第16回 山陰へ(2)
宍道湖の東端、大橋川のほとりに広がる松江。一定のリズムで臼に打ち込まれるズシンという大きな振動で目覚める。日本の暮らしの中で最も哀愁を誘う音。禅宗の洞光寺の梵鐘の音がゴーンと町じゅうに鳴り響き、続いて近所の地蔵堂から朝の勤行を知らせる物悲しい太鼓の音が流れてくると、今度は物売りの掛け声…「大根やい、蕪や蕪」「もやや、もや」(薪のこと)などの声が聞こえ始める。対岸に目を向ければ、小さな青い手ぬぐいを腰に引っ掛けた男女が波止場の石段を下りていく姿が見える。川で顔や手を洗い、口をすすぎ終わるや、太陽のほうへ顔を向け、柏木をパン、パン、パン、パンと4度打ち、こうべを垂れる。万年雪をたたえた高嶺、大山が望む東へ、西の杵築大社へ、さらには薬師如来の寺、一畑様へも柏手と礼拝は欠かさない。日本最古の地に住む人々は仏教徒でありながら神道も崇拝する。「祓い給え、清め給えと、神忌み給え」との彼らの呟きは、仏教伝来の前からこの豊葦原の国を支配していた古代の神々と、今なお八雲立つ出雲の国に鎮座まします神々への祈りだ。 鉄柱の立ち並ぶ長く白い橋からは、下駄のかしましい音が聞こえてくる。最近、建て替えられるまでの古い橋は何本もの橋脚に支えられ、川に弧を描いて架かるその風情は、長い足のムカデのようだったとか。300年ものあまり、この川に立ち続けていた旧松江大橋の真ん中の橋脚は「源助柱」と呼ばれていたが、それはこんな理由からである。慶長年間、出雲の大名を務めた武将、堀尾吉晴が初めてこの川に橋を架けようとしたところ、作業は一向に捗らなかった。橋杭を支える土台がうまく築けず、幾度となく失敗してようやく築けたところで、じきに橋脚が沈み出す。そこで村人らは、荒れ狂う洪水の霊を鎮めるべく、人柱を立てることにした。川の流れが最も激しい真ん中の橋脚が立つ川底に生きたまま人を埋めたのである。それが源助。マチのない袴をはいて橋を渡った最初の男を人柱にするという決まりがあったのだ。それを知らずに源助は通り過ぎてしまった。以後、月のない夜にはその柱の辺りに火の玉がちらつくようになった一方で、橋はいかなる嵐が来てもびくりともしなかった。 大橋川と天神川に挟まれた、いわば中州のような一帯が松江随一の繁華街。劇場や相撲場などの娯楽施設が集まる天神町と平行して、寺の立ち並ぶ寺町もある。その広い通りの東側には寺院がずらりと並んでおり、長い堀の笠石の上からは、青灰色の巨大な寺の屋根が美しい勾配で空を背景に伸びている。この寺町は、日蓮宗、真言宗、禅宗、天台宗が、さらには出雲では人気のない真宗(神道の崇拝を禁じている)までもが隣り合わせに仲良く共存している。これらの境内は幾世紀もの間、「鬼ごっこ」「影鬼」「目隠しごっこ」といった子供たちの遊び場でもあった。あるいは、日の長い夏の夕方には、威勢のいい労働者や筋肉隆々とした職人らが集まり、相撲に興じた。ここで誰よりも強いことに気付いた若き益荒男は、技と人気を兼ね備えた一人前の力士になりたいと夢を見るようになる。盆踊りや公の演説が催されるのも寺の境内。ここは庶民の暮らしを観察したい人には格好の場所である。 天神橋を渡り、密集した小さな通りを抜け、人の住んでいない朽ちかけた武家屋敷を幾つも通り過ぎ、湖に面した蕎麦屋にたどり着く。ここから夕陽を眺むのだ。日本の陽光は熱帯のそれとは違い、どぎつさがなく、ほのかな淡い色調である。この民族特有の染色、色彩や色合いに対する洗練された趣味は、落ち着いた、かつ繊細な自然に由来しているのだろう。日本人の自然を愛する気持ちは生け花にも示されている。「花先だけを乱暴に切り取って、意味のない色の塊を作り上げ」、自然を対象化するにとどまる西洋の造形観に対し、花の配置、生け方、花と葉と茎との緊密な関係性を十二分に把握している日本人は自然の美しさを再現できる。