより劣勢になり、その責任を取らされて殺されたとか、過労で寿命が尽きたとか、様々な説が唱えられています。 しかし、近年驚くべき事実が明らかになっています。それは、卑弥呼が死んだとされる年に2年続けて「北部九州」で皆既日食が見られたことです。247年3月24日18時頃と、248年9月5日6時頃です。特に247年の日食は、太陽の周囲に怪しいコロナの光を放ったまま日没してしまいました。日食の原理を知らなければ、太陽が燃え尽きて明日からもう拝めないのではないかと思わせる恐ろしい日食でした。皆既日食が同じ場所で見られる確率は300年に一度程度であり、2年連続となると有史以来の珍しい天文現象です。そういう稀な現象が卑弥呼が死んだ年に起きたことは信じられない程の偶然です。ただし、248年の日食は北部九州では部分日食にとどまった、とする説もありますが、その場合でも近畿地方より格段に大きく欠けたことは確かです。 古代中国においては、台風や地震や日食などの天変地異は王の不徳(不道徳や統治能力不足)が原因で起こると考え、王の権威が失墜し王殺しが行われることもあったようです。倭国でも皆既日食の責任を取らせられた可能性もありますが、様々な説のどれが妥当なのかは記紀を読み解く中で考えます。 卑弥呼が亡くなると邪馬台国は径百余歩の塚を築いて埋葬しました。一歩は長さの単位で歩幅を基にしていますが、右足で半歩、左足で半歩であるため、一歩は約1.5mになります。よって径百余歩の塚の大きさは直径約150mとなり、これだけの大きさの塚を邪馬台国時代の遺跡の中から探すのは大変です。 奈良説では卑弥呼の墓は纏向遺跡にある前方後円墳の箸墓古墳であるとしていますが、この古墳は全長が280mもあり大き過ぎます。250年前後にまったく素地が無く、いきなり巨大前方後円墳が築かれることはあり得ないと私は思います。纏向遺跡には全長100m前後の勝山古墳や矢塚古墳などの箸墓古墳とは前方部の形が異なる古墳もあるのですが、これらの古墳が卑弥呼の墓だと主張する考古学者は私の知る限りいません。150mに足りないので検討する意欲が湧かないのかも知れません。 箸墓古墳が卑弥呼の墓に違いないという大合唱の中で、纏向遺跡の発掘研究をしている元橿原考古学研究所の考古学者の関川尚功(ひさよし)氏だけは、箸墓の周壕から見つかった土器の編年を独自に行い、箸墓古墳の築造年代を4世紀中頃であると分析しています(「土器からみたホケノ山古墳と箸墓古墳」『季刊邪馬台国』(梓書院)第102号所収)。4世紀中頃を分かりやすく350年前後と考えると、関川氏の編年は妥当であると思います。つまり邪馬台国奈良説はまたしても、年代を100年もサバを読んでいることになります。記紀には箸墓古墳には第七代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまと ととひ ももそひめのみこと)が葬られていると記されています。倭迹迹日百襲姫命の晩年は、安本美典氏の年代推定によれば350年代になります。関川氏と安本氏の見立ては一致しており、記紀を勝手に改変しない方が学説として優れているでしょう。 * * * では、北部九州説では卑弥呼の墓はどの遺跡と考えられるでしょうか。最も有力なのは伊都国である糸島市の平原(ひらばる)遺跡です。この遺跡の1号墓は14×12メートルの方形周溝墓で、中央に割竹形木棺(わりたけがた もくかん)が埋葬されていました。割竹形木棺とは丸太を縦に二つに割って中をくり抜き、二つに割った竹の節と節の間のような形に加工した木棺で、初期の前方後円墳に多く用いられました。まだ古墳時代が始まっていない邪馬台国の時代に、平原遺跡で割竹形木棺が使われていたという事実は、伊都国がその発祥地だと言える大きな手がかりになります。また、魏志倭人伝には「死者を葬る際の棺(ひつぎ)はあるが槨(かく)は無い」と記されています。槨は棺を覆って保護するもので、粘土槨や木炭槨、小石でできた礫槨 (れきかく)などの種類があり、後世の古墳には見られますが、平原遺跡には、魏志倭人伝のとおり棺だけで槨はありません。この方形周溝墓の大きさは径百余歩の150mを満たしませんが、方形周溝墓の周りの兆域(墓域)まで含めて考えればいいのです。 この墓が有力視されるのは方形周溝墓の大きさではなく、副葬品が他のどの墓とも違って格段に豪華なことです。副葬品は後漢式鏡を多く含む銅鏡が弥生時代で最大の40面もあり、素環頭太刀(鉄刀)1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類多数の三種の神器が揃っています。これらはすべて国宝に指定されています。銅鏡のなかには直径46.5センチメートルの内行花文鏡が5枚もあり、これは中国大陸にもない大きな銅鏡なので国産です。副葬品の中には武器がほとんどなく、代わりにネックレスやブレスレットなどの装身具が多いこと、中国で女性が身につける「耳とう」と言われるイヤリングが副葬されていることから、墓の主は女王と見られており、卑弥呼に相応しいのです。 銅鏡のほとんどは割れていますが、銅は金属としては強度が弱く割れやすく、特に錫の割合が多いと割れやすいようです。しかし、鏡を故意に割ったような形跡もあり、卑弥呼の死因と関係があるかも知れません。割れた鏡の理由や皆既日食との関わり、邪馬台国は筑紫平野と考えられるのに卑弥呼はなぜ伊都国に葬られたかについては、記紀を読み解く後の回で考えます。 * * * 卑弥呼の後継者に男王を立てたが国内が収まらず、卑弥呼の同族で13歳の台与(とよ)を女王に立てたら収まったと記されています。しかし、台与が女王になっても狗奴国との戦争は終わったわけではありません。その証拠に張政は卑弥呼と同様に台与も指導し激励しています。ところがその直後に、台与は魏の国へ使役人や勾玉、倭錦を献上する朝貢を復活させ、その際に張政を帯方郡へ帰還させています。張政が帰還したのは狗奴国に勝って任務が完了したからです。また、戦勝国になった邪馬台国は朝貢を復活するほどに政情と経済が安定したことがわかります。 魏志倭人伝の記述は突然ここで終わってしまいます。邪馬台国がその後どうなったのか知りたいですよね。ご安心ください、邪馬台国のその後についてはわかる手立てがあるのです。それについては次回から順序立てて説明していきます。 高橋 永寿(たかはし えいじゅ) 1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

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