月刊傍流堂

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 月刊傍流堂
  4. 第11回 卑弥呼は天照大御神 

第11回 卑弥呼は天照大御神 

 第9回で紹介したとおり『古事記』には「大八島には津島(対馬)、壱岐島、筑紫島があり、筑紫島は、筑紫、豊、肥、熊曽の4つから成る」ととても詳しく記されています。これはまるで「魏志倭人伝」に記された邪馬台国への行程をたどるようです。大八島である隠岐島と佐渡島は(北部九州と婚姻関係にあった)出雲国の支配領域です。一方、本州については大倭豊秋津島(おおやまと とよあきつしま)とひとくくりに扱われて、記紀を編纂したのが奈良の官人だったにもかかわらず、奈良のことが特記されていません。邪馬台国時代には高天原の勢力はまだ奈良にまで及んでいなかったことを奈良の官人自身が認識していたからです。

 しかし、奈良のことは記されていないにもかかわらず、大八島には伊予、讃岐、粟、土佐の4つから成る伊予島(四国)がしっかりと入っています。また、第9回で紹介したとおり「風土記」によれば、奈良の天香山の名前は、九州の朝倉の高天原の香山の名前が、伊予国や阿波国を経由して奈良へ運ばれたことが記されています。このことから、九州と四国との間には交易があったことがうかがえます。また、遺跡の出土物から見ても、四国は北部九州とともに「銅剣・銅矛(どうほこ)文化圏」を形成していました。我が国が、九州や四国から成る「銅剣・銅矛文化圏」と、近畿や東海から成る「銅鐸文化圏」との二大文化圏に区分できると提唱したのは、哲学者の和辻哲郎(わつじてつろう:1889~1960年)です。

 ところが邪馬台国奈良説を唱える考古学者たちは、奈良を含む近畿が「銅鐸文化圏」に区分されることを嫌う傾向にあります。なぜならば、銅鐸は魏志倭人伝にも記紀にも記されていない「忘れられた祭器」と呼ばれているためです。1998年に吉野ケ里遺跡から全長28センチの銅鐸が出土すると、「そら見たことか。銅鐸はどこにでもあって、和辻哲郎の提唱した二大文化圏なんて通用しない」とも言われました。しかし、二大文化圏は今でも十分通用する区分なのです。なぜ吉野ケ里遺跡から銅鐸が出土したかと言うと、そもそも銅鐸を作り始めたのは北部九州だったからです。

 さて、北部九州での銅鐸の製造は中型までで、その後50センチから1メートルを超えるまでに大型化した銅鐸は近畿や東海地方に限定され、近畿式銅鐸や三遠式(さんえんしき)銅鐸と称されています。三遠式は三河(現在の愛知県東部周辺)、遠州(現在の静岡県西部周辺)に由来する名称です。これらの大型銅鐸は鳴らすためでも辟邪のためでもなく、領民に権力を見せつけるための威信財に変化した銅鐸です。しかも、小型・中型の銅鐸とは桁違いに多数の大型銅鐸が製作され「銅鐸文化圏」を築いていたのです。この意味で和辻哲郎の言う「銅鐸文化圏」は確かに存在したのです。「銅剣・銅矛文化圏」と異なり、「銅鐸文化圏」では銅剣も銅矛も出土せず、さらに銅鏡も4世紀の古墳時代にならないと出土しないという異質な文化圏なのです。つまり、四国が大八島に含まれるのは、北部九州とともに「銅剣・銅矛文化圏」を形成していたためで、近畿や東海地方が明示的に大八島に含まれないのは異質な文化圏だったからです。

 次に、天照大御神と須佐之男命と月読命は、魏志倭人伝で言えば誰の反映なのか推測します。第9回で紹介したとおり、伊邪那岐命が早良平野で禊(みそぎ)をした時に産まれたのが姉の天照大御神と、弟の須佐之男命と月読命です。天照大御神の姉弟が成長すると、伊邪那岐命は天照大御神を高天原の統治者に任命しました。また、須佐之男命を海上交通の統治者に任命し、月読命を夜の国の統治者に任命しました。

 高天原は邪馬台国であり、天照大御神は卑弥呼で、須佐之男命は男弟であると考えると、2000文字足らずの魏志倭人伝では良く解らなかった邪馬台国の実態が、記紀を読み解くことで理解できるようになります。