さらには、生け花の後ろに立ててある白や水色の屏風が照明や提灯の明かりの助けを借りて、より一層、花を鮮やかに見せることにも精通している。「屏風にくっきりと写し出される花や枝の影は、西洋の装飾美術家の頭ではとうてい思いつかないほどの美しさ」だ(引用は、ラフカディオ・ハーン『新編 日本の面影』角川ソフィア文庫、108~109ページより)。 ――――― ラフカディオ・ハーンこと小泉八雲が杵築大社(=出雲大社)へ初めて訪れたのが1890年の9月。滞在地の松江から小さな蒸気船に乗り、背後にそびえる大山に別れを告げ、以前読んだ『古事記』の伝説に胸を膨らませ、一畑山の薬師如来を右に目をやりながら宍道湖を横断し、「川辺にある、風変わりでなんとも趣きのある美しい村」(同書、122ページ)に無事到着。この荘原からは人力車に乗り換え、憧れの地へ向かった。 その135年後、当時と同じ秋晴れのなか、僕は米子から出雲へ向かおうとしている。小泉八雲の『新編 日本の面影』を携えて。冒頭で彼の名随筆「神々の国の首都」をダイジェストしてみたところ、ここにこそ彼のエッセンスが存分に示されていることに改めて気付いた。日本への賛美、西洋への批判は過度と言えなくもないが、無垢な魂と圧倒的な好奇心に裏打ちされた鋭い観察眼は日本人以上に日本の本質を突くことを可能たらしめた。ほとんど同時代を生きたマーク・トウェンと同様、若かりし頃の新聞記者生活が、旺盛かつ巧みな執筆力の基礎固めとなったか。いずれにせよ、僕にとって彼らは大いなる先輩である。 米子の朝は静かに始まった。聞こえてくるのは、規則正しいリズムで繰り返される波の音だけ。一昨日まではさぞかし風波が強かったろうに。ホテル最上階の浴場に行ってみると、やはり穏やかな光景が広がっていた。遠くのほうに何艘かの船が右から左へ、左から右へ、ゆっくりと移動している。「それは霞によって理想の姿と化した、東洋の海の夢幻とでも言ったらよかろうか。陽光を受けて雲のように金色に霞む幻の船は、どこか透き通るように見え、まるでほのかに青い光の中で宙に浮かんでいるかのようである」(同75ページ)。朝日が昇る大橋川を望みながら八雲はこう記した。僕が今、見ている船は彼が見た船と同じかもしれない。もともと極度の近視で、16歳で左目を失明した八雲。僕も最近、視力がガグンと落ちた。ときに目の前の世界が幻のように見えるときがある。北東の方角にすくっと立っている白い風車が見える。これは幻ではあるまい。現代的設備ながら砂丘の風景によくなじんでいる。体がほてるまで湯船につかっていた。 昨夜は、ほろ酔い気分がすっかり醒めてしまうほど驚いた。妻がカバンから取り出した「安来の清水(きよみず)さん」と銘打った大きなリーフレット。写真は一切使わず、すべてイラストで構成されている。瑞光山一帯に作られた清水寺。実際は荘厳な雰囲気に包まれているかもしれないが、このリーフレットからは一大アミューズメントパークといった楽しいムードを感じずにはいられない。そもそも寺社仏閣は小泉八雲が記したように、子供大人の集いの場。そうであれば、ウキウキした気分で大仏さまに会いに行ってもバチは当たるまい。聖地ウッタラカンドへ向かうインドの人々もバスの中で陽気に歌っていたではないか。根本堂、護摩堂、三重塔、宝蔵、千年杉、大山の見える展望台、石仏の三十三所巡りなど見どころがたくさん。老舗旅館も2つある。すべて回るには一日では足りないのだろう。信貴山の朝護孫子寺を2、3倍スケールアップした感じだ。よもやの電車の運休で足立美術館に立ち寄れなかったし、この清水寺は存在そのものも知らなかった。ガイドブックやネットでは情報を収集し切れない。やはり、現地へ行ってみないと分からないことはたくさんある。 本丸の出雲大社に到着する前から、再度の山陰訪問を誓うはめとなったが、逆に気楽になったとも。