 数学と物理学に「双対性(そうついせい)」という原理があります。双対性とは、数式の表現形式がまったく異なるA体系とB体系が、本質においては等価であり別表現に過ぎない関係を言います。A体系とB体系とに双対性がある場合、A体系の問題が真と証明されれば、それと等価のB体系の問題も真となります。双対性を例えて言えば、富士山に山梨県側の吉田口から登っても、静岡県側の富士宮口から登っても山頂の剣ヶ峰(3776m)にたどり着くようなイメージです。双対性が認められると、B体系での計算がとても難しく、A体系では容易な場合に威力を発揮します。逆に、B体系での計算が容易になることもあるので、双方のいいとこ取りをして、その「相乗」効果によって問題を一気に解決して先に進むのです。

 これまで見てきたとおり、邪馬台国と高天原とは、数学や物理学のような厳密性はありませんが、場所も時代も登場人物(神々)の行動も酷似していて、おおよその双対性があるように見えます。この双対性を取り入れれば「相乗」効果により、3世紀に朝倉盆地にあった邪馬台国の解像度が格段に向上するのです。

 それに比べて、「魏志倭人伝は倭人からの伝聞なので誤りが多い」とか「記紀神話は大和朝廷による作り話なので信じるに値しない」というように、魏志倭人伝も記紀神話も信用せずに「相殺」した上で、自説に都合の良い所だけを摘み食いして「纏向遺跡は卑弥呼の宮殿である」とする主張こそ信じるに値しません。そんな主張を支持する出土品や文献など一切無く、結論ありきの砂上楼閣というか蜃気楼でしかありません。相殺を例えて言えば、地図を信用しない裸の王様たちがこぞって富士山の裾野にある青木ヶ原樹海に迷い込んでしまったようなものです。

 さて、これまで第1回のあらすじに書いた、邪馬台国の周辺国である「伊邪国、都支国、鬼国、対蘇国、弥奴国、華奴蘇奴国など」については説明してきませんでした。安本美典氏は『卑弥呼は日本語を話したか』(PHP研究所)の中で、都支国は「つくしこく」と読めて筑紫野に当たり、鬼国は「きこく」と読めて基肄(きい)に、対蘇国は「とすこく」と読めて鳥栖に、弥奴国は「みねこく」と読めて三根に、華奴蘇奴国は「かなさぐなこく」と読めて「かんさぎのくに」を意味して吉野ケ里遺跡付近の神崎(かんざき)に当たるだろうと述べていています。これらはどれも納得できますが、伊邪(いざ、いや)国については、福岡県みやこ町にあった諫山(いさやま)や大分県宇佐などに当てており、何だか腑に落ちません。

 そこで私は次のように考えました。伊邪国と伊邪那岐命とは「伊邪(いざ)」の漢字が共通です。伊邪那岐命の出身地は、第9回で書いたとおり、妻の伊邪那美命の葬られた出雲から戻って禊(みそぎ)をした福岡市西区の早良平野です。この禊により天照大御神や須佐之男命が産まれた地です。伊邪国と伊邪那岐命の語源は「導く」を意味する「誘(いざな)う」ではないでしょうか。そして伊邪那岐命の「岐」は祇園(ぎおん:神の園)と言うように「神」を意味し、伊邪那美命の「美」は女神の美称に見えます。なお、京都府にある八坂神社は祇園社とも称して主祭神は須佐之男命で天津「神」です。

 10世紀に記された『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』によると、伊都郡(糸島市の南半分)と那珂郡(福岡市など)の間に早良郡(早良平野)が設けられています。また、第3回に取り上げた翰苑(かんえん)には「邪届伊都傍連斯馬」という文があり、「邪は伊都に届き、傍らに斯馬が連なる」と読み下せて、「邪は、伊都(いと)国と斯馬(しま)国(合わせて現在の糸島市)に隣接している」と解釈できます。「邪」は邪馬台国を指す可能性もありますが、邪馬台国は朝倉盆地周辺であり伊都国とも斯馬国とも隣接していません。このため、この文の示す「邪」は二つの国に隣接している早良平野のことで、伊邪(いざ)国を指しているのではないでしょうか。早良平野は伊邪那岐命の出身地であり、伊邪国と呼ばれていたと私は思うのです。さらに言えば、伊邪那岐命の「伊邪」は伊邪国で、「那」は東隣りの那珂国(奴国)を指しているとするのは考え過ぎでしょうか。ついでに楽しい想像を膨らませれば、伊邪(いざ)国と早良(さわら)との関係は、「いざはら」→「いさはら」→「さわら」かも知れません。

 早良平野は伊邪那岐命の出身地であるだけでなく、愛宕神社(祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命)や飯盛神社(祭神は伊邪那美命)が鎮座していて、少し離れていますが夫婦山である若杉山には太祖神社(祭神は伊邪那岐命)が鎮座しているため、伊邪那岐命は伊邪国王であったのかも知れません。

 奥野正男氏の『邪馬台国発掘』(PHP研究所)によれば、図4のとおり、早良平野周辺には「たたら製鉄」が行われた製鉄遺跡が50か所以上見つかっています。

▲図4 博多湾沿岸の製鉄遺跡(『邪馬台国発掘』奥野正男、PHP研究所より転載)

 たたら製鉄とは砂鉄と木炭を窯に入れて燃焼させて鉄を抽出する方法で、不純物の鉄滓(てっさい)は金屑(かなくず)として捨てられました。この金屑がこの地域から大量に出土しているのです。早良平野には金屑川(かなくずかわ)が流れていて、室見川に合流して博多湾へ注いでいます。

 奥野氏は『邪馬台国発掘』で「日本の砂鉄はどこもチタン分が多いとのべたが、実は日本中でただ二ヵ所だけ、チタン分が1%前後ときわめて低い地域がある。それが福岡県の博多湾沿岸部と、(出雲の)斐伊川(ひいかわ)流域で、両地域とも古代から製鉄がさかんにおこなわれた。チタン分の少ない良質の砂鉄のあるところに鉄産地が形成されるのは、いわば当然のことである」と述べています。砂鉄のチタン分が低いと土器を焼く程度の低い温度でも鉄の精錬が可能になるようです。『出雲国風土記』には、飯石郡の飯石小川や波多小川の他、仁多郡の4つの郷でも鉄が採れて刀や農具を作ったことが記されています。早良平野でも製鉄遺跡が多数発見されていることから、この地域が倭国の鉄生産を担っていたと考えられます。

 しかし、180年頃になると倭国大乱が起こりました。倭国大乱とは、邪馬台国が鉄資源のある伊邪国を奴国から奪い取る戦争だった可能性があります。伊邪国では伊邪那岐命の次世代の天照大御神(卑弥呼)や須佐之男命(男弟)が成長してきています。一方、邪馬台国は、広大な筑紫平野の稲作の余剰生産物により着実に国力を高めてきました。これを背景にして邪馬台国は、伊邪国出身の天照大御神を統治者に戴くという引き抜き戦略により、奴国の命綱とも言える鉄資源の支配権を奪ったのではないでしょうか。

 高御産巣日神(高木神)は、邪馬台国が誕生すると、王ではないにもかかわらず指導者となっています。魏志倭人伝を読み返すと、「卑弥呼が女王になってから見た者は少ない。ただ(男弟以外の)一人の男子が居処に出入りして飲食を給仕し、卑弥呼の命令を取り次いでいる」と記されています。この男子こそ高木神だった可能性があります。

 このように、邪馬台国が早良平野の鉄資源を押さえたことにより奴国時代が終わり、早良平野出身の天照大御神(卑弥呼)が高天原の統治者に任命され、筑紫平野に邪馬台国が誕生しました。そして、天照大御神(卑弥呼)の治世になると半世紀近くの安定した時代が続きました。しかし、記紀には倭国大乱のことが書かれておらず、安定した高天原時代のことだけが描かれています。これは高天原の勝者である邪馬台国の官人が、邪馬台国時代の前に奴国時代があったことを文字として残さなかったからでしょう。また、邪馬台国が魏の国に朝貢したことも記されていません。これも、邪馬台国が魏の国の後ろ楯を必要としたことを文字として残したくなかったからでしょう。

 しかし、天照大御神(卑弥呼)が年老いてくると高天原の安定の時代は終わり、争いの時代へと突入します。争いの時代があったことは、記紀には須佐之男命の乱行として、魏志倭人伝には狗奴国との争いとして記されています。この記録が記紀に記された理由は、高天原はこの争いの勝者であり、須佐之男命を出雲に追放した結果、高天原も出雲も栄えたので、後世に残しても良いと考えたためでしょう。ただし記紀には狗奴国という敵対国があったことは隠されて高天原が孤高の存在として記されています。争いの時代の成り行きについては次回お話しします。


高橋 永寿(たかはし えいじゅ)

1953年群馬県前橋市生まれ。東京都在住。気象大学校卒業後、日本各地の気象台や気象衛星センターなどに勤務。2004年4月から2年間は福岡管区気象台予報課長。休日には対馬や壱岐を含め、九州各地の邪馬台国時代の遺跡を巡った。2005年3月20日には福岡県西方沖地震に遭遇。2014年甲府地方気象台長で定年退職。邪馬台国の会会員。梓書院の『季刊邪馬台国』87号、89号などに「私の邪馬台国論」掲載。

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事