京都からは難儀な旅程となってしまう地だけに(交通の便の問題だけでなく、アクシデントも多い)、これが最初で最後の訪問になるのではとの悲壮感に包まれる。それゆえ一つでも多くの場所を訪れ、僅かなことも見逃さないよう必要以上に気張ってしまう。もっとも、気張っても良いことは起こらないのは馬券と同じ。物事には平常心で立ち向かうのが賢明である(と思う)。 米子駅10時25分発の特急やくも3号に乗り込んだ。安来駅を通過する際、山のほうを窺っていたが、清水寺はちらりとも見えずじまい。じきに、視界がパッと広くなった。伯太川、吉田川、そして飯梨川で形成された沖積平野である。再び山あいを走り、大橋川沿いを北西方向に進み、大きなビルがひしめいている松江駅を通過すると、宍道湖が見えてくる。湖といっても海のよう。一畑寺は対岸のずっと奥。むしろ、日本海寄りだ。しかし、出雲空港から発着する飛行機はしかと確認できた。明日の今ごろは機上の人となっているのだ。少し身震いする。 出雲市駅に到着。一旦、ドーミーインに荷物を置いて、電鉄出雲市駅へ。この一畑電車は名前の通り、一畑寺への参拝者輸送を目的として1914年に運行が開始。国鉄の大社線も同時期に開通したように当時、一畑寺は出雲大社と同じくらいに人気のあるスポットだった。国鉄大社線が1990年に廃止され、代わって出雲大社への運行を開始したことで一畑電車の重要性は増したが、依然として経営状態は芳しくないよう。1時間に1本程度の運行が物語る。駅に着くや、発車ベルが鳴り出して驚いた。あと1分ほど遅ければ1時間も待ちぼうけをくらうところだった。わずか2両の車内は人でごった返しているように、観光客だけでなく地域住民にとっても大事な移動手段。〝バタテン〟との愛称があることを初めて知ったが、今度は一畑寺へ行って見たい。北松江線と大社線の分岐点、川跡駅で乗り換え、出雲大社前駅へ向かった。 こじんまりとした駅舎ながら、出入口上部にはめ込まれている格子状のステンドグラスが何ともチャーミングだ。昭和5年の建物だという。ここからは大社まではまっすぐの一本道。新旧入り混じった店を眺めながら歩いて行くと、緩やかな坂道の上に大きな鳥居が見えてくる。これが「勢溜(せいだまり)の大鳥居」。今朝、眺めていた日本海と同じような深藍色…いや、翠色に近いか。最近、塗り替えられたかのような艶やかさだ。ここから次の「松の参道の鳥居」までは緩やかな下り坂。見晴らしがいい。 最後の「銅の鳥居」を潜ると、拝殿が待ち構えていた。大小の屋根が重なり合っているデザインは秀逸だ。大社造と切妻造との折衷らしい。かの有名な?しめ縄は案外、小さい。拝殿の後方には御本殿がデンと構えている。異邦人で初めて拝殿に上がった八雲とは違い、我々は外から、この八足門から参拝。果たして内部はどうなっているのか。こんなことを考えてはバチが当たるのか。八雲は三つの神坐があると記していたが、大国主大神の他の二つは何の神のことか。今現在は天之常立神(アメノトコタチ)、宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、神産巣日神(かむむすびのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)の別天神5柱の神、そして心御柱の近くに大国主大神の御子神である和加布都努志命が祀られているとのこと。時代によって変化するものなのか。八雲の見間違えか。 135年前には以下のような宝物も本殿内に置かれてあったという。「何百年も前のご造替の折に、礎を組んでいたとき発見された金属製の鏡、縞瑪瑙や碧玉の勾玉、翡翠でできた中国製の古笛、将軍や天皇から奉納された名刀数本、昔の名匠の手で作られた兜、フォークのような鋭利な二叉の鏃を備えた大矢の一束など」(同141ページ)。縦横10メートルも満たない正方形の敷地にそれほどのものが置かれてあったのか。出雲国造としても画期的な来訪者のために特別に用意したのだろうか。なんといっても、天皇すら入ることが許されない聖域。『日本の面影』の「杵築――日本最古の神社」には、神官長から聞いたこんなエピソードを載せている。出雲を二百五十年に渡って治めていた松平家の初代、直政候が大社に参拝した際、御神体を見ようと、制止する国造二人を振り切って内殿の扉を開いたところ、そこに立ちふさがっていたのが大きな鮑。それでも中へ入ろうとするや大鮑は全長十五メートルほどの大蛇に変身し、燃え盛る炎のような音を口から発した。直政や彼の従者らは一目散で逃げ去り、以後は神威を畏れ、篤く崇拝するようになったという。 僕も本殿への侵入は諦め、反時計回りで瑞垣(みずがき)と呼ばれる回廊沿いを歩いてみることにした。本殿の真後ろ、つまり八雲山のふもとにあるのが素鵞社(そがのやしろ)。境内で最大のパワースポットだという。社殿の床縁下の砂を持ち帰り、自宅に撒いたり、御守にするとご加護をいただけるようだが、大社から歩いて15分ほどにある稲佐の砂を持ってきて、ここの砂と交換しなければならないよう。それは知らなかった。またの機会にしよう。そればっかり。 さらに角を曲がると、数メートル先に人だかりができていた。どうやら参拝しているようだが、どうしてここに?と不思議に思ったが、はたと気付いた。御神座は西に向いているのだ。拝殿、八足門からだけでは不足、失礼と思う人たちは、ここから三度目の礼拝を行うのである。 西へと続く道を進んでいくと、神楽殿の前に出た。正面には拝殿の前のそれよりも3倍くらい大きなしめ縄が吊るされてある。その下をうろついている人間がやたらと小さく見える。千家国造家の偉大さを視覚的に訴えているのだろう。 さらに西へ進んで左に曲がると、土産物屋の隣に、蕎麦屋がある。この「八雲」の人気メニューは、小さめの三つのお椀にそれぞれ生卵、山芋、天かすが乗っかっている三色割子。要するに3種類のそばが楽しめるのだ。しかし、それぞれ食べ進み、最後に一つのお椀にすべてぶち込んでみると、これがめちゃくちゃ美味しかった。そもそも、これら3種類の食材はとても相性がいいのだ。ハナから混ぜて出せば手間が省けるのに…という考えは野暮なのか。 さて、実のところ、大社訪問後の旅路は計画していなかった。現地情報がイマイチ掴めなかったからだ。果たして大社でどれほどの時間が掛かるのか、その周辺を回るためにはいかなる交通手段があるのか。一つ分かっていたことは、バスや電車の運行便数がとても少ないこと。もっとも、蕎麦屋のすぐ先がバスターミナルだったので、とりあえずこれを使わない手はない。少しだけ出雲市駅方面にバスで10分ほど戻ったところに「島根ワイナリー」があるので行ってみることにした。とかく僕はワインには目がない。 無料の試飲コーナーでは「葡萄神話」という名の白ワインをグイっといく。ほんのりとした黄色、柔らかい口当たり。和食に合いそうだ。「縁結」という少々、値が張るワインも飲んでみたかったが、こちらは有料とのこと。またの機会とした。ここはワイン工場はもちろん、バーベキューハウスやビストロレストラン、そしてスイーツショップまで完備している。眺望の良いオープンテラスで巨峰ソフトクリ-ムをいただくことにした。まろやかな味わい、なめらかな食感が素晴らしい。 旅に出るまでは山陰は涼しいのではないかと期待していたが、実際は京都とあまり変わりなく、日差しも厳しい。連れは体調がすぐれないことも重なって少々、お疲れ気味だ。とはいえ、ワインとアイスで体力が回復してきたし、まだ2時半。ホテルに帰るにはまだ早い。大社の次にお目当てだった日御碕(ひのみさき)神社に今から行って、夕食時間までに出雲市駅へ帰れるかどうかマップで調べてみたら、8時くらいの帰宅となってしまう。「これは厳しいなあ」とため息をつくや、「いや、行ける。2時47分のバスでターミナルまで戻って、日御碕灯台行きのバスに乗り換える。神社に到着するのが3時30分。滞在時間はそれほどないけど、帰りの4時20分のバスに乗れば5時36分に出雲市駅に着く」と連れが紙切れを凝視しながら答える。どうやら、ホテルのロビーで僕が荷物を預けている間に、市内マップとバス時刻表を入手していたよう。僕が口をあんぐりさせて驚いていたら「携帯ばっか見てんじゃねーよ」と、チコちゃんばりに叱りつける。はい、ボーッと生きてました。これから改めます。 大社駅を出ると、じきに海岸が現れた。「あれが稲佐の浜だよ」「へえ、意外と近くにあったのね」「うん。ほら、あの小島、鳥居が立っている」「神社があるのね」。これが有名な弁天島であり、沖御前(おきのごぜん)神社。この浜辺の奥には、大国主大神と建御雷之男神が国譲りの交渉を行ったという屏風岩があるよう。出雲神話の要所。ここも再訪必至である。 ここからは丹後さながらの沈水海岸。くねくねと入り組んだ隘路を上っていく。案の定、連れは左側の崖から目を背ける。比叡山に向かうバスの中でも怖がっていたのだから、さすがに今回は彼女にとっては深刻な事態だろう。おそらく灯台近くの星野リゾートに泊まりにいくのだろう、前方に着席していたハイテンションな若い女性とは大違いである。 日御碕神社では他には誰も降りなかった。我々二人、坂を下りながら海辺近くまで歩いていく。松林に囲まれた朱色の楼門が鮮やかだ。すぐ正面に、天照大御神が祀られている「日沉宮(ひしずみのみや)」が現れる。天平7年の乙亥の勅には「伊勢神宮が日本の昼を守り、「日沉宮」が夜を守る」と記されているという。右手にある小山のてっぺんには素戔嗚尊が祀られている「神の宮」があり、その奥には稲荷神社がある。海と山のわずかな隙間に作られた聖地。ものの10分もあればすべてを見回ることができるが、逆に凝縮された構成が歴史と神話の重みをいっそう強く感じさせる。 再び来た道を戻る。またもやバスターミナルで小休止。「お腹が減ったなあ」と呟くと、「これならあるけど」とカバンの中から取り出したのが一個のどら焼き。「昨日、足立美術館で美味しそうだから買っておいたの」。安来の清水さん、バス時刻表、そしてどら焼き…彼女のカバンはドラえもんのポッケのよう。いろいろと優れたものが入っている。八雲の妻、セツさんも頼れる存在だったようだが、人生や旅にはお供がやはり大事。お茶を買ってきて、半分に割って、ゆっくりと咀嚼して愉しんだ。 島根ワイナリーから先は初めての風景だ。山際を走る一畑電車とは違い、バスは町中を突き切る。牛舎のすぐ脇を通る。すると、あの特有の匂いを何倍にも濃縮したかのような暴力的な一陣が車内に流れ込んできた。20代と思しきカップルはゲラゲラと笑い転げている。その気持ちは分かる。これは間違いなく負の経験とはいえ、度が過ぎると、もはや怒りや悔いは沸いてこない。いや、怒りや悔いを払拭するべく、笑うしかないのか。もっとも、我々のすぐ斜め前に座っていた老夫婦はそれまでの態勢をいささかも崩さず、黙ったまま前方を見続けている。特別なことは一切、起きていないかのように。これが老人力というものか、臭い物に蓋をする才能もときとして必要か。何はともあれ我々は、彼らの境地に至るまでにはもう少し時間が掛かりそうである。 虎石 晃 1974年1月8日生まれ。東京都立大学卒業後は塾講師、雑誌編集を経てデイリースポーツ、東京スポーツで競馬記者を勤める。テレビ東京系列「ウイニング競馬」で15年、解説を担当。著書2冊を刊行。2024年春、四半世紀、取材に通った美浦トレーニングセンターに別れを告げ、思索巡りの拠点を京都に。趣味は読書とランニング。

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